MadMoon〜月は私を狂わせる〜

第2話

 

 一週間前の嵐の日、ミシェルはある夢を見た。
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
 小さな子供の姿が見えた。腰まである金髪には、手入れが行き届いておらず艶がなく、丸め込んだ体のあちこちから真っ赤な血が流れ出ていた。
 その小さな体は小刻みに震えており、必死に何かに耐えているようだった。
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
 何度も何度も呪文のように同じ言葉を呟きながら、そっと顔を上げた。その雪のように白い肌に、目の回りの痣と顔を染める鼻血は目立ちすぎた。青い痣の中にある真っ赤な瞳は涙で濡れ、懇願するように何かを訴えていた。
 そう、これは十年も前の自分の姿。その、今と全く変わっていない容姿に少しだけ嫌悪感を感じる。
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
 ただ、その言葉だけを繰り返す。
 ミシェルにはわかっていた。その言葉を、誰に向けて言っているのか。
(だからお前はグズなんだよ。何度言われたらわかるんだ)
 案の定、その声はミシェルの頭上から聞こえてきた。椅子に座って足を組み、片手に煙草を持ってミシェルを見下ろしている男。
(あれだけ言っただろ? 街の連中に姿を見せるんじゃねぇって)
(ごめんなさいお義父さん……)
 母が再婚した後に結婚した新しい義父は、ミシェルのことを毛嫌いしていた。
嫌われることには慣れているミシェルだったが、暴力を振るわれることには慣れていなかった。吸血鬼の血のおかげで常人よりは怪我の再生能力が高いとは言え、痛いものは痛い。
 その日は、ミシェルは母に頼まれて朝食のパンを買いに家を出た。ただ、それだけだった。
それだけのことでも、義父の癪に触ってしまう。人と吸血鬼の混血の義子がいるということで周りから疎外されているため、その怒りをいつもミシェルにぶつけているのだ。今はミシェルが外で誰かの目についてしまうだけで逆鱗に触れる。
 そのことを思い出したのか、義父が片手を握り締めて真上に上げる。その瞬間、ミシェルはビクリと体を震わせた。
 ミシェルはこの義父の拳が怖かった。休むことなく自分を痛めつける、その拳が何よりも怖かった。
 ミシェルが何に怯えているのかわかったのか、義父はおもしろそうにうっすらと髭の生えた顎をさする。
(ほぉ……俺に殴られるのがそんなに怖いのか? この出来そこないが)
 義父は、ミシェルを名前で呼んだことはない。いつも『出来そこない』やら『半端者』と口にしていた。
最初の頃はよく母が止めに入ったものだったが、今はもう諦めたのか、どんなにミシェルの泣き声が聞こえても眉一つ動かさないようになってしまった。
 ミシェルはキッチンで夕食を作っている母の背中をちらりと見る。だが、母はやはりこちらの出来事には関心がなさそうにトントンと包丁を動かしていた。
(仕方がないな……俺もそこまで鬼じゃあないし、今日は殴るのは勘弁してやろう……)
 義父はニヤリと口元に笑みを浮かべ、上げた手を下ろす。ミシェルはビックリして義父の顔を見上げた。
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
 体を震わせ、自分でも何度言ったのかわからないほど謝罪の言葉を繰り返す。頭を深々と下げ、後はこのまま義父が去るのを待てばいいだけだった。
 いつもなら。
(痛っ!)
 髪を誰かに掴まれ、ミシェルは無理やり頭を上げさせられてしまう。そこにあったのは、不敵な笑みを浮かべる義父の顔。
(拳は出さないでやるよ!)
 そう叫び、煙草をくわえたまま何度も何度も頭を揺さぶる。
(痛い! 痛いよお義父さん!)
 頭皮が剥がれてしまいそうな痛みにミシェルは叫びながら訴えた。しかし、義父はミシェルの泣き叫ぶ声を聞きながら前後左右に頭を振りまわす。
(やめて! お義父さんやめて!)
 それは、無駄な抵抗だとわかっていた。今まで何度泣き叫んでもやめてくれたことなど一度もない。
 しばらくして飽きたのか、義父は手の動きを止めた。ミシェルは頭から血を流しながら肩で大きく息をしている。その虚ろな目から察するに、もう痛みすらあまり感じられていないようだった。
(……吸血鬼が不死身だっていうのは本当なんだなぁ……)
 まだ気を失っていないミシェルを見て、義父は半ば感心したかのように煙草の煙をミシェルの顔に盛大に吐き出した。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
 咳き込みながらも、ミシェルはただただ謝りつづける。この束縛から一刻も早く逃れたい。そう、願いながら。
 しかし、義父はそんな彼女をよそに、じっと手に持った煙草を見つめていた。そして、ニヤリと笑う。
 ミシェルの頭をぐいと引き寄せ、その耳元に小さく囁く。
(本当に不死身かどうか試してやろうか?)
 人差し指と中指の間に挟んでいた煙草を、親指と人差し指で摘むように持ち替える。
 ミシェルはさあっと顔から血の気が引くのを感じた。
(お義父さん……?)
 恐る恐る呟いてみる。しかし、もう義父の耳にはミシェルの声は届いていなかった。
 そこには、まだ火の付いた煙草を少女に向けている、狂喜に満ちた一人の男の姿があった。
(やめて……やめてお義父さん……)
 ミシェルは軽く頭を振る。もう、痛さなど気にならなかった。
(お願い……やめて……)
 声が震えているのがわかる。歯がガチガチと鳴り、唇をわななかせる。だが、義父はそんなミシェルの姿を見ることにすら快楽を覚えているようであった。ククッと笑い、煙草をミシェルの顔に近づける。
(やめて! お義父さんやめて!)
 ついに恐怖でミシェルは大声をあげる。だが、義父の手が止まることはない。
(お義父さんお願い! ……助けてお母さん!)
 堪らず隣の部屋の母に助けを求める。だが、母はこちらをチラリとも見ようともせず、ただ黙々と夕飯の準備を進めていた。
 煙草を押し付けられるのが皮膚ならまだましだ。もう痛みには慣れすぎているし、これも吸血鬼の血のおかげか、常人よりミシェルは少し肌が丈夫なのだ。
 だが、その煙草が向かっているのは……
(やめてぇー!)
 自分の右目に真っ直ぐ向かってくる、煙草の火。義父の笑みはだんだん深くなっていた。
 右目に映るのは、赤く燻る火の粉。煙草の火が、少し長かった前髪を焦がす。そして、そのままゆっくりと……
(いやあああああああああああ!!)
 ジュッ
 何かが焼ける音を、ミシェルは聞いた。


「!」
 ミシェルは目を見開いた。
それが夢だったと理解するまでに、数秒かかる。だが、夢だとわかった後は随分と落ちつくことができた。
 外からの冷たい空気が、火照った頬を冷やしてくれる。ミシェルはゆっくりと体を起こした。
 今自分が眠っている簡素な木のベッド、ペンとノートしか置かれていない机、小さな洋服ダンスに、白い壁にはめられた大きな窓。部屋にはそれだけしかなかった。
部屋に物を置くのを嫌うミシェルだったのだが、部屋自体はミシェル一人で使うには勿体無いくらい広いので、その簡素さのせいか、それ以上に広く感じられた。その女の子にしては余りにも質素な造りのその部屋を眺め、ミシェルはほっと溜め息を吐く。良かった。自分の部屋だ、と。
 その時、空を焦がす雷鳴を聞き、ミシェルは窓の方に目を向けた。ミシェルが眠りにつく頃から細々と降り始めていた雨は、もう嵐と言ってもおかしくないくらいの規模のものになっていた。
(……よかった、見えなくて……)
 大きく溜め息を一つ吐いて、右手で顔に触れる。汗がじわりと滲み出している額に触れ、ゆっくりと手を下ろしてゆき、そっと瞼の上から右目に触れてみる。
「!」
 触れた途端、ミシェルは顔を歪ませた。
 そこにあるのは、十年も前の傷痕。もうすでに傷は塞がっているし、当時は視力も失ってしまったが、傷が治るのと同時に視力も回復していた。もう完治をしていたはずなのに、今でもそこに触れるとひどく痛んだ。
 痛むのと同時に、血が欲しくなる。
 そのことがミシェルにはわかっていたから、極力右目には触れないようにしてきていた。なのに、今日は何度も何度も右目に触れてしまう。瞼の上から、何度も何度も。そこにある右目を、確かめるかのように。
 次第に右目は熱を持ち、ひどい痛みに襲われるようになった。
瞼の裏に、とある光景が思い出される。大きな月を背に、空に飛び立とうとしている自分の姿。その翼では決して高く飛べないことを知っているのに。
 じんじんとする痛みも気にせず、ミシェルは右目に触れる。何度も何度も瞼の上から眼球を押し続ける。
 動悸が激しくなり、息切れもし始める。それでもミシェルは右目から手を離すことができなかった。
 次第に、喉が焼けるように熱くなってきた。口を開けて舌を出し、喉の奥から荒い呼吸音を出す。額から滲み出てくる汗の量も増えていた。
 右目から手を離したのは、自分の異変に気がついたとき。しかしすでに遅かった。ミシェルは肩を大きく上下させ、ベッドに両手をつける。
今まで閉じていた右目を開き、もう一度窓を眺める。その瞬間、ミシェルはとても恐ろしい物を目にした。
 白目と黒目が逆になってしまったような自分の右目。しかし、そんな目を見てしまった後でも、ミシェルは驚くほど冷静だった。むしろ、その目を見たほうが安心をできるような……
(見えない……)
 月が見えないことを悔やんだ。
今、月を見たら本当の自分に戻れるような気がしたのに。
(……飲みたい……)
 ミシェルは窓から目を離し、ゆっくりと布団から出て、床に足をつける。ひんやりと冷えたフローリングの床がミシェルの足の熱を冷ます。
だが、まだ喉の奥が焼けるように熱い。この熱を冷まさなくては……喉の渇きを潤わせなくては……。ミシェルはふらつく足で扉の方に向かう。
 何度も転びそうになりながら扉にたどりつき、そのままもたれかかってしまう。一〇メートルも歩いていないのに、もう心臓が爆発してしまいそうなくらい脈打っていた。
頬を伝う汗は顎を伝って床に染みを作り、虚ろな瞳は焦点が合っておらず、自分でもどこを見ているのはよくわからなかった。
一呼吸おいた後、ミシェルは一気に扉を押し開ける。通路を挟んだ向かいの部屋が、弟の部屋となっている。弟の部屋の前に立ち、ミシェルはドアノブに手を伸ばした。
だが、ノブを握ろうと思った瞬間、その動きを止めてしまう。このまま扉を開けてしまってもいいのだろうか? そんな考えが頭をよぎった。
 廊下を冷たい風が通り抜ける。ミシェルは風でなびく髪を気にした様子もなく、そのまま呆然と立ち尽くしていた。その時、居間に掛けてある時計が時を告げる。
 ボーン……ボーン……
 二回。今が午前二時だということだ。遅くても十二時には眠りにつくミシェルとは違い、ケビンはいつも三時過ぎまで起きている。多分、今も起きているだろう。
この扉を開けてしまえば、もう戻れない所に行ってしまうのではないか……。ミシェルはそう思ってしまう。
 だが、この喉の渇きはどうしようもなかった。先ほどから熱を帯び、痛み始めた右目も、なんだか自分の物ではないような気がしてきていた。
(飲みたい、飲みたい、飲みたい……)
 ずっと同じ言葉ばかりが頭の中をぐるぐると回っている。
(何を……何を飲みたいと言うの?)
 自分自身に問いかける。
(そんなの……決まっているじゃないか)
 自嘲じみた答えが返ってきた。ミシェルは少しだけ唇を吊り上げる。
唇が裂け、白い犬歯がちらりと覗いた。それは、誰に対しての笑みだったのだろうか。ミシェル自身にもわからなかった。
 まるで何かに取り憑かれたかのように、ミシェルはドアノブに手をかける。キィ、という音とともに扉が開く。
 部屋の明かりは消されていた。だが、部屋の隅に置かれていた机のスタンドが明かりを灯している。扉を開けられ、突然冷気が入ってきたのに気がついたのか、机に向かっていたケビンがこちらの様子に気付いて顔を向ける。
「姉さん?」
 縁のない眼鏡を掛けた弟の顔を見て、ミシェルは安堵の溜め息を漏らすと共に、全身の血が逆流するような熱を感じた。
(飲みたい飲みたい飲みたい飲みたい……)
 さっきよりずっと強く、早く、その欲が沸き起こってくる。
知らず知らずの内に、ミシェルは唇の両端を軽く吊り上げていた。白く長い犬歯が剥き出しになる。
「どうしたの? こんな時間に」
 ケビンは手に持っていたペンを置いてから眼鏡を取った。立ち上がり、姉のそばに寄ろうとする。……が、数歩進んだところで姉の異変に気がつく。
 最初に目に入ったのは、白目と黒目が逆転した右目。思わずケビンは半歩だけ下がり、息を呑んでしまう。
(コイツガエモノダ……)
 ミシェルの右目がケビンを捉える。次の瞬間、ミシェルは床を蹴った。
「!」
 ダン! と、何かに物凄い力で押さえつけられ、ケビンは背中を壁に強く打ち付けてしまう。
その弾みで机の上のスタンドが落ち、スイッチが切れてしまう。唯一の明かりを失ってしまい、部屋の中に本当の暗闇が訪れた。
ケビンはそのままずるずると背を引きずって床に座り込んでしまう。一緒に頭も打ち付けてしまったみたいで、軽い脳震畊を起こしてしまう。
 どのくらいの間、気を失っていたのかはわからない。次に目を開けた時も、ケビンは一瞬自分の身に何が起こったのか理解できなかった。
だが、体に重いものが乗っており、首筋に激しい痛みを感じた。目を開けた時に、ケビンは全てが理解できた。
 ミシェルが、自分に抱きつくように首筋に噛み付いていたのだ。
「……姉……さん……?」
 まだ痛む頭を軽く振り、ケビンはゆっくりと横を向いた。そこには、涙を左目だけから流しながら自分の首に噛み付いている姉の姿が見えた。
 鎖骨が少し軋んだ。ケビンは短い悲鳴をあげて眉根を寄せる。姉の牙は鎖骨に間で達していたのだ。姉が自分の血を啜っているということは理解できた。だが、姉は今までに自分の首から血を吸ったことなど一度もなかったのだ。
別に、首からじゃなくても血は吸えるでしょう?
そう、昔に姉が言ったのを覚えているが、本当は少しでも吸血鬼に近付きたくないという姉の願望だということをケビンは知っていた。
 しかし、今ミシェルは自分の首から血を吸っている。これは一体どういうことなのだろうか? ケビンはもう一度姉に呼びかけようとした。……呼びかけようとして、やめた。
 姉が、自分の首から血を吸っている……そう考えると、何故だかわからなかったが口元に笑みが浮かんでしまった。今まで何度も血を吸われてきたが、こんな感情は初めてだった。
 ……そう、これが吸血鬼なのだ……
 ケビンは思わず声を出して笑いそうになってしまう。それをどうにか堪え、唇をこれ以上無理なくらいに吊り上げる。
 ……これが彼女のあるべき姿なのだ……
 ケビンは笑った。姉の背に手を回し、今日の日のことを心から喜んだ。まるで自分が勝利者であるかのように……
 もう一度骨が軋む。だが、もうそれですらケビンにとっては快感でしかなかった。
 二人の長い夜は、まだ終わらない。


 ミシェルとケビンは次の日、ギルドの前に立っていた。
『狩人専門ギルド・シェスタ支部』
 その名の通り、吸血鬼を狩る狩人専門の協会のことである。
 吸血鬼を狩りたい者はまずここに申し出て、狩人の資格を得ねばならない。狩人の資格は特にない。二十歳以上であれば誰でも自由に加入することができるのだ。
 狩人は、登録するだけで毎月一定金額が支払われるようになっていた。言ってしまえば、狩人が一種の職業なのだ。そして、吸血鬼を殺すたびに更に金がもらえるシステムになっている。
 吸血鬼は仕留めた度にギルドに申し出なければならない。ギルドはその者の名前を記し、上へ伝える。そこでやっと金がもらえるのだが、本部はこれを集計して、吸血鬼を仕留めた数が多い者には金額を上乗せして支払ってくれることになっていた。
 だが、一年以上吸血鬼を一匹も仕留めることができなかった者には、狩人の資格を剥奪されてしまう。毎月の支払いも無くなり、こうなってしまった者はもう二度と狩人の資格を得ることができなくなり、新しい職を探さなければならなかった。
 そのため、職を無くした者がその場しのぎのため狩人に志願するということが後を絶たない。
だが、狩人にもそれなりのデメリットはあった。
狩人には保険が降りないのだ。通常、吸血鬼の手にかかって殺された者はその事実が認められると、国からある程度の保険金が支払われるようになっていた。殺されたのが家の主であれば、家族が今後の生活に支障の出ない程度の金額が毎月支払われる。
だが、狩人だけはこの保険が成立しないのだ。狩人が吸血鬼に殺されても、ビタ一文として遺族に保険金が支払われることはない。
 多いときは月に二、三人吸血鬼に殺される人がでている街もあるくらいだ。弱い者や家族がいる者は誰も狩人になろうとは思わなかった。
 来る者を拒まず、去る者を追わずの狩人協会であったが、一年前に一つの規則が加わった。
『人間であること』
である。
 事の発端は一年前、ケビンが狩人になりたいと言った時である。
その時、彼の姉であるミシェルも自分も狩人になりたいと言い出したのだ。だが、ミシェルが吸血鬼だということはこの街ではあまりにも有名なことである。
一時は世界中の狩人協会を騒がせ、お偉いさんの会議まで開かせてしまったものだが、ミシェルが志願してからわずか一ヶ月足らずでこの規則が追加されることとなった。まさか、吸血鬼自身が狩る側に回りたがるなど、誰も思わなかったからだ。
 仕方なく、狩人にはケビン一人が志願することになった。ミシェルは弟を影から支えるサポート役として活躍することになるのだが、周りはいい顔をしなかった。
 今は人間側にいるミシェルだが、いつ敵側に回るかわからない。そんなことにいつも怯えて暮らしていた。
 二十年以上も一緒に暮らしているケビンが、そんなことはないと言い張っていたが、そのくらいで周りの人間が納得してくれるのなら誰も苦労はしない。
ただ、半分は人間の血が流れているということも協会側も理解してくれたので
『吸血鬼と人間のハーフを殺しても懸賞金を出さない』
という法を作ってくれた。
 ミシェルには、それだけで充分ありがたかった。だから、それ以上は何も言わないでいた。
「じゃ、ちょっと行ってくるから」
「うん。行ってらっしゃい」
 相変わらずの背広姿のケビンを、昨日と同じコートを羽織ったミシェルが笑顔で送り出す。ギルドには狩人以外の者は入れないため、ミシェルはいつも外でケビンの帰りを待っている。
 ケビンは軽く手を振り、ギルドの中へと姿を消す。それを見送ると、ミシェルは白い息を吐きながらいつもの噴水へと足を運ぼうとした。その時であった。
「でやあっ!」
 この場にそぐわない、威勢のいい声が後ろから聞こえてくる。ミシェルは慌てて後ろを振り向いた。
「どうだ! 吸血鬼め!」
 ミシェルの目に映ったのは、銀のロザリオ。大小の銀の珠と大きな十字架が下げられているという物だった。
 ミシェルは赤い目をパチクリとさせてそのロザリオに見入る。綺麗だな。と、素直にそう思った時であった。
「どうして!? こ、このエマ特製の十字架が効かないだなんて!」
 耳をつんざくような叫び声をあげて、両手にロザリオを握り締めた少女が、頭の両端に結った髪を振りまわしながら頭を左右に振った。
 艶やかな黒髪、ハイネックのセーターと短く切ったジーンズ、腿まである黒タイツを身につけた少女だった。
胸に弟と同じ銀細工のネックレスを付けているところを見ると、どうやら彼女も狩人のようである。その顔には、「信じられない」と言った表情が浮かんでいる。
「もう一度! 去れ! 吸血鬼め!」
 勢いよくえいっと掛け声を上げて、二十歳かそこらだと思われる少女は両手を突き出してミシェルにロザリオを向ける。
そこでミシェルはやっと少女が何をしたがっているのかが理解できた。
「あの……悪いけど、私に十字架は効かないから……」
 本当に申し訳なさそうにミシェルは小首をかしげながら言った。
少女は、え? と間抜けな声を出し、それからサーッと顔を青ざめさせた。
「な、な、な……! 十字架が効かない吸血鬼なんて聞いたことがないわよ! それじゃあ次はこれよ! くらえ!」
 少女は叫ぶと、今度はセーターの中に手を突っ込んだ。すると、どこに入れていたのかわからないくらいの大量のニンニクがそこから姿を現した。それを、一斉にミシェルに向かって投げつける。
「どうだ! 今度こそ聞いたか!?」
 満足そうに顔に笑みを浮かべてミシェル見据える少女。だが、当のミシェルはけろりとして足元にポタポタと落ちてゆくニンニクを見つめていた。
「あ〜あ、勿体無い……」
 土まみれになってしまったニンニクを見て、ミシェルは口元に手を持ってゆき、本当に残念そうに呟く。すぐにしゃがみ込んでニンニクを一つ一つ拾いはじめた。だから、その時正面の少女がどんな表情をしているか、ミシェルには見ることができなかった。
「な、な、な……!!」
 少女の顔が更に青くなる。
「勿体無いからもう一度使おうよ。ね?」
 ニンニクを全て拾い上げたミシェルは、それを少女に差し出す。
だが、少女は金魚のように口をパクパクとさせているだけで、ニンニクを受け取ろうとはしない。
「……どうしたの?」
 少女はミシェルより一〇センチほど背が高いため、ミシェルは大量のニンニクを持ったままの手を思いきり上に差し出す体勢になっている。この体勢を維持するのは意外と疲れる。ミシェルは早く腕を下ろしたいと思い、無理やり少女の空いた手にニンニクを押し付けてしまう。
「ニンニクは食べる物だからさ、吸血鬼退治には他の物を使ってほしいな」
 空になった手をぷらぷらとさせ、ミシェルは少女に笑顔を向け、その場を立ち去ろうと背中を向けた。
ミシェルが歩き出して十秒ほど経った後だろうか、後ろから耳を裂くような叫び声が聞こえてきた。
「吸血鬼に攻撃が効かないなんてぇ〜!!」
 少女はそう叫ぶや否や、猛ダッシュでその場を立ち去ってしまう。
ミシェルは耳を押さえながら後ろを振り向いた。しかし、そこにはすでに少女の姿は残されていなかった。
 常人より遥かにいいミシェルの耳にその叫び声はダメージが大きすぎた。キーンと鼓膜を叩く大声に、ふらつく頭を軽く叩いてミシェルはしばらくの間、その場にしゃがみ込んでしまう。
 通行人が自分を避けて通る中、ミシェルは頭を抱えながら考えていた。
(珍しいなぁ……私のことを知らない人が来てるんだ)
 頭痛がおさまり、真っ直ぐに立てるようになってから、ミシェルはもう一度少女が走り去っていった方を眺めた。
 ちらちらと、空から雪が降りはじめた。ミシェルは口元に笑みを浮かべ、再び噴水へと向かって歩きだした。
 あの少女は、突然ミシェルを殺そうとしたりはしなかった。それがとても嬉しかったのだ。今まで、吸血鬼と間違えられてミシェルの事を知らない狩人にいきなり殺されそうになったことが何度もある。
それを防ぐため、ミシェルは街の外に出るときは吸血鬼の証である赤い目を隠すためにサングラスを掛けているのだが、逆にこの街に来たばかりの狩人はミシェルのことを知る由もない。ミシェルを見た途端に躊躇せずに発砲をしてきた者もいるくらいだ。その突然の奇襲のおかげで、ミシェルは一週間生死をさ迷ったこともある。
 だが、今回の少女みたいに自分を殺そうとしなかった狩人は始めて見たのだ。たったそれだけのこと。それだけでミシェルは幸せな気持ちになれた。
 全ての狩人にこの気持ちを忘れてほしくない。ミシェルはそう願って空を仰いだ。

 

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