MadMoon〜月は私を狂わせる〜

第2話

 

 ハアッと、ミシェルは白い息を凍えた手に吐きかけた。
暖かい吐息は一瞬だけ温もりを与えてくれたが、すぐに冬の冷たい風がその温もりを奪い去ってしまう。ミシェルは何度か同じことを繰り返したが、これ以上は無駄だと判断し、大人しくコートの袖に手を入れる。と、空から白い妖精が舞い降り始めた。
 雪だ。ミシェルは空を見上げて溜め息を吐く。
いつもは大喜びで雪を迎え入れるミシェルだったが、今日ばかりはそんな気にはなれなかった。
雪を見て視覚的な寒さを覚え、身震いを一つして頭に被っているお気に入りのニットの帽子を深く被り直した。
その時にまた手を出してしまったので、口元に持っていって白い息を吐きかける。これでは同じことが繰り返されるばかりだ。そう思ったミシェルは、今度は一度だけでその行動をやめた。
 年のころは十五歳くらい。よく映える金色の髪と真っ赤な瞳を持ち、赤いロングコートと黄色のニットの帽子を身に付けて噴水に座っているその少女は、どこから見てもそこらにいる普通の少女だった。
「まだかなぁ……」
 ミシェルはそう呟いてもう一度空を仰いだ。灰色の雲に覆われた空からはなお真っ白な雪が降り注いでいる。それを見たミシェルはチョコレートケーキに降りかかった粉砂糖を思い浮かべてしまい、思わず唾を飲む。今年も、このシェスタの街に雪が降る。
 待つことには慣れていた。何しろ、今回のような場合は最低でも軽く一時間は待たされる。最高五時間待たされたことのあるミシェルにとって、まだ三〇分しか経過していない今日はまだまだ序の口なのだが、ミシェルは寒さにはとても弱かった。だから、先ほど向かいの建物に付けられている時計を見上げてうんざりした。これからまだ最低三〇分は待たないといけないのかと思うと、気が遠い。
 仕方なく、ミシェルは近くにある赤い車を改造した売店にまで足を運ぶことにした。普段はどんなことがあっても待ち合わせの場所から動かないミシェルなのだが、今日はそうはいかない。この寒さをどうにかしないと、相手がくる前に自分が凍えてしまう。
ミシェルは立ち上がり、コートのポケットから財布を取り出した。寒さで震える指で硬貨を何枚か掴む。
「いらっしゃ……」
 客の姿を認め、売店で温かいコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた男が顔を上げる。 だが、最初はにこやかだったその笑顔が、ミシェルの顔を見た途端に氷のように冷たくなってしまう。
ミシェルはそんな男の様子に気づいた気配もなく、じっと手元にあるメニューを睨み付けていた。しばらく睨み合った後、白く細い指でメニューの一つを指差す。
「ホットココアください」
 言いながら、顔を上げる。
その時に売店の男と目が合った。ミシェルの顔を見るや否や男は体をビクリと震わせ、思わず手に持っていたコーヒーを落としそうになってしまう。
 その男の目から伺えるのは、恐怖。しかしミシェルは気にせずに続けた。
「ココアください」
 先ほどより少々厳しい口調で言い、カウンターにココアの代金を置く。そこでやっと男は呪縛から解かれたように慌てて動き出す。
「あ、は、はい。ココアですね」
 この寒いのにどうして額から汗を流しているのだ。ミシェルは眉根を寄せた。だが、その理由はもうわかりきっているので余計な詮索はしないことにする。
 しばらくしてから出された暖かいココアを受け取り、ミシェルは噴水まで戻る。その後ろから、小さく話し声が聞こえてきた。
「あれが噂の『同族殺し』か……」
 それは隣に座っている人間にも聞こえないくらいの小声だったのだが、ミシェルの超越した聴覚にとっては、そんな小声も無意味であった。
しかし、そんな小言に慣れているミシェルは、元の場所に戻ってからココアを口に運ぶ方に専念しようとする。が、
(……甘すぎる……)
 一口飲んで、顔をしかめる。思わずココアを吐き出しそうになってしまった。甘いものは好きな方であったが、これは極端に甘すぎる。どうやら売店の男が砂糖の量を間違えてしまったらしい。
(そんなに子供に見えるのかなぁ……)
 もう一口飲んで、またもや口を歪める。嫌いな物を口にした子供のようなその顔と身長が一五〇センチという外見からは、とても彼女が二十五歳という事実を信じる者はいないであろう。
 しかしミシェルにはわかっていた。男は自分を子供だと間違えたわけではない。恐らくは緊張して手が震えてしまい、砂糖の分量を間違えたのだろう。
 甘すぎるココアを飲み干し、ミシェルは空になった紙コップを側のゴミ箱に投げ入れた。だが、紙コップはゴミ箱の渕に当たり、そのまま路上に落ちてしまう。ミシェルは渋りながらもゴミ箱へ駆けより、紙コップを拾おうとする。が、ミシェルよりほんの少し早く誰かがその紙コップを拾い上げた。
紙コップだけに視線を集中させていたミシェルは驚いて目線を上げた。そして、その人物の姿を確認した途端に表情をほころばせる。少し開かれた口から、白い犬歯がちらりと覗いた。
「何してるの? 姉さん」
 そこに立っていたのは、スラリとした背の高い二十代半ばほどの男性。
背中まで伸ばした赤い髪が印象的で、黒いシャツと背広を少しはだけさせて着ている。その胸には銀細工のネックレスが飾られていた。
この寒い中コートを着ないのは自分のポリシーだと前に聞いたことがあるが、そんなことをポリシーにしないでほしいといつも思っていた。この姿は見ているほうが寒く感じられる。
「おかえり、ケビン」
 ケビンと呼ばれた男は、ミシェルに笑みで答えると紙コップをゴミ箱に捨てる。
「今日は早かったんだね。まだかかると思ってたよ」
 言いながら、ミシェルは向かいの建物の時計に目をやる。先ほどあの時計を見てから十五分……ケビンと別れてからまだ四十五分しか経過していなかった。ケビンは優しい笑みをミシェルに向ける。
「姉さんが待ってるからね。あまり長引かないようにしてもらったんだ」
 それは、端から見たら異様な光景だろう。自分より三〇センチは背の低い少女に向かって「姉」と呼ぶ男の姿は。
 だが、ケビンはれっきとしたミシェルの弟だったので、彼にとってそう呼ぶことは当たり前のことなのである。
とは言っても、ミシェルとケビンは半分しか血が繋がっていない。父親が違うのだ。ミシェルが生まれた後に、ミシェルの母親とケビンの父親が再婚し、その二人の間にケビンが生まれたのだ。いわゆる異父姉弟というやつである。
「今回の仕事はどうだった?」
 ミシェルはケビンの横に並ぶ。身長差が三〇センチ以上あるせいか、どうみても年の離れた兄と妹にしか見えない。
ケビンは十年近く成長を止めている姉を見下ろす。
目つきが鋭く、昔から「目が怖い」と他人から恐れられているケビンにとって、姉を上から見下ろすのはいつも気を使うことであった。相手を見下したような態度にならないように気をつける。当のミシェルはそのことに気がついていないようだが。
「あぁ、姉さんも手伝ってくれたし。ほら、今回はちゃんと報酬が入ったよ。これで一ヶ月は過ごせるはずだよ」
 言いながら、ケビンは手に持っていた小袋を姉に差し出す。チャリン、と軽い音がし、中から数枚の金貨が顔を出した。金貨一枚で大人が一週間は暮らしてゆける代金だ。
「わぁ、たくさん貰えたんだね、良かった」
 嬉しそうに手を合わせ、ミシェルはケビンから袋を受け取る。今は両親もおらず二人きりで暮らしているため、生活費の管理は全てミシェルが仕切っていた。
「じゃあ、今日の晩御飯はケビンの好きな物にしてあげようか。何がいい? ハンバーグ?」
「姉さん……俺もう二十一だよ?」
「でも、ハンバーグ好きでしょ?」
「まぁ、嫌いじゃないけど……」
 苦笑しながら、ケビンは子供のように人差し指を口元に当てて笑っている姉の顔を眺める。
 こんなに嬉しそうに笑う姉は久々に見た。姉の幸せそうな顔を見るだけで、自然と顔がほころぶ。身長差があるものの、それはどこから見ても、見る者を和ませる仲の良い姉弟像であった。
しかし、周りの人間はその二人を避けるように歩いている。小さな声で口々に何か話しているのを、ミシェルの耳は全て聞き取っていた。
「『魔狩人』と『同族殺し』だよ……」
「よく魔物なんかと一緒に暮らせるね……」
「自分の仲間を殺すだなんて、どんな神経をしてるんだ?」
 絶え間なく耳に入る言葉。疎まれることには慣れていたが、それでもやはり気が重くなってしまう。でも、その事を決して顔には出さない。……今、目の前にいる、愛する弟のためにも。

 この世界には、大きく分けて二種類の生物が暮らしている。
 人間と、そうではない者だ。
 人ではないもの……それは、人とは異なる生物。
尖った耳、長い犬歯、血のように赤い瞳を持ち、鏡に写らず、日の光に弱く影ができず、十字架を嫌い、人間と同じ物も食べるが、それより人間の血を好んで飲み、命の糧としているというそれは、血を吸う鬼、俗に『吸血鬼』と称されるものだった。
 架空の生物とされていた吸血鬼の存在に、世界は大きく揺るがされた。
 しかも、その吸血鬼の発見後、堰を切ったように世界各地で吸血鬼が目撃されるようになった。人間を襲い、血を吸って殺す吸血鬼に対し、人類はついに動き出した。
 対吸血鬼用追撃部隊・その通称は国によって異なるが総称して『狩人』と呼ばれている。
 人並み外れた体力、攻撃力を持つ吸血鬼を退治するために作られた部隊だ。獲物にはそれぞれ賞金がかけられていて、獲物を殺すごとに賞金を得ることができた。
望む者は誰でも狩人になれるし、腕に自信のある者はこぞって狩人に志願する、そして現在に至る。
 ケビンは狩人になってまだ二年足らずだが、すでにこの地域の狩人の中で五本の指に入るほどの実力者となっている。
 だが、それはケビン一人だけの力ではない。 ケビンは何かを思い出したかのように狩人の証である銀細工のペンダントを指で弄んだ。
 その時、チクリと首筋が痛んだような気がし、少しだけ顔を歪ませる。
 それは、一週間前にできた傷。もうすでに塞がっていて傷は見えないが、この傷ができたときの事は一生忘れることができないであろう。
 この傷をつけたのは、吸血鬼の血を半分だけ受け継いだ、愛しい姉。姉の本当の父親が吸血鬼だと聞いたのは、十歳の時だったと思う。でも、その時は特に何とも思わなかった。吸血鬼だろうが何だろうが、ミシェルが自分の姉であるということに変わりはないのだから。
 しかし、姉は突然十五の頃に成長が止まってしまった。それまでずっとケビンはミシェルを見上げて話をしていたのに、数年も経たないうちに姉を見下ろすようになった。
その頃からだろうか。時折、姉が苦しむ姿を見せるようになったのは……
 生まれて初めて姉に血を吸われたのは、その時だった。
 不思議と怖いなどという感情は浮かばなかった。ただ、姉が嬉しそうに自分の腕に噛みついて血を飲んでいる姿は正直な話、見ていて楽しかった。
 その時に知ったのだ。姉は、血を飲まないと生きていけない体なのだと。半分は人間の血が流れていたおかげか、今までは血を吸わずに生きてこられていた。しかし、姉は我慢をしていたのだ。
本当は血を吸いたくてたまらなかったのに、いつも人ではないという理由で自分だけでなく、周囲から非難を浴びせられていた家族にこれ以上迷惑をかけたくないと思い、ずっと堪えていたのだ。
だが、その強がりもこれ以上はもたなかった。一度血の味を覚えた吸血鬼は、これから先、血を吸わずには生きてゆけない。そう、どこかの文書で読んだことがある。姉もその文書の通り、定期的に血を飲まないといけない体となってしまった。
 しかし通常の吸血鬼は週に一度飲まなければいけないというのに対し、姉の摂取量は微々たるものだった。月に一度、一口二口ほどの血を飲めばいいのだ。
だから、血の提供者にケビンはすすんで名乗り出た。自分以外の血は吸ってはいけないと、姉と固く約束をした。
 そして、今もその約束は違えずにいる。
 ただ、一度を除いては……
 チクリ。と、再び首筋が痛んだ。
「……どうしたの?」
 首筋を押さえたケビンに、ミシェルが心配そうな顔をして覗き込んだ。ケビンは慌てて笑顔を見せる。
「うぅん。何でもないよ。少し疲れてるだけだから」
「そう? それならいいんだけど……。でも、私もお仕事手伝うから、遠慮しないで言ってね?」
 優しく微笑む姉を見て、ケビンも同じように微笑んだ。
 吸血鬼の血が入っているミシェルには狩人の資格を得ることができない。だけど、いつも弟の側にいてそのサポートを買って出ていた。
 自分にも吸血鬼の血が流れているくせに、同じ吸血鬼を殺している。
 人々は、畏怖と嘲笑の意味を込め、ミシェルをこう呼んでいた。
『同族殺し』と。
 ミシェル自身も、自分が影でそう呼ばれていることは知っていたし、別に訂正させようとも思わなかった。だって、本当のことなのだから。
自分が吸血鬼であるということは、ミシェルは否定しようとはしない。否定するというのは、結局は自分が吸血鬼であるということを認めているのと同じだと思っているし、逆に受け入れてしまわないとこれから先、生きていけないような気がしているのだ。
 ケビンも、いつも吸血鬼を捕えているのは自分の力ではないと蔑まされていた。吸血鬼の姉の力を借り、姉に同族殺しをさせている悪魔のような存在。
『魔狩人』
 ケビンは人からそう呼ばれている。しかしケビンも気にしてはいなかった。
だって、狩人の仕事を手伝いたいと言い出したのは姉の方からであったし、今まで一度もケビンは姉に仕事を強制したことはない。むしろやめてくれと言っているくらいだ。それなのに、全て姉がすすんでやりたいと言ってきたのだ。
 だが、今回は違った。
 ミシェルは一週間ほど前から体の不調を訴えていたので、ずっと家に篭りきりだったのだ。だから今回は珍しくケビンは一人だけで仕事に行き、きちんと役目を果たし家に帰ってきた。
家に帰った時の、ミシェルの喜びようと言ったらまるで子供のようだった。いつも二、三日の泊りがけの仕事になるのだが、その間ミシェルはまともに眠れなかったという。家に帰った自分を、目を腫らして受け入れてくれる姉の顔を見たとき、ケビンはここが自分の家だと改めて実感できた。
 それほど、ミシェルの存在はケビンの中で大きく占めているのだ。
「じゃ、帰ろうか」
 そう言って、ミシェルはニコリと笑う。その口から覗く犬歯を見て、ケビンは背筋に何か冷たい物が走るのを感じた。
 一週間前、あの、首筋に傷ができた日から……いや、初めて姉に血を与えた日からふつふつと涌き出てきている、この感情。
 姉のこの白い首に手を伸ばしたら、彼女はどんな顔をするのだろう……。一瞬、そんな衝動に狩られる。
「どうしたの?」
 無言のまま虚ろな瞳で自分を見下ろす弟に、ミシェルはきょとんとした顔で話しかけた。そのあどけない表情を見て、ケビンは我に返る。
「あ、何でもないよ……」
「本当に? そんなに疲れてるの? それなら早く帰って休もうか」
 ミシェルは心配そうな顔をして弟の腕を引っ張る。その姉の折れてしまいそうなほど白く細い手を見て、ケビンは体の奥から何か熱いものが涌き出てくるのを感じた。それが何なのかは、わからないが。
『同族殺し』と『魔狩人』
 この奇妙な組み合わせの姉弟は、周囲から蔑まされつつ、それでも今日もいつもと変わらない一日を過ごしていた。
 これからも、その毎日が続くと思っていた。
 思っていた、のに。

 

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