MadMoon〜月は私を狂わせる〜

第8話

 

(姉さん?)
 こうなることは、何となく予測できていた。だから、当時十一歳だったケビンは、対した驚きを見せなかった。
 部屋に広がる血の海。そこに転がっている二つの死体。それは、かつてケビンの父と母だった肉の塊。二人の無残な姿を見ても、ケビンは顔色一つ変えない。
 元々、この二人は嫌いだった。
何かと姉を殴る父。それを見てみぬ振りをする母。
父は決して自分には手をあげない人だった。それに、ケビンの見ていないところで姉に暴力を振るう人間だったので、幼い頃のケビンは姉が虐待されているということなど微塵も知らなかった。
それを知ったのは、姉が吸血鬼なのだと知らされた時。ケビンが外から返ってくると、姉が父に殴られていたのだ。
ケビンはもちろん父を止めようとした。が、父はケビンに構わず姉を殴りつづけていた。昔から姉がよく怪我をしているのをケビンは見てきていたが、姉はその度に『私ってドジだから』と笑って言うので、それ以上は詮索をしなかった。
それなのに、父が床で丸くなっている姉を殴り、蹴り飛ばしているのだ。
ケビンは、その時は自分の体の中にこの男の血が流れていると考え、本気で吐き気を催した。
 その時から、父が嫌いになった。必要な時以外は父には近づかず、できるだけ姉のそばにいるようにしてやった。
だが、その日は剣の師匠に呼ばれてどうしても家を出なければいけなかったのだ。仕方なく家を出て、師匠の用事を早く済ませて戻った。
だが、家に一歩入った途端、妙に寒気と無駄に広がる静寂を感じた。そして、鼻を異様な血の臭いが突き刺す。
あぁ、ついにこの時が訪れてしまったか。その時の、ケビンの心情はそんなものだった。
だから、目の前の父と母の死体を見ても、恐怖どころかもっと他の違う感情が涌き出ていた。
その両親の肉塊の上に立っている一人の少女。その少女の顔を見たとき、そこで初めてケビンは表情を変えた。
 全身を血に染め、白目と黒目が逆転した瞳で自分を睨み付けながら口をニヤリと開ける姉がそこにいたのだ。
 だが、驚くのと同時に、そんな姉を美しいと思ってしまった。深紅のドレスを纏ったこの姉に敵う女はどこにもいないと、心からそう思った。
 姉が床を蹴り、ケビンに飛びついてくる。しかし、ケビンは抵抗しなかった。壁に叩きつけられ、今にも自分の首に噛みついてこようとする姉の顔を見ても、何の感情も沸いてこなかった。
 ケビンは姉を抱きしめた。抱きしめられたことは何度もあったが、抱きしめたのはこれが初めてだったかもしれない。
自分より幾分か背の高い姉を小さなその手でぎゅっと抱きしめる。血の粘った感触が手に伝わってくるが気に止めない。
ケビンはミシェルを強く抱きしめた。そして、その時だった。
(……う……うぅぅ……)
 姉がケビンの首から口を離した。まだ、その牙はケビンの皮膚を貫いてはいない。ケビンはそっと姉の顔を覗き見た。
 泣いていた。姉は、ケビンの肩に手を回し、子供のように泣きじゃくっていた。
(あぁぁぁぁぁぁぁ!!)
 姉の涙を、ケビンは止めることができなかった。
ただ、その背を何度も何度も優しく擦ってやった。
 その日の夜、街で火災が発生された。燃え上がったのは、ミシェル達が住んでいた家。誰もが一家心中だと思っていた。
燃え後から姉弟の両親の遺体しか発見されなくても、誰も姉弟の行方を追おうとはしなかった。
それほど、街の人達はこの家族に関心を示さなかったのだ。その日から、姉弟は姿を消した。
二人は何ヶ月もの歳月をかけ、自分達の過去を誰も知らない街へと辿りついた。
幼い姉弟二人だけで生きてゆくということは、とても辛いことだった。だが、前の家から持ち出したわずかな金で何とか生き延びていった。
そこでもケビンは新たな剣の師匠を見つけ、吸血鬼に対して偏見を抱かないその師匠の厚意に甘え、下宿をさせてもらえるようになったのだ。
 二人は、新しい生活をスタートさせた。街の人からは相変わらず吸血鬼だということで罵られたが、もう自分を殴る人間がいないというだけでミシェルは幸せだった。
義父のことも、母のことも忘れ、ここでずっと過ごしていきたいと思った。
ケビンが十八の時、師匠がこの世を去った。彼の遺言により、ケビンとミシェルは師匠の家を譲り受けることになった。
もう、二人は完璧に街の住人になっていたのだ。
 ……そう、二人はいつも一緒にいた。
 寒い時は二人で寄り添いあい、体を暖めあった。
 その頃から、ケビンは姉に血を与え始めるようになっていたが、その事実を知る者は誰もいない。
 俺だけが我慢をすればいいのだ。
 そうしたら、もう姉が苦しむことはない。
 そう思っていたのに。


 片膝をついたケビンが差し出した右腕を、ミシェルは食い入るように見つめていた。
 額からは大粒の汗が滲み出ていて、顔は熱のためかひどく紅潮している。ミシェルの右目は、また白目と黒目が逆転してしまったようになっていた。その右目だけが不気味にぎょろりとケビンを睨み付ける。
だが、ケビンは物怖じしなかった。ミシェルの両手が、ケビンの右腕を掴む。その腕の骨が折れてしまいそうな、いつもの姉とは明らかに違う力にケビンは顔を歪めた。
みしり、と骨が音をたてる。ミシェルの右目がまたぎょろりと動き、今度はケビンの右腕に視線を移す。そして、一気に右手首に噛みついた。
「!!」
 骨を直接割られたような激しい痛みに襲われ、ケビンは苦痛に顔を歪め、声にならない叫び声をあげた。
ミシェルはむさぼるようにケビンの手首から血を吸い上げている。ケビンは苦痛に歪んだ目でその姉を見る。
獣のように自分の腕に噛みついている姉の姿を見て、ケビンはどうしてこんなことになってしまったのだろう。と唇を噛み締めた。
……そう、全ての元凶はあの男だ。
 あの男が去ってから、まだ小一時間ほどしか経っていない。
あの後しばらくケビンは体を震わせる姉を抱きしめていたが、しばらく経って姉の体が異様に熱くなっているのを感じた。
見ると、ミシェルが荒い息を吐きながら顔を真っ赤にさせていたのだ。
ケビンはそのまま姉を抱き上げて病院まで戻り、ベッドに寝かせた後、ケビンは彼女の体の異変に気がついた。
それがあの右目だ。ミシェルは左目を閉じたまま右目だけを開き、じろりとケビンの体を舐めまわすように見つめた。
ケビンはスーツを脱ぎ、右腕のシャツを捲くりあげ、ほとんど無意識の内に姉に右腕を差し出していた。
しかし、その時に左目も開いた彼女は、ケビンの右手と顔をゆっくりと交互に眺め、少し躊躇している様子を見せた。
しばらくはケビンの顔をじっと見つめていたのだが、十分ほど経過した後、我慢ができなくなったのか上半身を起こして今の行動に至ったのだ。
 いつもより明らかに多く血を吸われていることが自分でもわかる。ミシェルは一滴の血も漏らさずに、舌を使って傷から流れ出てくる全ての血を吸い上げていた。この、とてもとても甘い血。この血がミシェルは大好きだった。
遠い昔に初めて吸った時から、ミシェルはこの血の味の虜になっていた。自分と同じ母から生まれた人間。自分と同じ血を半分宿す、異父弟。
ミシェルは自分の本能に狩られるまま、ケビンの血を吸いつづけた。だが、心の奥底に閉じ込められていたミシェルの理性が目を覚ます。
「……っ!」
 ミシェルは突き飛ばすようにケビンの腕から手と口を離した。
「ぐ……」
 ケビンはその場で眩暈を起こした。その血の気の引いた弟の顔を見て、ミシェルは焦りの表情を隠すことができなかった。慌てて、倒れそうになる弟の腕を掴んだ。
人の暖かさのある姉の手。その手の温もりを感じながら、ケビンは軽く頭を振った。
「ご……ごめんねケビン! 私ったら……。大丈夫!?」
 心配そうに自分を見下ろす姉の顔。その右目はいつもの姉のものだった。
ケビンはほっと安堵の息を漏らす自分と、心の中で舌打ちをしている自分がいることに気がつく。
 ミシェルは慌ててコートのポケットを探り、赤いチェックのハンカチを取り出す。それを惜しげも無くケビンの手首にぎゅっと巻きつけた。
「いいよ、そこまでしなくても……」
「ダメ。吸血鬼が噛んだ後はしばらく血が止まらないんだから……」
 吸血鬼の唾液には血を凝固させない成分が含まれているのだ。ミシェルはこれでもかというほどきつくハンカチを巻き、溜め息をついた。
申し訳なさそうにしゅんとうなだれる姉を見て、ケビンは軽く右手首を曲げ伸ばしさせてみる。
「大丈夫だよ。もう、痛みはほとんどないから」
笑ってそう言ったが、ケビンは心の中で溜息を吐いていた。この失血量は、どうしようか。
先週も通常の倍以上の量を吸われ、今も同じほどの……いや、それ以上の血を吸われた。このまま立ちあがったら貧血を起こしてしまうのではないか?
そんな心配をしている時、ミシェルがケビンの顔色を伺うようにじっとこちらを見つめていることに気がつく。ケビンは優しく微笑んだ。
「俺は大丈夫だから。それより姉さんの方が心配だよ。やっぱり熱があるみたいだから、ゆっくり休んでなよ」
 そっと姉の肩を押し、無理矢理ベッドに寝かしつける。
ミシェルは何だか小さい子供になってしまったような気がして、少し恥ずかしくなってしまいくすりと笑って見せた。
だが、その笑顔をすぐに消沈させる。その落ち込んだような表情。それこそまるで小さな子供のようなものだった。
「……聞かないんだね」
「何を?」
「あの男のことを」
「…………」
「わかってるんでしょ? ケビン」
 ミシェルは再び体を起こした。ケビンが寝かせようと手を伸ばすが、ミシェルはその手を払いのける。真剣な眼差しで、ケビンの目をまっすぐに見つめた。
「あの人は、私の父親なんだよ」
 その言葉を言うのに迷いはなかった。
ケビンも表情を決して変えようとはしなかった。
「姉さんは姉さんだよ」
「でも、あの人が今回の事件を引き起こしてるんだよ? 私の父親が」
 ケビンは胸の奥を指で撫でられたような感触を覚える。
この姉は、どうしてこうもはっきりと物事を聞くことができるのだろう。
「あの男が姉さんの父親……それはわかった。でも、それで姉さんは何か変わるの?」
 ケビンは静かにそう聞いた。
窓から月光が差し込み、姉の顔を蒼白く照らし出す。
伏せ目がちにされた姉の目がゆっくりと開かれた。
「……何も変わらないよ。……うん、何も」
 一度目はケビンを安心させるため。そして、二度目は自分に言い聞かせるためにミシェルは呟いた。
自分で言った呟きに自信を持てたのか、ぱっと明るい笑みを浮かべる。
「本当に心配掛けてごめんね……今日はもう休もうか。ケビンはどうする?」
「俺は宿に帰るよ。姉さんは安静にしててくれよ」
 そう言うと、ケビンはゆっくりと立ちあがった。途端に目の前が真っ白になる。頭がクラッとした。
「……」
 しかし、そんな様子は微塵も見せず、ケビンはしっかりとした足取りで扉の方に向かった。姉の前で、弱い所は見せられない。
「じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみなさい」
 ミシェルはケビンに向かって軽く手を上げる。
ケビンも笑顔でそれに答え、静かに扉を閉めた。
 一人残されたミシェルは、扉が閉まった途端に真顔になり、しばらく上げた手を下ろさないでいた。
……考えていることは、もちろん先ほどのこと。ミシェルは上げた手をそのまま布団にもってゆき、ばふっと音を立ててベッドに寝転んだ。
 じっとしていると、たくさんのことが頭を駆け巡った。
昨日と今日で色々なことがありすぎた。考えるだけで頭が痛くなってくる。
 金の目の男。死の前に夢を見せてくれる吸血鬼。
 私の、父親。
 ミシェルは頭まで布団を被せた。何も考えたくなかった。
……先ほど、私は弟に何をしてしまったのだ?
血が、とても美味しいと思った。今まで食べたどんな食べ物よりも美味しいと感じてしまった。
自分にもやはり吸血鬼の血が流れているのだ。そう思うと今更ながらとても恐ろしく感じてしまった。
『ミッシ。君の命の糧はその男なんだね?』
 月の瞳で自分を見下ろす父親の声が頭に甦る。
 ミッシ。男はミシェルのことを確かにそう呼んでいた。
お互いをミドルネームで呼び合うのは、吸血鬼にとっては当たり前のこと。彼は、ミシェルを仲間であると認めているのだ。
それを思うと、余計に怖かった。
『また明日……迎えに来るよ』
 あの男の目がミシェルは嫌いだった。
母親の言っていた通りだったのだ。本当に、あの瞳は月を連想させてしまう。それがとても怖かった。
それに、あの瞳は怖いほどミシェルに似ていたのだ。同じDNAの産物だと、わかるほどに。
 明日、自分はどうすればいいのだろうか。行くのは怖い。でも、行かなければ他の人間が犠牲になってしまうかもしれない。
……けれども、あの男の前で、ミシェルは今日のように強気でいられるのだろうか……?
また、ケビンに迷惑を掛けてしまうかもしれない。また、弟の血を飲みたくなってしまうのかもしれない。
いつもは月に一度だったのに、最近血を飲む回数、頻度、摂取量が明らかに増えてきている。
 自分が一体どうなってしまうのか……。考えるだけで寒気がした。
このまま、身も心も吸血鬼のようになってしまうのではないか。
 全ての現実から逃れるかのように、ミシェルは目を瞑った。何も考えなくてもいいように、眠りを誘おうとした。
 しばらくして、今までの疲れがどっと出てきたのか、すぐに心地よい眠りに襲われ始める。朦朧とする意識の中、ミシェルはふっと思い出した。
 そう、あれはミシェルとケビンが今の街に辿りついた時のこと。初めてミシェルがケビンから血を貰った時のことだ。
弟の手首から血を吸い上げた後、ケビンはミシェルにこう言った。
(姉さん。俺以外の人からは血を飲まないでくれる?)
 ミシェルはケビンの手から口を離した。
(どうして?)
(他の人に迷惑を掛けたくないだろ? だから……)
 うつむき加減に呟く弟の顔を見て、ミシェルは目を伏せてしまう。
 これは、ミシェルもお願いしようかと思っていたこと。
私はもう血を飲まないと生きられない生き物になってしまった。でも、他の吸血鬼のように誰彼構わず襲う吸血鬼には、決してなりたくない。
……だから、ほんの少し、月に一度だけでいいから、あなたから血を飲ませてくれない? と……
 ひょっとしたら、ケビンがそんなミシェルの心情を察して言ってくれたセリフだったのかもしれない。
でも、それでも、今のミシェルには誰から血を摂取するのかはとても大切なことだった。ミシェルはその時弟に約束したのだ。私は他の吸血鬼のようにはならない。私はあなたからしか血を飲まない。
小さな小指と小指を絡ませ二人はその日、血の契約を交わした。
 そして、その年からミシェルの成長が止まった。しかしこれは今までの十五年間血を飲まなかった反動だとわかっていたのでさほど心配はしなかった。
 だが、十年経った今も、ミシェルの成長は止まったままだ。ミシェルは嫌な予感がしていた。
吸血鬼は、永遠の時を生きる生物。ある一定の期間を過ぎると成長を止めてしまうのだ。もしかすると、これはそうなのではないか……?
 そんなことはない。私は約束したのだ。ケビンと、吸血鬼にはならないと。
 そう、明日、全てをはっきりとさせよう。あの男と会って、全てのことに決着をつけてしまおう。
……私は、他の吸血鬼とは違うのだから……
 ミシェルは暗い闇に包まれるかのように眠りに落ちた。

 

第7話へ  第9話へ  戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送