MadMoon〜月は私を狂わせる〜

第10話

 

 追いかけても追いかけても、男には全く近づくことができない。全速力で走ったのは久しぶりだとケビンは思った。
それなのに、男の背中は近づくどころか遠のいていっているように感じる。
 どれくらい走ったのかもうわからない。この路地はこんなに長かったか? ケビンがそう思い始めた時だった。
ピタリと、金の尾の揺れが止まった。立ち止まったのだ。釣られて、ケビンも足を止める。
それを確認したかのように、男はこちらの方を向く。日も差し込まない暗い路地に男が二人。
ケビンは何と切り出せば良いのか戸惑ったが、男の方から口を開いてきた。
「やはり知りたいのかい?」
 ゆっくりと、こちらの方に引き返してくる。男の足元はまだ半透明で、それは歩くというより浮いて滑っているという表現の方が近いのかもしれない。
 ケビンは肩を大きく上下に揺らし、呼吸を整えようとする。
自分はこんなにも息が荒れているというのに、どうしてこの男はこんなにも普通でいられるのだ?
 ……いや、そんなのはわかりきったことだった。
「そう言えば……君は狩人をしているんだってね?」
 ふと思い出したかのように男がそんなことを聞いてくる。どこからそんな情報を仕入れたのだ。ケビンは不思議に思うが、それを顔に出さずに眉根を寄せた。
「だったら何なんだ」
 明らかに不快そうなケビンの声を聞いて男は口元に笑みを浮かべた。
「いやいや……気を悪くしたのなら謝るよ。ただ、ミッシも吸血鬼を殺していると聞くといい気がしなくてね、やっぱり、父親としては」
「今更お前が姉さんの父親面をするのか!?」
 ケビンは声を張り上げる。バサバサッと側に置かれたゴミ箱から数羽の鴉が飛びさっていった。
 男は反論するどころか、その通りだと言わんばかりに大きく頷いた。
「そうだね、君の言う通りだ。今更私があの子の父親と名乗り出る資格はないのかもしれない。あの子も、私を父だとは認めたくはないみたいだからね」
 当たり前だ。ケビンは胸中でそう吐き捨てた。そんなことを、認めてたまるものか。両の拳を強く握り締める。
「でも……」
 そう言い、男はそっと目を伏せた。
何か悲しいことを思い出したかのような、憂いを帯びた瞳。
「君とあの子がどれだけ認めたくないと思っても、私はあの子の父親なんだよ。あの子を捨てたことは、本当に悪いと思っている。唾を吐きかけられても仕方がないと思っている。……でも、やはり親として、あの子のことは心配なんだ……それだけは、わかってもらいたい」
 ケビンのほんの数メートル前まで辿りつくと、男は歩みを止め、ロングコートの中から手を出す。
雪のように白く、棒のように細い手。
「私の血はあの子の体には大きすぎた」
 取り出した手を空高く掲げる。その瞬間、空から眩しい太陽の光が惜しげも無く差し込んでくる。
その光は暗闇に慣れてしまった目には少々きつく、ケビンは思わず目を閉じてしまう。男は続けた。
「太陽の光を浴びても灰にならない……」
 さっと、日の光が消えた。ケビンは目を開ける。男は静かに自分の手の平を見つめていた。
「……何も太陽の光を浴びて灰にならない吸血鬼はお前だけじゃない」
「そうだね。その通りだよ。太陽の光が平気な吸血鬼もいれば、聖水を浴びても大丈夫な吸血鬼もいる。どうしてそんな様々な吸血鬼がいるのかだなんて、私達にもわからない。ただ……」
 その瞬間、男の姿が目の前から消えた。が、今度はケビンもさほど驚きはしなかった。
男が次にどこに現れるのかわかっていたからだ。
「血を飲まない吸血鬼はいない……」
 冷たい手と生暖かい息が、ケビンの首筋に触れる。動揺しまいと思っていたが、背筋をわずかにビクリとさせてしまった。
「これはミッシのものだろう?」
 男はケビンの首筋に触れながらそう聞いてきた。もう、傷痕はほとんど見えないはずなのに。
「ミッシは君からしか血を摂取していないらしいね。飲み始めたのはいつ頃だい?」
 ケビンは答えなかった。男はやれやれと言った風にケビンの首から手を離す。
「きちんと答えておいた方がいいと思うよ。……それが君の聞きたいことに繋がるかもしれないからね」
 次の瞬間、男はまた先ほどまでいた位置に移動していた。
「……何……?」
 ケビンは頬を汗が伝うのを感じた。男のこの不敵な笑みを見ていると何かを持って行かれそうな気がしてしまう。
「もう一度聞くよ」
 男は唇に人差し指を立てる。
「ミッシが初めて血を吸ったのは、いつのことだい?」
 男の目は、真っ直ぐにケビンを凝視していた。
ケビンはまるで蛇に睨まれた蛙のようにその場から動くことができなくなっている。
 恐怖。それが、今のケビンの全身を駆け巡っている感情。
「……十五……」
 恐る恐る、といった風にケビンは口を開いた。男は満足そうに頷く。
「頻度は?」
「月に一度か二度……」
「量は?」
「一口か二口……」
 暗示をかけられた感じがした。
男の声に拒むことができずスラスラと何でも話してしまう。心臓を鷲掴みにされてしまったかのような気がして、ケビンは胸元をぐっと押さえた。
「そうか、もう十年も経っているのか……。少し意外だったな。もっと後だと思っていたよ」
 一人だけ納得したようにうんうんと頷く男を、ケビンは全身汗だくになりながら見ていた。
この男は、やはり姉さんに似ている。そう思うと、どうしてもあの衝動に駆られてしまうのだ。
 あの細い首を締めたらどんな顔をするのだろう。
「でも……君の体はそれで大丈夫なのかい?」
 男の一声が、ケビンを現実に引き戻す。
「吸血鬼に血を吸われ、生き延びた人間の末路を……君は知らないわけではないのだろう?」
 これにはケビンはゆっくりと首を横に振った。
男は意外そうにほぉ、と呟く。
「そうか、知らなかったのか……」
男は軽く握った拳を口元にやり、肩を軽く上下に揺らす。
一体何がおもしろいのだ。ケビンは男の態度に無償に腹が立ってしまい、思わず食いかかってしまいそうになる。
だが、その感情を、両手を握り締め歯を食いしばることでどうにか堪える。男がこれから先に口にすることは、恐らくケビンが今最も欲する情報だから。
男はそんなケビンの態度を見透かしたように小首をかしげさせ、口に弧を描いた。
「……私だよ……」
 男の唇から紡がれた言葉を、ケビンは一語一句間違えることなく聞いていた。
頭の中が、真っ白になっていくのがわかった。
 え? ケビンは思わず男に聞き返そうとした。
どんどん深くなってゆく男の笑みを見て、それ以上何も考えられなくなってしまっていた。
この思考を切断し、両の耳を切り落としてしまいたいとさえ思った。だが、男は容赦なく言葉を続ける。
それは、ケビンが最も知りたいと思い……知りたくないと、思った事実。
「私が吸血鬼に噛まれて生き延びた人間の末路なのだよ……」


 こんなにも自分の聴覚の良さを呪った日はなかった。こんなにも、自分の存在を疎ましく思った日はなかった。
 ケビンがこの路地に入ったところまでは確認できた。だが、ミシェルもそこに入るとすでにケビンは姿を消していたのだ。
この一本道だ、見失うはずはないと追いかけたのだが、進めば進むほど自分の五感が狂わされているような感覚に襲われる。
自分がどこから来たのか、どちらの方向に歩いているのかさえわからなくなってしまう。その時にミシェルは気がついた。閉じ込められた、と。
それも、とても強力な結界だと思った。目標物を閉じ込めるだけでなく、五感を狂わせる作用まで伴っている。これはただの人間が作れる代物ではない。
ケビンは一体誰を追いかけていたのだ? 一度引き返してしまおうかどうしようか悩んでいる時だった。
ずっと遠くの方から。微かにケビンの声が聞こえたのだ。その時はまだミシェルは自分の聴覚の良さを嫌いもしなければ疎みもしなかった。
その微かな声をたよりにミシェルは先に進んだ。進むにつれてケビン以外の、他の人間の声も聞き取れるようになってきた。
それが、ケビンの追いかけていた人物だろう。ミシェルは歩みを進めた。しばらくして、ミシェルはケビンを見つけた。……自分の、父親と共に。
 それを人は偶然と言うのだろうか。自分に背を向けている弟。睨むように弟を見つめている父。
 ミシェルは愕然としながらその場に棒立ちになっていた。
 男は語りだした。

「私は百五十年ほど前にこの世に生を受けた。平凡な家族がいたよ。とても平凡な……ね。人はその家族を『幸せな家族』と呼んだだろう。高給取りではないが、暖かい父。少し不器用だが、優しい母。弟想いの、世話焼きの姉……。それが私の家族だった。だがね、私には物足りなかったのだよ。『何が?』と聞かれても、多分答えられなかっただろう。何が足りないのか、自分でもよくわからなかったんだよ。ただ一つだけ言えるとしたら……そう、とてもつまらなかったんだよ。平凡すぎる毎日が。
 そして十六の時だった。私は一人の吸血鬼に出会った。どういう経緯で出会ったかはもう思い出すことはできない。だが、私は彼に出会った。赤い瞳、黒い髪、長い牙……それは噂に聞いた通りの吸血鬼だった。彼は私に襲い掛かろうとした。普通の人間なら、そこで悲鳴をあげるかその場から逃げようとするかのどちらかの行為をするのだろう。
だが、私はどちらもしようとはしなかった。何もしようとしなかったんだ。その吸血鬼を見ても悲鳴をあげて逃げ惑うどころか、微笑んだのだよ。もう、どうでも良かったんだ。生きることが。このまま無意味にダラダラと生きていくなら、このまま死んだほうが有意義だと考えたのだろうね。我ながら恐ろしい少年時代だと思うよ。そして、私は自分から彼に首筋を差し出したんだ」
 そう言って、自分の首を指差す。
その白く今にも折れてしまいそうな細い首。ケビンにはその吸血鬼の気持ちがよくわかる。この首を締めたら、相手はどんな顔を見せてくれるのだろうか……?
「だが、彼の動きはそこで止まった。私みたいな行動をする人間に会ったのは初めてだったそうだ。……まぁ、当たり前と言えば当たり前だろうけどね。自分から血を吸われに行く人間など、君と私以外にはいないだろう。
私は、彼に全てを話した。その時ばかりは彼が吸血鬼だということを忘れていた。彼は父よりも母よりも、誰よりも自分のことを察してくれると思ったから。私の話を聞き終えた後、彼はこう言ってくれたよ。『私と契約を交わさないか?』とね……。
とても簡単なことだった。私の血を与えればよかったんだ。ただ、量が違う。普通の吸血鬼がするように全て飲み干してしまうのではない。ほんの少しだけ分け与えればいいのだ。私は再び彼に首筋を差し出した。彼は美味しそうに私の血を飲んでくれたよ。そして、彼の牙が私の首から抜かれた時……
 全てが、始まったんだ」
 一瞬、強い風が男とケビンの間に吹き抜ける。
「症状が出たのは二十五の時……。人を殺したくて堪らなくなったんだ」
 男の言葉にケビンは身体をビクリとさせて反応する。男はそんなケビンを嘲笑うかのように眺めていた。
「最初に殺したのは家族だったよ……。いいものだね、全てが赤に染まる瞬間というのは。まるで赤い花を咲かせるように両親と姉は死んでいったよ。まだ血の飲み方をよく知らなかったからね、少々荒い行動に出てしまったんだ。
……朽ちていった家族の姿を見て、何とも言えない感情が込み上げてきたよ。そして、その日から私の身体は時を止めた」
 次の瞬間、男の口が不気味なほどにニヤリと開き、長い牙が顔を出した。
金の目が、だんだん深紅に染まってくる。
 ケビンはふと昔のことを思い出した。
それは、姉が両親を殺した時のこと。全てを赤に染め両親を惨殺した姉の姿。……あの時の姉は、自分をも殺そうとして……
「私は吸血鬼になったのだよ」
 男の言葉がケビンを現実に引き戻した。男の口は閉じられ、赤い瞳は元の金色を取り戻している。男はそっと目を伏せた。
「どうだいケビン君。これが君の知りたがっていた……真実だ」

 

第9話へ  第11話へ  戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送