MadMoon〜月は私を狂わせる〜
序章
その血は、とても甘かった。
今まで何度もこの血を吸ってきたが、こんなに甘いと思ったのは生まれて初めてだった。
もうすでに日は沈みきっている。外では雨が降っている。風が吹き、雷鳴が轟く中、部屋の明かりも付けずに男と少女は抱き合っていた。
いや、抱き合っているように見えた。
男の両手に収まってしまいそうなくらい小柄な少女。その少女が、むさぼるように男の首筋に噛みついていたのだ。その唇から、一筋の血が流れている。
その時、少女の閉じていた目が開かれた。
少し充血した左目に、黒目の部分が白く、白目の部分が赤いという、黒目と白目が逆転したような不気味な右目。そして、左目だけから涙が溢れでてきている。
いつもは腕に噛みつくだけで良かったのに、今回だけに関しては首筋に噛みつきたい衝動に狩られてどうしようもなかったのだ。男の肩に手を回し、力強く抱きしめる。しかし、男は反抗するどころかむしろ少女を受け入れているようにも見えた。
そっと、少女の腰と頭に手を回す。優しく少女を抱きしめ、離そうとしない。
男は少女を跳ね除けるだけの力を持っていた。だが、それを決して実行しようとはしなかった。それが、余計に悲しい。
いっそのこと、突き飛ばしてくれたほうがどれだけ気が楽か……
しかし、男にそんなことができるはずがないことを、彼女は知っている。自分が、人の血を命の糧とし、生きている生物だから。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。少女は男の首筋に噛みつきながらずっと考えていた。
だが、いくら考えても答えは出てこなかった。わかっているのは、今自分がとんでもないことをしてしまっているという罪悪感と、この口に広がる血の甘さ。
そう考えると、また涙が溢れてきた。取り返しのつかないことをしているとわかっているのに、自分でも止めることができなかった。
悔しかった。己の不甲斐無さに呆れ、涙が止まらなかった。
でも、それでも、彼女は血を吸うことをやめられなかった。やめようと思えば思うほど、この牙が彼の首に食い込んでゆく。
その時、男の手が少女の頭を撫でた。男の優しさを全身で感じた少女は、やるせない思いに腹を立て、少女は男の背に爪を立てた。最近切っていなかった少女の爪は、男の皮膚を簡単に切り裂く。ふつり、と血が滲み出てきた。その血の色も、また赤。
男は、虚ろな目をしたまま壁に寄りかかっていた。頭を少しだけ上げ、天井を仰ぎ見る。耳に聞こえるのは窓を叩く雨音だけ。首筋に針が刺さっているような痛みがあるが、気にしてはいない。その手の中に、最愛の少女の身体がある。
……どうしてだろう。
なぜだか、とても……
その時、暗かった部屋に一瞬だけ眩しい光が入り込む。少し遅れて、落雷音と共に稲妻が走った。男はゆっくりと顔を下げ、正面を見る。壁に、大きな姿見が置かれていた。
もう一度、稲妻が走る。光が二人の姿を照らし出した。
その時、男は見た。
少女に首筋を噛まれ、妖艶な笑みを浮かべている自分の姿を。それは、自分でも血の気が引くほど不気味なものであった。
だが、この身体中から湧き上がってくる気持ちを止められることはできなかった。全身から血が抜けてゆくのがわかる。しかし、この血が少女の血肉になると考えたら微笑まずにはいられなかった。
どうしてなのかはわからない。ただ、嬉しかった。自分でもこの少女の役に立てるのだと、改めて実感できた。
少女の爪が突き刺さった背中。痛いはずなのに、全く気にならない。むしろ、その痛みにさえ快感を覚えてしまう。
一体いつから、自分は狂ってしまったのだろう。男は少女の頭を撫でながらずっと考えていた。
だが、いくら考えても答えは出てこなかった。わかっているのは、腕の中にある少女の温もりと、心の奥から涌き出てくる、この例えようのない感情。
俺は、一体この少女に何を求めているのだろうか……。このまま抱きしめ、一体何を望んでいるのだろうか……。
わからなかった。何もわからなかった。そして、そんな自分が恐ろしく感じた。それと同時に、愛しくも感じる。
このまま堕ちるとこまで堕ちてゆこう……
彼女と一緒なら、どこに行っても怖くない。
ふと、窓から外を眺めてみた。だがそこからは分厚い真っ黒な雲と大粒の雨に窓が叩かれているところしか見えない。そこには彼の望むものはなかった。
あぁ、駄目だ。今日は月が見えない。
男は目をとろんとさせる。
月は彼女を狂わせるのに……。今日、月が見えたら彼女はどれだけ狂喜に満ちた瞳を向けてくれるのだろうか……どれだけ、俺の前で荒れてくれるのだろうか……
男は少女の頭を撫でつづけた。だんだんと、意識が遠のいてゆく。
男は笑った。声を出せないので、心の中で笑った。その自虐的な笑い声は、誰にも聞かれることのなく…………
そう、俺は、この少女を……
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