MadMoon〜月は私を狂わせる〜

第6話

 

 馬車が無くなってしまったため、仕方なく三人は歩いてディトールまで向かうことになった。
何時間も歩き、やっと街が見えた頃は、すでに日は暮れてしまっていた。本当は今日のうちにギルドで被害状況などを聞こうと思ったが、今日はもう遅いということで明日にすることになった。
「あそこが宿屋。ギルドが手配してくれてるはずだから」
 エマはギルドのすぐ側の建物を指差す。煉瓦造りの古風な建物だった。
「じゃ、私はこれで……」
「え? もう帰るの?」
 踵を返してその場を去ろうとするエマに、ミシェルはずれてしまったサングラスを掛けなおしながら尋ねる。エマは苦笑いをしながら答えた。
「だってここには私の家があるからね。……これで私の役目は終わり。短い間だったけど、楽しかったよ。ありがとう」
 え? と、ケビンとミシェルが揃って言い、エマの方を見る。
「お前はもうこの仕事には関わらないのか?」
 聞いてきたのはケビンだった。エマはばつが悪そうに鼻を掻いた。
「私はまだまだ新米だからさ……こんな大きな仕事は引き受けさせてもらえないよ。ミシェルとケビンを迎えに行っただけでも大仕事なのにさ……それに……」
 一呼吸、間を置く。
「私はまだまだ心が弱いから。……もっともっと強くなってから、その時にもう一度狩人の資格を得ることにするよ」
 首に手をかけ、狩人の資格である銀細工のネックレスをはずす。
「これは、私にはまだ早すぎた」
 舌をチラッと出し、エマは意地悪そうな笑みを見せる。
「い……いいの?」
 ミシェルは恐る恐る聞いてみる。エマは大きく頷いた。
「うん。……今度は、吸血鬼に関する勉強もしてからにするよ」
 そう言い残して、エマは二人に背を向けた。その背を、見えなくなるまで見送ってから、ミシェルは頬を緩ませ、暖かな眼差しをケビンに向ける。
「また一人、吸血鬼のことをわかってくれる人が増えたね」
「うん……」
 そう、みんな、きちんと話せばわかってくれるのだ。
 ミシェルもケビンも、ずっとそう信じていた。信じていたから……今まで生きてこられたのだ。


「ん〜! 寒いっ!」
 その日、女は男とのデートを終え、帰宅をする途中だった。深夜のディトールを、他に歩いている者はいなかった。
 もうすでに日付が変わろうとしている時刻であった。この地域の冬は夜がとても冷え込むのと、連日の吸血鬼騒ぎのおかげで、夜に好んで外を出歩く者など皆無に等しかった。だから、女は手に持った鞄を大きく振り回しながら上機嫌に街灯に照らされる夜道を歩いていた。
 今日、付き合って二年になる彼についにプロポーズをされたのだ。
今か今かと待ちつづけていた告白だったので、話を切り出された時はすぐにOKを出してしまっていた。
もうどちらの親とも公認の仲だったし、もうすぐ三十路になってしまう自分だったので、両親にも早く結婚しろ結婚しろと口が酸っぱくなるくらい言われていたので、このことを話しても反対をされることはないだろう。
これからの明るい未来予想図を頭に描きながら、女は足取り軽く夜道を歩いていた。
 しかし、その足がふと止まってしまう。
 いつのまにか……本当に、いつのまにか、女の目の前に見知らぬ男が立っていたのだ。その、月を見上げたように顎をわずかに上に上げている男の横顔を見て、女は思わず息を呑んでしまった。その姿を見た瞬間、女は全身に鳥肌を立たせ、その姿に魅入っていた。
 それはまるで、天からの使い。
 すらりと伸びた背、黒いロングコート、暗い夜道を照らしてしまいそうな白い肌。そして、この闇の中、全てを浄化してしまいそうなほど輝く金の髪。
女は、今さっきまで考えていた終生の伴侶となるはずの男のことも忘れてしまい、この目の前にいる月の使者に心を捕らわれてしまっていた。
「……綺麗な、月夜だね……」
 男は、ゆっくりとした動作で女の方を向いた。今までに、こんなに優雅に振り向くことができる者がいただろうか。鼓膜を震わす、その甘美な声に、女は思わず溜め息を吐いてしまった。
「こんな夜は……体が疼くんだよ……」
 男はゆっくりと、女の方に歩み寄ってくる。月明かりが、その男だけのために輝いているかのように月光を降り注がせていた。
男が歩く度、金の髪が踊るように左右に揺れていた。女は何かに取り憑かれたかのように、その男の弧を描いた唇とわずかに細められた金の瞳の虜になってしまっていた。
だらしなく口をぽかんと開け、頬を朱に染めて虚ろな瞳を男に向けていた。もう、彼女の頭に永遠の愛を誓い合った男の存在はすでに抹消されてしまっていた。
 男はその白く細い指をゆっくりと女の頬に滑らせる。もう、女の目には男の顔しか写っていなかった。
男はそのまま女の瞳を覗きこみながら、ゆっくりと指を顎へ、そして、首筋へと滑らせていく。その全身をくすぐられるような感触に、女は至極の笑みを浮かべ、全身を震わせた。
 そして、男は女の首の中間より左寄りのところで、指を止めた。
そのままそこに、何度も何度も優しく指を押し付ける。女は、その度に膝をガクガクさせてしまう。
もう、立っているのもやっとのような状態であった。
 男はゆっくりと指を離し、視線を女の目からその首筋へと写した。そして、女の両肩を掴んでその首筋に優しく口付ける。
その、この世のものとは思えないほど柔らかな感触に女は溶けてしまいそうになってしまう。
男は一瞬だけ、首筋から唇を離す。そして、再びあの甘美の声を漏らす。
「……夢を、見せてあげるよ」
 ザクリ
 嫌な音が響き渡った。
 男の口から覗く犬歯が、女の白い首筋を貫いていたのだ。
それなのに、女はまだ頬を紅潮させたままあさっての方向を向いていた。その瞳は白く濁り、何も写してはいない。男は口付けをしているかのように女の首に牙を立て、ゆっくりと味わうように女の血を飲み始めた。
しかし、一口目を口の中に含んだ途端、その整った美しい眉を少しだけ歪める。
(違う……)
 飲みつづけながら、そう思う。
 その女の血は決して不味くはなかった。ただ、この女が少し前に飲酒をしたためか、血中にアルコールが含まれていたが、それはさほど気になるものでもなかった。むしろ、この血は今まで飲んだ中でも美味の領域に入るものである。どうやらこの女には今日、とてもいい出来事があったらしい。幸せな気分を味わっている時の人間の血は、いつもより何倍も美味く感じられる。
本当なら、その頃を見計らって人間の血をいただきたいものなのだが、どうも人間の言う幸せというものは、私達には理解ができない。
(……そう言えば)
 ふと、男はあることを思い出した。
 自分には、その昔一人の妻がいた。人間の妻が。彼女に子供が宿った時、とても嬉しそうな顔をして自分にそのことを告げていた。その時は何となく自分も嬉しそうな顔をして彼女に話しかけていたのだが、正直自分にはわからなかった。
子供ができるというのは、こんなにも嬉しいものなのか?
 人間の血は、私の心を満たしてくれるもの。
 この、ぽっかり空いてしまった空洞を埋めてくれるもの。
 だから、私は血を飲みつづけるのだ。
 いつか私の心の隙間を埋めてくれる血を見つける、その日まで。

 ……いや、私にはもうわかっているのかもしれない。
 この、空洞を埋めてくれる血の在処を。
 その血を追い求め、私はここまで辿りついた。
 私の血を半分宿す、我が娘。
 人間との間に産ませた、愛しのヴァンパイア・ハーフ。
 彼女なら、私の糧となってくれるだろう。
 喜んで、その身を差し出してくれるだろう。
 だから、今宵はこの血で我慢をしよう。
 そう、今宵は。
 だが、次は。

 首筋から漏れた血が、女の衣服を赤く染める。
 そして、穏やかな表情のまま女の首筋に食いついている男の瞳も……
 その血のように、赤かった。


 ミシェルの嫌な勘はよく当たる。
 今朝も、まだ朝早い時に宿の人に叩き起こされ、すぐにギルドまで来るように言われた瞬間、妙な胸騒ぎをおぼえていた。
 顔を洗い、仕事着に着替えている時もその胸騒ぎは止まず、ケビンと急ぎ足でギルドに向かった時も、胸騒ぎはやむどころかどんどん大きくなっていた。
「昨晩、女性が一人殺された」
 髭を生やした初老の男は、開口一番にそう言った。
 ここは狩人専門ギルド・ディトール支部。本当なら前日のうちにここを訪れるはずだった。が、あの吸血鬼との遭遇でそれが無理になったというのはエマが伝えていてくれたはずだ。その事に関して問われると思っていたケビンは、男の言葉を聞いて絶句してしまった。
 自分と姉がいるのに、吸血鬼が現れたというのか?
 姉は、吸血鬼の気配を感じる力がある。それは力というより、潜在的な能力に近いのかもしれない。吸血鬼が側にいると、背筋に悪寒が走るのだと言っていた。
それは近ければ近いほどいいのだという。同じ街の中にいて、その気配を感じ取れなかったことなど一度もない。
 例によってミシェルはギルドに入ることができないので、その話はケビンだけが聞くことになった。
 襲われたのは、二十九歳の女性。前日……正確には日付が変わったので今日なのだが、夜道を一人歩いている所を襲われたらしい。首筋に小さな二つの穴が開いていたのと、血が大量に抜かれていたので吸血鬼の仕業とすぐにわかった。
「で、俺……私は何をすればよろしいのでしょうか」
 ケビンが口を開くと、男性は口髭をしごきながら答えた。
「正直言って、儂らは吸血鬼に対しての対処法をあまり知らない。この辺りの地域は比較的平和な方だったからな……。
だから、今回はお前達のやることに任せようと思う。何か必要なものがあるのなら遠慮なく言ってくれ」
 男の言葉を聞き、ケビンは軽く頭を下げた。そして、顔を上げながら続けた。
「それでは、一つお言葉に甘えさせていただきたいのですが……」
 少し上目づかいに、相手の意思を探るかのような鋭い眼光。そのケビンの目を見て、男は思わず座っていた椅子から転げ落ちそうになってしまう。しかし、なんとかそれを持ちこたえる。
「ん? なんだ?」
 少し震える声でそう尋ねた。
「……今後ここで行う事に……私の姉の同意を求めてもらいたいのです」


 その日、街は一瞬にして険悪な雰囲気に包まれてしまった。
 事の発端は街の広場の中央。自由を象徴する、鳥を肩に乗せた女性の像のある周辺で起こった。
その中心には、三人の男女がいる。一人は先ほどケビンがギルドで話をしていた男性。そして残りの二人は他ならぬケビンとミシェルだった。街の人々は三人を囲むようにぐるりと輪を作っている。
ある者は怪奇の目を向け、ある者は好奇心を、またある者は耳打ちをしながら不審の目を向けてきていた。
 その全ての視線の先にはミシェルがいた。掛けてきたサングラスを外し、赤い目を気だるそうに街の人達に向けている。慣れてはいるものの、やはり多くの人からこんな視線を向けられるのは気持ちのいいものではない。ミシェルは大きく肩を落として溜め息を吐いた。
そんな彼女の何気無い仕草にも、わざわざ街の人達はざわめきを見せた。
(……吸血鬼が溜め息を吐いちゃいけないんですかねぇ……)
 半ば呆れるようにミシェルは苦笑いを浮かべる。もう彼女にとってはこの光景は笑い話以外の何でもなかった。
「……ということで!」
 どよめく住民を前に、男はミシェルとケビンを前に叫んでいた。
「今回の吸血鬼騒ぎを静めてくれるためにシェスタからわざわざ来ていただいたレイヤーさんだ! 彼らはシェスタでもとても優秀な狩人である! 我々もできるだけ協力をしたいと思うので、皆も情報を惜しまずに提供していただきたい!」
 しかし、男が叫ぶ度にざわめきは大きくなるばかりであった。ミシェルには聞こえないように話しているのだろうが、人より五感の優れているミシェルにとって、この状態は騒音としか例えようがなかった。
本当の吸血鬼なら行うことができるという聴覚の遮断を試してみようと思うが、どうも上手くいかない。でも、最初の頃よりは聞こえる音が小さくなっていた。ミシェルはほっと胸を撫で下ろす。
すると、珍しくきちんとスーツの前を閉めているケビンが一歩前に出た。少し苦しそうにシャツの胸元に指を入れる。が、ボタンは外そうとはしない。
みんなの前で話す時はきちんと身なりを整えなさい。そうしないと誰も言うことを聞いてくれないわよ。
という、姉の教えがあったからだ。
「対吸血鬼用追撃部隊・シェスタ支部のケビン・レイヤーです」
 言いながら、シャツの中から銀細工のネックレスを取り出す。それを見た途端、周囲からおぉ、という声が漏れ、一瞬にして皆の視線がそちらに向けられた。
 注目の的となったのは、ネックレスの中央に埋め込まれている石。そこには丸く小さな石が四つ埋め込まれていた。
 石の数は、狩人の能力の高さを表している。最初は0から始まり、活躍を重ねるごとに二つ、三つと増えてゆく。最高は五つで、世界中から見ても、石を五つ持っている者は狩人の中でほんの一握りしかいないと言われている。
それを四つ持っていると言うのだから、ここに立っている男はかなりの実力者なのだと、誰もが納得せざるをえないのだ。
 その事を確認した後、ケビンは再びネックレスをシャツの中にしまった。そして、ぐるりと集まった人々全ての顔を見渡し、最後にミシェルの方に視線を向けた。ミシェルは大きく頷き、ケビンと同じく一歩前に出た。その瞬間、周囲の緊張が一瞬にして高まるのを感じる。
「同じくシェスタから参りましたミシェル・ミッシ・レイヤーです。……先ほどのケビンの姉にあたります」
 ミシェルが静かにそう言った途端、周囲に今まで以上のざわめきが巻き起こった。ミシェルだけでなく、ケビンにも奇怪の視線が向けられる。
「私は吸血鬼と人間との間に生まれたハーフです。皆さんの理解を得るのは大変だとはわかっています。でも私は生まれてから今までを人間社会で暮らしてきました。ですので、皆さんのお役に立てればと思い、弟についてきました」
 最後の方は、周囲のざわめきのせいでほとんど誰の耳にも届いていなかった。
奇怪・恐怖・不審……いろいろな感情が入り混じった視線がケビンとミシェルに向けられる。
ミシェルは一歩だけ下がり、ケビンの方を向いて口をすぼめて眉根を寄せた。
軽く首を左右に振った姉を見て、ケビンは大きく息を吐く。それから、隣に立っているギルドの男を睨み付けるように見下ろす。
「……どうします? 今回の事件、姉の助力は必ず必要になると思いますよ」
 私を街の人達に紹介させてくれ。それが、ミシェルの出した願いだった。いつまでもサングラスで赤い目を隠してコソコソしたくはない。自分は何も恥ずかしいことはしていないのだから。
ミシェルはいつもそう思い、行く町行く場所全て、こうやって人の前に立ってサングラスを外していた。
 しかし、そんなことを素直に受け入れられるほど街の人達も強くはない。今、もっとも恐れるべき存在・吸血鬼。その吸血鬼の血を半分宿す少女が目の前にいるのだ。
 ざわめきは小さくなるどころか、だんだん大きくなって来ている。
その時、ミシェルは背筋に悪寒が走るのを感じた。
……この感じを、私は知っている……。そう、行く先々で必ず一度は感じることのある感情…。
人が持つ、もっとも強い意思……それは、殺意!
「!」
 その瞬間、ミシェルのこめかみに激痛が走った。右のこめかみから左のこめかみにかけて、針を突き刺されたような痛みだ。
思わずミシェルは体のバランスを崩し、その場に倒れそうになってしまう。
「姉さん!?」
 後ろに立っていたケビンが、慌ててミシェルを抱きかかえようとする。ミシェルは足を踏ん張って、なんとか倒れてしまうのを堪える。額に冷や汗を浮かべながら、ずっと一点を見据えた。
この広場のずっと遠く、この街の入り口にある大きな時計台。そこからとてつもなく大きな殺気を感じたのだ。感じた途端に、こめかみを激痛が襲った。
これはただの偶然とは思えない、ミシェルは視覚を鋭くして時計台を睨み付ける。……大きな時計台、その頂上に飾られてある十字架の上。
そこに、一人の人影を見つけた。しかし、
「!」
 その時、再びミシェルの頭に激痛が走った。今度は堪えられなくなってしまい、ミシェルはそのままケビンの腕の中に倒れ込んでしまう。
「姉さん!」
 混濁する意識の中、ミシェルは弟の叫びを聞いた。そして……
(……見つけた……)
 聞いたことのない男の声が、ミシェルの耳に届いた。
直接頭の中に話しかけてくるような、不思議な声。
その、どこか懐かしい感じを覚える声に抱かれながら、ミシェルは意識を失った。


(ぐあ……ぁ……)
 激しい痛みに襲われている右目を庇うように、ミシェルは体を丸くして床に倒れこんだ。全身を小刻みに痙攣させ、顔を手で覆う。右手の指の間から、どろりとした赤い液体と白い液体が流れ出てくる。
(……しぶといな……)
(がっ!)
 ドッ! と、腹に強烈な蹴りが飛んできた。
ミシェルは口から唾と一緒に赤いものを吐き出した。
それが床に染みを作るのを左目だけで眺め、ミシェルは今にも気を失ってしまいそうなのをどうにか堪えて義父の方に顔を上げた。その瞬間、義父の顔が醜く歪む。
(こっちを見るんじゃねぇよ! クソガキ!)
 ミシェルの胸倉を掴み、自分の目線の高さまでもってゆく。
宙に浮かぶ姿勢を取らされたミシェルは、どうにか呼吸だけでもしようと口を大きく開けた。
だが、そんな暇すら与えてもらえる様子もなく、義父の平手が右頬に飛んできた。
 パン! と高い音が響く。その時、隣の部屋にいる母の背中が見えた。ミシェルは懸命にそちらの方に手を伸ばそうとする。が、すぐに次の平手が飛んできた。
 もう自分でも数えられないくらい何度も頬をぶたれ、ミシェルは呼吸困難寸前にまで追い込まれてしまった。
(お義父……さん……離して……)
 力ない声で呟くミシェルの声を聞き、義父は舌打ちをしながらミシェルを床に頭から叩きつけた。
ゴン! という音と共に、ミシェルは嘔吐感を覚え、床に胃の内容物を吐き出してしまう。
(吐くんじゃねぇよ!)
 その途端、再び義父の蹴りが腹に直撃した。ミシェルは止まることなく襲う嘔吐感と右目と頬の痛みに耐えながら、体を固く丸め、じっと自分が作った床の染みを見つめていた。
 ドクン
(……ったく……面白味のないガキだ…。おい、床はちゃんと拭いておけよ。おい! 雑巾持ってこい!)
 何の抵抗もしないミシェルに嫌気がさしたのか、義父はやっとミシェルの腹から足をどける。
 ドクン
 その時、ミシェルの中で何か異変が起きたのを、ポケットの煙草を一本口にくわえた義父も、台所から無表情で雑巾を持ってきた母も気がつかなかった。
 ドクン
 無意識の内に、ミシェルは焼けた右目に触れていた。
瞼の上からではない。直に触れているのだ。どろりとした液体が指にまとわりつく。それを、ミシェルは左目で見つめていた。
 ドクン
(おい! いつまで寝てんだ!)
 義父が上から怒鳴りつけ、母から受け取った雑巾を倒れたままのミシェルに投げつけた。しかし、それでもミシェルはピクリとも動かなかった。
 ドクン
 ミシェルはゆっくりと口を開け、右目に触れた指を口元に持ってゆく。噛んでしまって腫れあがった舌をだし、その液体を少しだけ舐めとる。
 ドクン
 鼓動が大きくなったような気がした。全身の血が逆流しているような錯覚を覚える。
 ドクン
 ゆっくりとミシェルは二人に背を向けて立ちあがった。
その、先ほどまで殴られつづけていた子供とは思えないほどしっかりとした足取りを見て、義父と母は思わず立ちすくんでしまう。
 ドクン
 もう、止められなかった。
 ドクン
 このままでは殺される。本気でそう思った。
 ドクン
 やらなければ……
 ドクン
 ……飲みたい……
 ドクン
 目の前に、獲物がいるではないか……
 ドクン
 ミシェルはゆっくりと後ろを向いた。彼女の目の前にいるのは、二匹の獲物。
獲物は顔面を蒼白させて自分を見ている。獲物の一匹が高い叫び声を上げた。もう一匹の獲物が腰を抜かしながらもここから逃げようと背を向けた。
 チャンスだ。
 ミシェルは床を蹴った。
 小さな体は一瞬にして逃げ出そうとした獲物の前に着地する。獲物が悲鳴を上げた。が、次の瞬間、ものすごい勢いで獲物の両肩を押し倒し、欲望に狩られるままミシェルは獲物の首筋に噛みついた。
 断末魔の悲鳴を、もう一匹の獲物は聞いていた。
そのまま腰を抜かして床に座り込み、その場から動けなくなってしまったのを確認し、ミシェルはもう一度床を蹴った。
 悲鳴を上げる残りの獲物の首筋にも噛みつき、ミシェルはそのまま獲物の血を吸い上げた。
口中に広がる血の味。生まれて初めて口にした大量の血。
ミシェルはその時、幸せの絶頂にいた。今まで生きていて、これほどの幸福に浸ったことはない。そう、これが、私の本来あるべき姿なのだ。ミシェルはそう確信し、獲物の血を全て飲み終えた後、最初に殺したほうの獲物の血を吸い上げようと、さっきとは逆の首筋に噛みついた。
この牙はこのためにあったのだ。首筋に牙を付きたててそう思う。
そう、この獲物は私の糧となるために生きていたのだ。獲物の血を吸い上げながらそう思う。
 今の私には、何も怖いものはない。
今の私に敵う者など誰一人としていないのだ。ミシェルはゆっくりと二匹の獲物を味わい、絶頂の余韻に浸っていた。二匹目の獲物の血も全て飲み終えてしまった後、胸にぽっかりと空洞が空いてしまったような錯覚を覚えた。
この穴は一体なんなのだ?
(血が、足りない)
 瞬時にミシェルはそう思った。そうだ、私はまだ満たされていないのだ。まだまだ私の体は血を欲しているのだ。
与えなければ……私の全身に血が行き渡るようにせねば……
そう思っている時であった。
ガチャリと、扉が開けられる音がする。
(姉さん?)
 幼い少年の声だ。
この声を、私は知っている。
ミシェルはゆっくりと扉の方を向いた。赤い髪をした、自分より少し背の低い少年。ドアノブを握り締めたまま、じっと自分の方を見つめている。
しかし、その少年もミシェルには一匹の獲物にしか見えなかった。
ニヤリと血に塗れた唇を開け、赤くなった犬歯を覗かせる。そこでやっと少年は体をビクリと震わせた。その仕草がミシェルの胸を熱くさせる。
次の瞬間、ミシェルは床を蹴っていた。
(!)
 少年の肩を掴み、そのまま壁に叩きつける。少年の整った眉が醜く歪んだ。ミシェルは構わず口を大きく開けた。
 獲物の顔が絶望に堕ちてゆく時ほど、ミシェルの心を震わせる表情はない。その表情を眺めながら血を味わおう。ミシェルはそう思い、横目でチラリと獲物の顔を見た。が、
 ミシェルの動きが、一瞬止まる。
 恐る恐る、開いていた口を閉じてしまう。
 ……笑っていた……
 獲物は、笑っていたのだ。
 これ以上はないというくらい。至極の笑みを浮かべて、ミシェルを抱きしめていたのだ。
 ミシェルの右目に光が戻ってくる。
 その右目に写ったものは……

 

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