MadMoon〜月は私を狂わせる〜

第7話

 

 つんと鼻を突く消毒薬の匂い。それが頭痛を少しだけ和らげてくれたような気がして、ミシェルはぼんやりと目を開けた。
「…………」
 白い壁が目に入った。電気は付けられておらず、白いカーテンがかかった窓の外からも光は漏れていなかった。どうやら夜らしい。
ケビンと一緒に広場に行ったのが昼頃だったから、八時間以上は眠ってしまったのだろうか? ミシェルはまだ痛む頭を押さえながら体を起こした。その時、
「姉さん?」
 どこかで聞いたことのある声が聞こえた。
 その声が、先ほどの夢の中に出てきた少年の声とあまりにも似ていたので、ミシェルは驚いて声の方を向く。
「起きたんだ。良かった……」
 そこにいたのは、手に紙袋を下げた弟。ミシェルはほっと安堵の息を漏らす。それと同時に、少しだけ恐ろしくなった。
「びっくりしたよ、突然倒れるんだから……。最近体の調子が悪いんだろ? 無理しないでくれよ」
 言いながら、部屋の明かりをつける。途端に、部屋に眩しい光が溢れた。ミシェルは少しだけ目を細める。
「ゴメンね心配かけて……。大丈夫、ちょっと太陽の下に居すぎたせいだと思うから」
 無理矢理笑顔を作ってみせる。ケビンは苦笑いを浮かべてミシェルのベッドの横に置かれている椅子に座った。手に持っていた紙袋を、姉の前に差し出す。
「? 何?」
「姉さんの仕事着。エマに頼んで洗ってもらってたんだ」
 紙袋を覗き込むと、着てきた仕事着が丁寧に畳まれて入れられていた。
そこで初めて、ミシェルは今自分が白いパジャマに着替えていたことに気づく。
「エマが……そうなんだ。迷惑掛けちゃったなぁ……」
「本当にそう思うんなら早く元気になってエマの前に顔見せてやれよ。あいつも心配してたから」
「そうだね……明日には治ると思うから。大丈夫」
 紙袋をベッドの下に置く。
「じゃ、今日はゆっくり休みなよ。オレは宿に戻るけど……大丈夫?」
「大丈夫よ。そんなに心配しなくても、子供じゃないんだから」
 ミシェルは布団を被りなおしながら笑顔を見せる。今度は自然な笑顔を向けられた。
それを見て安心したのか、ケビンも立ちあがる。
「明日も調子が悪いんだったら無理しなくてもいいから。……今回の事件は俺一人でも片付けられると思うし」
「うん。期待してる」
 パチッ、と部屋の明かりが消された。
ケビンが出ていき、再び無言の空間が訪れた。ミシェルはぼうっとしたままごろんとうつ伏せに寝転がる。枕を抱きしめたまま、じっと白い壁を睨み付けていた。
 考えているのは、昼間倒れたときのこと。確かにミシェルは誰かの視線を感じ取っていた。元々勘が鋭い方だったし、あそこにいた街の人達とは明らかに違った視線だった。
何と言うか、殺気立っているのだが、それとは違う暖かさのようなものも入り混じった視線だった。
その視線はあの広場からではなく、街の入り口にある、時計台の頂上から感じ取られたのだ。
あんなに遠くから肉眼でミシェルに視線を送ることが人間にできるとは思えないし、そもそもあんな場所にいるということ自体がおかしい。
後少しで確認できたのに……。ミシェルは頬を膨らませた。
「……あの視線……前にどこかで……」
 呟きかけた、その時だった。
「!」
 ミシェルは文字通り飛びあがるようにベッドから跳ね起きた。頭の中を直接殴られたような痛みが襲ってくる。あの視線だ。また、あの視線が感じ取れたのだ。
「…………」
 心臓の鼓動が早くなる。額から汗が滲み出てくる。荒い息を漏らしながら、窓を睨み付けた。
 いつのまにか窓は開き、カーテンが風に揺られていた。
 窓が開く音なんてしなかったのに……。ミシェルはごくりと唾を飲む。
 風に揺れるカーテンが、自分を手招いているように見える。冷たい風に揺れ、時折明るい月夜を覗かせた。
その月に魅入られたかのように、ミシェルはゆっくりとベッドを降りた。裸足のまま窓に寄り外を覗くと、そこには静寂の世界が広がっている。
ミシェルは下唇を噛み締めた。壁に掛けられていた自分のコートを羽織り、もう一度窓の外を覗き見た。
一陣の冷たい風が窓を吹きぬけ、ミシェルの頬と金の髪を撫で上げる。顔に髪がかかり、ミシェルは思わず目を瞑ってしまう。次に目を開けた時に目の前に広がった光景に息を呑んだ。
 そこには、一人の男がいた。
 先ほどまでは気配さえ感じなかったのに、ミシェルが目を瞑っていたわずか数秒の間に姿を現したのだ。
男は、ミシェルから五メートルほど離れた所で静かに月を見上げて佇んでいた。
 街灯をスポットライトのように浴びながら、夜空に輝く月と星のオーケストラをバックに男はくるりと身を翻し、ミシェルの方に向き直る。
その優雅さにミシェルは一瞬目を奪われてしまう。だが、すぐに我を取り戻した。
 黒いスーツを着込んだその人物が男か女なのか、一瞬ミシェルにはわからなかった。だが、スラリと伸びた背や平らな胸元を見ていると男だとわかる。
なぜ一瞬理解できなかったのか、それはミシェル自身にもわからない。
 骨の芯から凍り付いてしまうような感じがして、ミシェルはコートの襟元をぐっと寄せた。
 その男の瞳に見つめられると、なんだか吸い込まれてしまいそうな気がしたのだ。ミシェルは身震いを一つし、ずっとこちらを見つめて沈黙している男を睨み付ける。途端に、男の口が弧を描いた。
「そんなに怖い顔をしないでくれよ」
 夜の空気に凛と響く、男にしては少し高めの中性的な声。穏やかな笑みを浮かべている男を見て、ミシェルはすっと胸元の手を下ろした。
男が、ゆっくりとミシェルの方に歩み寄ってくる。
「私はあなたを知っています」
 自分でも驚くほど冷静にミシェルは言い放った。
「昔……とても昔、あなたに会ったことがあるような気がします」
 男は表情を変えずにゆっくりとミシェルの方に歩み寄っている。だんだん、二人の距離が縮まってくる。ミシェルは逃げようとしなかった。
「あなたは……」
 そこまで言いかけて、躊躇う。もう、男は窓を挟んだすぐ向こう側に立っていた。
ミシェルより背の高い男が彼女を見下ろす形になり、ミシェルの顔に影を作る。月が見えなくなってしまったことに、ミシェルはほんの少し安堵感を覚えた。
しかし、その代わりに男の金の瞳が飛び込んでくる。この、月を連想させる男の瞳を、ミシェルは好きになれない。
「あなたは、私の……」
 喉の奥から絞り出したような声。しかし、ミシェルはまたもや言葉を詰まらせてしまう。
突然、男が左手を伸ばしてきたのだ。男の手はミシェルの髪を撫でたあと、そっと頬に触れてきた。
そのあまりにも冷たい手の平に、ミシェルは顔を恐怖に引きつらせてしまいそうになる。それを何とか堪えたが、男の手が頬を撫で、右の目尻に触れた瞬間、ミシェルは顔を歪ませた。右目に触れられることだけは耐えられない。
男はそんなミシェルの顔を見て楽しそうに笑った。
「アネットの匂いを辿ってきたんだけど……まさか君に会えるとは思わなかったよ」
 目を瞑ったミシェルの右瞼を優しく撫でる。ミシェルは呪縛でもかけられたかのようにその場から動くことができなくなってしまっていた。膝をガクガクとさせ、男に右目を撫でられる感触を味わっていた。
 アネット。それは、ミシェルの母親の名前。その名前を知っているとなると、やはりこの男は……
 ミシェルは唇を噛み締めると男の左手をものすごい力で払いのけた。
右目を開くと、そこには驚いた様子も見せずにミシェルを見下ろしている男がいた。月のような髪と瞳。そう、この目をミシェルは知っている。
 嫌と言うほどに。
「あなたは私の父ですね」
 男の唇が、ほんの少しだけ釣りあがった……釣りあがったように見えた。だが、それだけでミシェルには充分だった。
「今更何をしに来たんですか?」
 嘲笑うかのようにそう聞いてみる。自分でもわかるくらい無茶をしていた。
 しかし、男はミシェルの問いには答えようとはしなかった。
月夜に青白く光る顔を、ずいっとミシェルの側に寄せる。男の髪が垂れ、ミシェルの頬をくすぐる。
「こんなになるまでずっと我慢をしていたんだね……」
 ニヤリと笑った男の口から、異様に長い犬歯が顔を出す。ミシェルは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「吸血鬼は、人の血を飲まないと生きてゆけないのに……。君は何歳の時まで人の血を飲まずに我慢していたんだい?」
 男の問いにミシェルは答えない。ただ、冷ややかな目を向けているだけである。
「人の血を飲まないから成長が止まってしまったんだね……今はどうなんだい? きちんと血を飲んでいるかい?」
 この問いかけにもミシェルは答えない。男はやれやれという風に溜め息を吐いた。
「そこまで意地を張る必要がどこにある。そんなに人間に近づきたかったのかい?」
「違います」
 この問いにはミシェルは反応を見せた。男の眉がぴくりと動く。
「……私は人間でも吸血鬼でもありません。もっと他の、別の生き物です。…吸血鬼と、人間の血を持つ」
 ミシェルの答えに、男は喜びを隠せずにそれを表情に出してしまう。
 おもしろい。男は素直にそう思った。
 今ここにいる娘は、自分のことをなんと言ったのだ?
 だが、ミシェルだけは不快な表情を浮かべたままであった。
「……昼間の視線は、あなたなんですね」
「感じてくれたかい?」
「えぇ、とてもとても。頭痛で気を失ってしまうくらいに」
 その瞬間、ミシェルは本物の『吸血鬼』を見たような気がした。今まで何人もの吸血鬼と会ってきた。
今まで会ったのは、全て絵に描いたような吸血鬼ばかりであった。人間は誰彼構わず襲い、血を啜る恐怖の生物。しかし、今この目の前にいる人物は、おっとりとした笑みを浮かべ、優しいともとれる表情でミシェルを見下ろしている。
その美しい顔を見て、誰も彼が吸血鬼だとは信じないだろう。
 だけど、それがミシェルにはとても恐ろしかった。
『吸血鬼』らしくない『吸血鬼』。
それがこの世で一番恐ろしい『吸血鬼』のような気がして、ミシェルは体が小刻みに震えるのを感じていた。
だが、この男の前で弱みは見せられない。毅然とした態度で男の目を真っ直ぐに見つめる。その純粋な瞳を見つめ、ミシェルは口を開いた。
「ずっと、あなたに聞きたかったことがあるんです」
「なんだい?」
「どうして私を作ったのですか?」
 作った。その言葉使いをミシェルは間違いだとは思わなかった。むしろ、それが正しいのだと思う。
 この男は私を作ったのだ。母を騙し、利用して。だが、男の口から返ってきたのは意外な言葉だった。
「アネットを愛していたからだよ」
 この空のように澄んだ、曇りのない声。ミシェルは何故か眩暈を覚えてしまう。
「よくそんなセリフが言えますね」
 ほとんど無意識の内に呟かれた言葉。
「私のことも、母さんのことも……愛してなんかいなかったくせに」
 醜い物を見るかのように、男を一瞥する。
「…………」
 男は無言だった。ただ、その顔に笑みを浮かべたまま、すっと顔を下に落とした。ミシェルの小さな肩を両手で掴み、唇を首筋に付ける。
「……驚かないのかい?」
 微動だにしないミシェルを見て、男はつまらなさそうに問いかける。しかしミシェルは何も言い返さない。
「沈黙か……それも良いだろう……」
 そう言うと、男は大きく口を開けた。その瞬間、男の金の目が深紅に染まる。
さすがのミシェルも、それにはわずかに体をビクリとさせた。次いで、首筋に注射針を刺したような痛みを感じる。自分の顔が強張っているのがわかる。昼間にも感じた、右のこめかみから左のこめかみを突きぬけるような痛みを感じる。
 これが、血を吸われる感触。ミシェルは棒立ちになりながらずっと夜空の月を見上げていた。月は嫌いなはずなのに、何故か今日だけはこの月をとても愛しく思える。
 何故なのかは、わからないが。
 その時だった。
「姉さんから離れろ!」
 場にそぐわない大きな声がこだまする。男は驚いてミシェルの首筋から顔を離す。が、少し遅かった。
 ドン!
 一発の銃声が、男の右の肩口に直撃した。男は少しだけ体をよろめかせる。が、すぐに体勢を立てなおした。
右肩から血をダラダラと流したまま、ゆっくりと後ろを向く。その目はまだ赤い。ミシェルの視線も同じ方を向いていた。
「ケビン……」
 そう、小さく呟く。
 そこにいるのは、銃を構えたままの一人の青年。
この暗いのに、狙いを外さずに正確に射撃ができる人間を、ミシェルは一人しか知らない。
「『姉さん』……?」
 男は血に濡れた口を袖で拭き、少しだけ目を細めた。この表情をミシェルはよく知っている。食事を邪魔され、怒りを感じた時の吸血鬼の目だ。
「ケビン! 逃げるのよ!」
 反射的にミシェルは叫んでいた。だが、ケビンは逃げるどころか今にもこちらに向かってきそうな勢いだ。手に持っていた銃をしまい、腰にかけてある剣を握り締める。だが、それよりも早く男が動いた。
「!」
 ケビンは目を見開く。
 見えなかったのだ。
 男の動きが全く目に映らなかった。
「遅いよ」
 声が聞こえたのは背後。次の瞬間、首筋に何か冷たい物が触れた。ケビンはその場を離れようと大地を蹴ろうとする……だが、できなかった。
「ケビン!」
 ミシェルは窓枠に足を乗せ、そこから一気に飛び出した。ケビンは足に根が生えてしまったかのように、その場から動くことができなくなっていた。
後ろから感じ取れるのは、沸き立つ殺気のみ。常人の精神ならこの殺気を感じ取っただけで精神崩壊を起こしてしまうのではないかと思えるほどのものだ。
ケビンが狂わずに済んだのは、常日頃から師匠に精神も鍛えてもらっていたおかげであろう。
「君は……あの子の弟なのかい?」
 その声は、氷のように冷ややかだった。ケビンは全身に冷水を浴びせられてしまったかのように汗を噴き出させている。
 その時、男の手がケビンの首筋に触れた。そこは、一週間前に姉に噛まれた場所。血の気の通っていない冷たい手は何度も何度もその傷痕に触れる。ケビンは全身の毛を総毛立たせた。
「……そうか、君は……」
 男の言葉は、そこで遮られた。
 ズシュッ。と、肉を斬る音が辺りに響く。そこで、やっとケビンは呪縛から解き放たれた。
「……悪い子だ。親に手をあげるとは……」
 ケビンはバッと後ろを振り向く。そこには、男の右肩に短剣を突き刺す姉の姿があった。男は右肩から鎖骨にかけて斬られており、少し腕をぶらぶらとさせている。そこから涌き出ているのは真っ赤な血。
それなのに、男は不快そうに金の目を少し細め眉根を寄せただけで、苦痛の表情などは一切浮かべていなかった。
 だが、それより今のケビンは姉の姿の方に目をやってしまう。
 それは、久しく見ていなかった姉の見せる真の姿。
 白いパジャマを突き破り、背中から一対の黒い翼が姿を現している。蝙蝠のようなその翼で空を飛び、急降下して攻撃を仕掛けたのだろう。
 これは、本気を出した時の姉の姿。黒い翼を本人は気に入っていないので(街の人からも怖がられるので)滅多に見せることはない。
 ミシェルは短剣を引きぬきながら男から離れる。その時に肩口から勢いよく血がバッと吹き出た。
ミシェルの顔と翼に返り血がかかる。普通の人間なら致死量になりかねない量だ。だが、それでも男は平然とした顔を二人に向けていた。
「ミッシ。君の命の糧はその男なんだね?」
 確信を得たような男の呟き。ミシェルは耳を塞いでしまいたい衝動に駆られる。
 男は腕をぶら下げたままあの笑みを浮かべる。ミシェルは心を裸にされてしまったような感じがし、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。
「姉さん!?」
 ケビンが駆け寄ってくる。だが、ミシェルの目は虚空を映し、ただガタガタと震えているだけであった。
「貴様! 姉さんに何をした!」
 鋭い眼光でケビンは男を睨み付ける。だが、男は笑みを消すことなくケビンを見下ろす。
「君はアネットの息子だね?」
 突然母親の名前を出され、ケビンは困惑の表情を浮かべる。男が何を言いたいのかさっぱりわからないのだ。
「いいことだよ……。しっかりとその子を守っておくれよ。何せその子は……」
 私の大事な贄なのだから。
 男は、そう言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ。変わりに優しげな眼差しを二人に向けた。
「また明日……迎えに来るよ」
 そう言い残すと、男はくるりと身を翻し、二人に背を向けた。
そのまま軽く地を蹴ると、血に塗れた金の髪が舞い上がり、男はそのまま空の彼方へと消えていってしまった。
 金色の軌跡だけが、ケビンの瞼に嫌なくらい焼き付いて離れない。ケビンは激しく頭を振った。
ミシェルは未だ体を震わせている。もう、その背から黒い翼は消えていた。
 ケビンはその姉の体をぎゅっと抱きしめてやる。そして……
「…………」
 無言のまま、姉を抱きしめる。
 このまま強く抱きしめて、骨が折れるほど抱きしめて……
そうしたら彼女は、どんな悲鳴を聞かせてくれるのだろうか……?
 そんなことを考えている自分に気がつき、背筋がぞくりとするほど恐ろしく思ってしまう。
……だが、それと同時に、背筋がぞくりとするほど体の奥から沸きでる歓喜を、抑えきれない自分がいた。

 

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