第2回

「……それで、ルーミスはこの宿に来るゴロツキを倒してやる代わりに、部屋に泊めてもらってるんだ」
 イリアがそろえた朝食を食べながら、ルーミスはイヤイヤ彼女の質問に答えていた。その質問の一つがこれだった。(どうしてルーミスは、この部屋に泊まっているの?)
 ルーミスはふくれっつらのまま、焼き立てのトーストにバターを塗り、かぶりついた。
「……一緒に住むのは仕方ないから我慢するけどさ……あんまりあたしに関わらないでね? いい?」
 正直、マスターに出ていけと言われた時は、本当にここを出ていってしまおうかと思った。が、一時的な怒りが一生を左右してしまうかもしれない世界だ。ルーミスはグッとこらえて我慢をした。……ここを出ていっても、もう他に泊まるアテはない。我慢するしかないのだ。
 イリアは不満そうな顔をして、ウィンナーを口に運んだ。急いで噛んで飲みこむ。
「えぇ〜? いいじゃない。一緒に住むんだし」
「それがイヤだって言ってるんだよ!」
 ルーミスはドンッと机を叩いた。イリアはびっくりして持っていたフォークを落としてしまった。
「……あんた……いつからこの街にいるのか知らないけど……甘く見るんじゃないよ。どんだけ銃の腕がたつのか知らないけど、ここでは信じられるのは自分だけなんだ。本当はあんたと一緒の部屋だってだけで十分に腹が立って
るのに……」
「あ、そうだ。今日から食事と掃除は当番制にしようね。今日はあたしだから、明日はルーミスがご飯当番ね」
 イリアはぽん、と手を合わせて立ちあがった。すでに皿の上は空になっている。
「じゃ、今日はお掃除をお願いね」
 皿を持ってイリアは微笑むと、そのままキッチンのほうに姿を消していった。ルーミスは口をひきつらせる。
「……人の話を聞いてないね……」
 気分を紛らわせるかのように、ルーミスは一気にトーストを口の中に放りこんだ。あれだけ熱かったトーストは、すっかり冷めきってしまっていた。


「ねぇ、あたしはもっとルーミスのことが知りたいんだ」
 それが、イリアの口癖だった。
「あたしは、あんたと一緒に暮らしていく気はないんだけど」
 それが、ルーミスの口癖だった。
 サラサラな金茶の髪を持ち、大きな茶色い瞳をクリクリと動かし、珍しくこのスラムの住人に、誰一人として襲われたることのない、笑顔がかわいい天使のような人間、イリア。
 赤茶の髪を無造作に伸ばし、髪と同じ色の瞳で常に誰かを睨んでいて、このスラムの全ての人間から嫌われている、死神の使いと呼ばれる人間、ルーミス。
 こんな両極端な二人だ。誰もが二人の同居生活は、すぐに終わりを迎えると思った。思っていた。

 そして、一ヶ月がすぎた。


「……ルーミス。どこに行くの?」
 いつもと変わらぬ朝。結局、ルーミスはイリアが勝手に決めた食事当番制をイヤイヤながら、きちんと守ってすごしていた。……だが、イリアのことを思ってではない。どんな小さなことだとしても、借りを作りたくなかったのだ。
「……どこだっていいじゃないか……」
 今日はイリアが当番の日で、さきほどまでルーミスも彼女の作った朝食を食べていたのだが、食べ終わるや否や、自分のベッド(イリアは床で眠ることになった)の上においている、小さな布のカバンを持ち、外に出ようとしたのだ。
「いいことないわよ! 今日は私も酒場のお手伝いはお休みの日だから、ルーミスと一緒にいたいじゃない!」
 イリアは、持っていたグラスに入っていたミルクを一気に飲みほして、テキパキとお皿の片づけをはじめてしまった。ルーミスは、ただ黙ってそれを見ている。
 ……この一ヶ月、ルーミスにも少なからず異変が見られはじめた。
 気がつけば、イリアがどこにいるのか、考えるようになっていたのだ。酒場の手伝いが終わる時間には、必ず部屋に戻るようになっていた。食事当番も、正直今でもイヤだが、以前イリアが一方的に話していたときに聞いた、彼女の好きなメニューを作っていたり……
 ルーミスも、気づき始めていた。自分の中で、何かが……何かが、変わりはじめているということを……
「おまたせ! さ、行きましょ」
 その声を聞いて、ルーミスは我を取り戻した。前に、きょとんとした顔でこちらを見ているイリアがいた。
「……あ、あぁ。早かったね」
 ルーミスは慌てて苦笑いをした。相変わらずヘタな笑顔だな……と思ったが、イリアが何も言わないので、それ以上は気にしないことにした。
「ねぇねぇねぇ。どこに行くの?」
 部屋を出て、スラムの街を出てからも、イリアはしつこくそればかり聞いてきた。ルーミスは最初はただ黙って目的地に向かっていたが、協会集落を横切ったあとくらいで、イリアはムッとした表情を見せた。
「何よ! おしえてくれてもいいじゃないの!」
 子どもみたいに頬をぷうっとふくらませ、イリアはその場に立ち止まった。今にも座りこんで地団太を踏みそうな勢いでもある。別にそのまま放っておいてもいいのだが……。ルーミスは大きく溜息をついた。そして、チラリと後ろを振り向く。まだ、イリアは頬をふくらませていた。
「……お墓だよ……」
 観念したように、そうつぶやく。すると今までスネていたイリアが、ぱっと嬉しそうな笑顔を見せ、ルーミスの横まで小走りで近寄ってきた。ルーミスの顔を覗きこむようにして、
「お墓って? 誰の?」
 そう、聞いてきた。ルーミスはもう一度溜息をつく。
「両親だよ……もっとも、何も埋めていないけどね。墓標だけ」
イリアの目を見ようともしないでしゃべり、再び目的地に向かって歩き出した。慌ててイリアも後をついてくる。
「でも偉いね! ルーミスはちゃんと親のお墓を作ってあげてるんだ。私なんてな〜んにもしてあげていないよ」
 ルーミスの横に並び、イリアはいつもの一人語りをはじめた。ルーミスが聞いていても聞いていなくてもかまわない。
 ただただ、自分のことを延々と話しつづけるのだ。このせいで、ルーミスは嫌でもイリアのことを知ることになった。
 家族構成、誕生日、身長・体重、血液型、趣味、好きな食べ物……簡単なプロフィールは、一通り知っている。
「ほら。この間も言ったけどさ、私は両親を盗賊に殺されちゃったじゃない」
 その中の一つ、両親を亡くした理由のことをイリアは再び話しだした。
 イリアは、幼い頃に住んでいた村を盗賊に襲われ、焼き払われてしまったのだ。その時イリアは運良く逃げ出す村人に抱えられ、難を逃れたのだが、イリアの両親は村に残って村ごと盗賊に焼き払われてしまったのだ。それ以来、村には帰ったことはないという。だから、イリアの両親は墓標すら存在していない。
「……だからさ……本当に羨ましいな、ルーミスが。偉いと思うよ」
 ルーミスは横目で隣を歩いているイリアの顔を見た。じっと前を見つめている、茶色い瞳。ルーミスはイリアのこの目が嫌いだった。こんな意思の強そうな瞳……じっと見つめていると、吸いこまれそうに気分になってしまうのだ。思わずルーミスは目を逸らしてしまう。しかしイリアは、そんなルーミスの様子に気づいていない。
「いつか、お父さんとお母さんに会えるって信じてるんだ」
 嬉しそうな笑顔で語るイリアを、ルーミスは見ようともしなかった。なぜなのかはわからない。……ただ、この街で、一人で生きていく。と決意したルーミスにとって、イリアはルーミスの『望むもの』なのか『望んでいないもの』なのか、よくわかっていなかったのだ。
イリアと住んで、なんだかルーミスは自分が弱くなっていっているような気がしているのだ。この間イリアは、こんなスラムの人間でも「信じたい」と言っていた。自分が信じなければ、誰にも自分を信じてもらえない。と言うのだ。
 今は、そのイリアの性格からか、まだ誰にも襲われないですんでいるけれど、いつどこで誰に襲われてしまってもおかしくない治安なのだ。ルーミスは、そればかりが気になっていた。
「あ、あそこ? あそこじゃないの?」
 気がつくと、すでに目的地の手前まで来ていた。ルーミスは黙って頷く。それを見て、イリアはいつもの笑顔を見せた。
「よし! じゃああそこで休憩しよう!」
 そう言って駆け出すイリアを見て、ルーミスはふと笑ってしまう。
 ……生まれて初めてだった。……ここに、誰かを連れてくるのは……


 ギラギラと照っている太陽の光を手でさえぎりながら、ルーミスはその丘に立った。
海の見える丘。何もないそこに、ポツンと二つの大きな石が並んで置かれている。
どう見ても、それは自然のものではなかった。誰かが人為的に置いたものだと一目でわかる。しかし、ルーミスはその石を見ても不思議そうな目はせず、逆に誇らしげな笑顔で歩み寄った。そう、ルーミスが置いたものだからだ。
 ここに親の墓を置いて、もう一年近くなる。でも、ほぼ毎日ここに来て、墓をみがいているおかげでもあるのか、墓が汚れている、ということは、今までに一度もなかった。それが、ルーミスの密かな自慢だった。
 柔らかい草を踏みしめながら、ルーミスは墓石の前に立ち、バッグの中にいれてきた布で、丁寧に墓石を拭きはじめる。イリアは、そんなルーミスの横に立つ。
「へぇ、ここなんだ。ルーミスが言っていた場所って」
 ルーミスが墓を拭いていたときに摘んできたのか、手にはわずかだが花が握られていた。その少ない花を、また二つにわける。そして、それをそれぞれの墓に供えた。
「……でも、どうして今更お墓なんて……?」
 言ってから、イリアはしゃがんで手を合わせた。しばらくしてから瞳を開けて、立ちあがる。ルーミスはこれ以上拭いてもしかたがない。と思うくらい、丁寧に墓を拭いていた。
「……あたし……何もしてあげれなかったからさ……」
 拭きながら、ルーミスは答える。イリアは黙って聞いていた。
「母さんが死んだときのことなんて、小さかったから全然覚えてないし……父さんも死んじゃって……。父さんには、いろいろ教えてもらったのに、あたしはただ教わっただけで、何もしてあげれなかった……だから、せめてこのくらいはしてあげたいじゃない?」
 やっと拭き終わったのか、ルーミスは布をたたんでバッグの中にしまいこんだ。そして、ふうっと息をついて座りこむ。イリアはクスリと笑った。そして、寂しげな笑顔で、空を見上げた。雲一つない、真っ青な空。鳥の鳴き声が耳に届いた。
「ねぇ、ルーミス……空ってこんなに広いのに、どうして私達ってこんなにちっぽけなんだろう……?」
 そう言いながら、イリアは膝をかかえてルーミスの隣に座った。ルーミスは一瞬キョトンとした顔をしたが、しばらくしてから、突然笑い出した。
「何よぉ〜?」
 ムッとした顔で、イリアはルーミスの方を見た。ルーミスは笑いを押さえながら、にじみ出てきた涙を拭った。
「……いや、何を言い出すのかと思えば……そんなの気にしてたってどうしようもないじゃない? そんなことより、今をどうやって生きていくか……あたしはそればっかり気になっちゃうよ」
「……」
「今を生きて、精一杯生きて、それから空を眺めるよ。あたしは」
 キッパリと言って、ルーミスは空を仰いだ。日の光が、とても暖かい。
「……あはは! ルーミスらしいや!」
 今まで黙っていたイリアが、そこで初めて笑顔を見せる。……しかし、その笑顔は一瞬だけであった。また、寂しそうな笑顔に変わってしまう。
「……私も……ルーミスみたいに割りきれたらな……そしたらどれだけ幸せになれたんだろう……」
 膝をギュッとかかえ、イリアは呟いた。ルーミスはイリアの方を見つめなおす。
「……イリアは? イリアは今の生活が楽しくないの?」
「まさか! 今は今ですっごく楽しいわよ!」
 また、明るい声で返事が返ってくる。
「だって、今はルーミスが隣にいてくれるもんね」
 いつもの笑顔で、そう続ける。ルーミスは何も言わないで、ただイリアを見つめていた。
「でも、私もこの場所、すっごく気に入った! 荒れ果てているスラムに、こんないい場所があるなんてちっとも知らなかったわ」
そう言ってイリアは、スカートについた草をはらいながら立ちあがり、ルーミスの方をじっとみつめた。
「……ねぇ、ルーミス……」
 苦笑いをして、イリアは静かに呟いた。ん? とルーミスは返事をして、顔を上げる。
「一つ、お願いがあるんだ……」
「……お願い……?」
「うん。そう、お願い」
 イリアはルーミスから目をそらし、前を見つめた。もう、日は沈みかけていて、空はオレンジ色に染まりかけていた。
「もし……もしだよ? ……私が……」
「……?」
 一瞬、イリアは言葉を詰まらせる。いつもと違うイリアの様子に、ルーミスはちょっと不安そうな顔でイリアを見つめていた。……そして、イリアはルーミスの瞳を見つめて、続ける。
「もし私が死んだら、ここにお墓をたててくれない……?」
 明らかに作り笑顔だとわかるような笑顔で、イリアは笑いながらしゃべった。
「……な……」
そんなイリアとは対照的に、ルーミスは手をわななかせた。
「何言ってるんだよ! イリア……あんた……何考えてるの?」
 ものすごい形相で立ちあがり、今にもイリアの胸倉をつかみそうな勢いで、彼女に食って掛かる。
「……やだなぁ……ウソだよ、ウソ……本気にしないでよ……」
 イタズラっぽい笑顔を浮かべて、イリアはルーミスをなだめようとした。が、その行動はルーミスにとって逆効果だった。
「ウソでも……そういうこと……言わないで……」
 両手をにぎりしめて下を向き、ルーミスは体を震わせていた。
「……ごめん……。もう、もう言わないから……」
 イリアはそう言ったきり、黙りこんでしまう。
 日は完全に沈みきってしまっていて、星がいくつか現われはじめていた。しかし、ルーミスもイリアも、しばらくその場から動くことができなかった……
 ……生まれて初めてだった。……こんなに本気で、怒ったのは……


 あれから、どれだけあの場所にいたのかは、覚えていない。 ただ、込み上げてくる涙を抑えているのに精一杯だったので、他には何も考えることができなかったのだ。
「……帰ろうか……?」
 しばらくして、イリアがルーミスの背に手を回して、優しく抱きしめてくれたから、ルーミスはそこでやっと動くことができるようになった。まるで、呪縛から解き放たれたかのように……
 ルーミスが頷いたのを確認してから、イリアはルーミスの手を握って、そのままスラムの街に戻っていってくれた。
 お姉ちゃんがいたら、こんな感じなのかな? ルーミスは、イリアの手のぬくもりを感じながらそんなことを思っていた。実際は、2人は同い年なのだが。
「……ねぇ、イリア……ずっと、側にいてくれる……?」
 部屋に帰ってきて、イリアが暖かいお茶を入れてくれた。それを一口飲むだけで、気分がずっと楽になる。ルーミスは長い溜息を吐いた後、重い口を開いた。イリアは、ルーミスの向かいに座っていて、お茶を飲みながら優しく微笑んだ。
「……どうしたの? 一体……あそこでもそう思ったけど……」
「……もう……もう、一人は嫌なんだ……」
 ルーミスは、そこでやっと本音を言えたような気がした。お茶を一口飲み、気を落ちつかせる。
「目を開けたら一人なんだ……ずっと……ずっと、父さんが隣にいてくれたのに……」
 寝る前、いつも父にお休みなさいを言っていた。毎晩ルーミスより遅く寝るくせに、毎朝ルーミスより早く起きていた父。ルーミスはまだ寝ぼけている目をこすって、それでもニコリと笑って、毎朝おはようございますを言っていた。
 それが、当たり前だと思っていた……
しかし、あの日に全てが変わってしまった。
 父があっけなくこの世を去ったあの日。ガンマンの腕としては超一流とうたわれていた父だったのだが……
 人間とは、なんて脆いものなのだろう。あれだけ強く生きていても、こんなに呆気なく死んでしまえるのだから。ルーミスは、そのとき心からそう思っていた。
「そして、このスラムに流れついて……はは……運が悪かったんだろうね……まさかこんなに治安の悪い街になるとは思わなかったよ」
「……この街を、離れようとは思わないの?」
 そこで、イリアが口を挟んだ。ルーミスは迷うこともなくかぶりを振る。
「父さんと……母さんのお墓があるんだ……離れられないよ」
 呟いて、もう一口お茶を飲む。夜風に冷えた体にはとても温まるものだった。
「あんたが来る前は……一人でもいいと思っていた。目を開けて、隣に誰もいなくても、大丈夫だって……そう思っていた。思っていたかった。……でも、無理だったんだ……」
 言って、ルーミスは顔を上げる。イリアの目を見て、静かに微笑む。
「……あんたが……イリアが来るまでは……」
 自分に対して自嘲して、ルーミスはまたうつむいてしまう。今、自分がどんな顔をしているのかわからない……誰にも、見られたくなかったのだ。
「イリアが来てから、あたしは変わったよ。自分でもわかるくらいだ……父さんが生きていたときと同じような感じになっちゃうんだよ……朝、目を覚ましたらイリアが隣にいてくれてるんだもん……まったく、どうしろって言うのさ……」
 カップを持つ手が震えている。飲みかけのお茶が揺れ、今にもこぼれてしまいそうなほどだ。
「目を開けて……もし、イリアがあたしの前からいなくなっちゃってたら……。最近、そんなことしか考えられないの……怖いんだよ……朝、目を覚ますのが……」
 何を言っているのだ? あたしは……。ルーミスは、自分でもそう思っていた。イリアは一体どんな顔をしているのだろう……気になるが、自分の顔を上げることができない。ただ、震えているしかできなかった。
 ……生まれて初めてだった。人に、弱音を吐いたのは……
「ルーミス……」
 小さく、イリアが呟く声が聞こえる。しかし、まだルーミスは顔を上げることができなかった。今まで、父にすら弱音を吐いたことのない自分に弱音を吐かせた人物だ。ルーミスは、少し屈辱も感じていた。どんな時でも、弱音を決して吐くなと、常に父に言われて育ってきたのだから……
 どんな顔をすればいいのだ? ルーミスは内心ドキドキしていた。いつも人を見下したような態度を取っている自分が、こんな少女に泣き言を言っているのだ。笑われてしまうのでは……誰かに告げ口されてしまうのでは……? 震える手を何とか抑えようとして、ルーミスは大きく深呼吸をした。すると……
 フワッ……
 暖かい何かが、ルーミスを包みこむ。ルーミスはふっと顔を上げた。すぐそこに、イリアの優しい笑顔が見える。
 そっと、イリアは持っていたハンカチを差し出し、ルーミスの頬を拭く。自分でも気がついていなかったようだが、どうやら泣いてしまっていたようだ。
「……寂しかったんだね、ルーミス……」
 笑顔のまま、イリアが呟く。ルーミスは無言のままイリアを見つめていた。いつもは人に触れられるのが好きではなかったのだが、今日はイリアが顔を拭くのにも、何も抵抗はしなかった。
 そして、顔を拭き終わって、イリアが手を離そうとした瞬間、ルーミスは反射的にイリアの手を掴んでいた。
 イリアは少し驚いた顔をしていたが、また優しい笑顔に戻っていく。
「……どうしたの?」
 あくまでも優しく、イリアは尋ねる。そのイリアの笑顔を見て、ルーミスはまた泣き出してしまう。今度は自分でも泣いているとわかる。ルーミスは声を噛み殺して涙を流した。そして、訴えるように呟く。
「……どこにもいかないで……あたしの側にいて……!」
「……うん。ずっと側にいる。ルーミスと……一緒にいてあげるから……」
 イリアは、ルーミスを自分の胸に包みこんだ。ルーミスも、イリアの背に手をまわす。
 泣きながらルーミスは、自分の首筋に何か熱いものが伝っていくのを感じだ。
 ……涙だ……イリアも、ルーミスを抱きながら涙を流して泣いていたのだ。
「ねぇ、ルーミス」
 イリアがルーミスを抱きながら呟いた。
「私達って、片翼だね」
「……片翼?」
「うん」
 イリアが優しくルーミスから手を離す。ルーミスもイリアから少し離れた。
「ルーミスと私。一人じゃ何もできないの。片翼なの。……片翼の私達は、二人揃って始めて空を飛ぶことができる……自由を手に入れられるの」
 始め、ルーミスはイリアの言っている意味がよくわからなかった。
 自分はともかく、イリアまで一人では何もできないとはどういう意味なのだ……?
 その理由を聞こうとしたが、まだ涙が止まらなかった。目頭がどんどん熱くなり、自制が効かなくなっている。大きな瞳から、次から次へと涙が溢れ出てくる。
 イリアはもう一度ルーミスの背に手を回してくれた。私達は、片翼だね。――そう、耳元で囁きながら。
 その夜、ルーミスは泣いた。イリアも泣いた。……一晩中、泣きつづけた……
 ……生まれて初めてだった。人前で、涙を流したのは……


「……ルーミス、どうしたの?」
 遅い朝食をとりながら、イリアは口を開いた。あの夜から一夜明け、正直ルーミスは恥かしい気持ちで一杯だった。
 今まで、誰にも弱音を吐いたことがないのが、密かな誇りだったルーミスのとって、昨日の夜は屈辱とも言えるものだった。
「……な、なにが?」
 少しぎこちない声で答えながら、ルーミスは自分で作ったオムレツにフォークを刺した。
 イリアも、サラダにドレッシングをかけながらニコリと笑う。
「うん……なんだか、緊張してない?」
「い……いや、何でもないから気にしないで」
 言いながら左手をぱたぱたと振って、オムレツを口に入れる。
 昨日、屈辱とも言えることが起こったが、不思議とルーミスは後悔はしていなかった。どちらかと言えば、何か胸の奥につっかえていたものが一瞬にして取り除かれたような、すがすがしい気分にもなれる。そのおかげか、昨晩は久しぶりにグッスリ眠れた。
 ……では、この気持ちは何なのだろう……? ルーミスは疑問に思いながら、オムレツをもう一口、口に運ぶ。
「……なんだか変よ? 今日のルーミス」
 イリアがクスクスと笑いながらサラダを食べる姿を見て、ルーミスは一体どうしたらいいのかわからず、ただ黙々と朝食を食べつづけた。
「ごちそうさま! じゃ、出かけてくる!」
 ルーミスは、お皿を流しにつけ、飛び出すように部屋を出ていった。
「ちょっと、ルーミス?」
 イリアが呼びとめるのも聞かず、ルーミスは扉を乱暴に閉めた。閉めた後、扉を背にしたまま大きな溜息をつき、そのままずるずると引きずりながら座り込んでしまう。イリアが扉を開けたらどうするんだと思ったが、どうやらその心配はないようだったが、ルーミスはすぐに立ちあがった。
「……あたし……どうしちゃったんだろう……」
 火照る頬を押さえ、ルーミスはもう一度溜息をついた。

「そりゃあ『照れ』だよ、『照れ』!」
「『照れ』……?」
 ルーミスはカウンターの向こうにいる男に、オウム返しで問いかける。
 あれから、まっすぐウェポン協会にルーミスは来た。無性に新しい銃の開発に精を出したくなったのだ。
 しかし、ルーミスは仕事場に着くや否や、協会の人間達にいつもと何かが違う事を指摘され、一体何が起こったのかを問い詰められていたのだ。ルーミスも、嫌々ながら、男たちの質問に答えていた。
さすがに、涙を流した事は伏せていたが。
 その話を聞き終わった男たちが出した答えがそれだった。『照れ』だと言うのだ。
「でも『照れ』なんて……そんなことは一度も……」
 口をモゴモゴさせながら、ルーミスは差し出されたジュースをすする。すると、他の男が笑いながら答えた。
「そりゃそうだよ! 一度も照れた事のない人間が、本当の『照れ』をわかるはずがないだろ?」
「そうだよな〜、でも、確かに今のルーミスは『照れ』てるよな〜」
 他の男も、口を挟む。ルーミスは一瞬ムッとして、
「どうしてそんなことが言いきれるのよ!」
 つい、反論してしまう。男はニヤニヤしながら即答した。
「顔が赤い! それが一番大きな証拠だぜ?」
「な……っっ!」
 言い返そうとしたが、ルーミスは何も言えないでいた。それどころか、自分の頬がどんどん熱くなっていくのを感じる。……それは、今までに感じたことのない感情だった……ルーミスは、無言のままもう一口ジュースをすする。
「……しっかし、ルーミスみたいな無表情女でも、そんな顔をするんだなぁ……」
「なによ! 人を鉄仮面みたいに!」
 男の言葉に、ルーミスはカッとなって立ちあがる。しかし、今日はルーミスがどんなことを言っても、ここの男たちには通用しない。今、目の前にいるのは、頬を染めながら困ったような顔をして怒っている、ただの12歳の少女なのだ。いつもの、無表情のまま一喝しているルーミスではない。
「はははは……今日のルーミスはかわいいよなぁ〜」
「あぁ、本当だぜ」
「毎日こうだと、こっちも喜んで言うことを聞いてやろう。って気にもなるっていうのになぁ」
 言いたい放題言っている男たちを見ながら、ルーミスは震える両拳を握り締める。
「あーもうっっ! 今日は帰る!」
 頬がどんどん熱くなっていっているのが、自分でもわかる。ルーミスはすごい勢いで立ちあがって、ずかずかと出口に向かって歩いていった。壊してしまいそうな力で乱暴に扉を開けて、ルーミスはウェポン協会をあとにした。
 うしろで何やら笑い声が聞こえたが、それは無視した。それより、この火照った頬をどうにかしてほしい。そう考えている間にも、頬はどんどん熱くなっていく。今まで感じたことのない感情の中、ルーミスは一体どうしたらいいのかわからず、ただ困惑していた。そんな中……
「ルーミス」
 すっと、扉が開けられる。そこには、今まで声をあげて笑っていた男たちがいた。
 いつもカウンターに座っている男が、先ほどまで見せていたものとは違う笑顔で、優しくつぶやく。
「……いい、友達を持ったな……」
 まわりの男たちも、うんうんと頷いている。このウェポン協会ができてから、毎日のようにここに通っているルーミスだ。みんな、彼女のことを妹のように思っている。
それに気がついたのか、ルーミスも照れながら微笑み、答えた。
「……うん……」
 そうか。これが『友達』なんだ。
……『友達』……なんだ……


 なんとか頬が赤くならなくなった頃、ルーミスは協会に戻った。やはりこのまま仕事をサボるのはいけないと思ったからだ。
「じゃあ、今日の仕事はこれでお終いだよね?」
 ルーミスは、油で汚れた手で額をぬぐいながら、そう尋ねた。隣で、同じく油で汚れている男が、着ていたTシャツを脱ぎながら答える。
「あぁ、そうだな。今日はこのくらいにしておくか」
 その答えを聞くと、ルーミスは急いで使った工具の片づけを始める。
今日は、一日中新しい武器の開発をする手伝いをしていた。以前からの頼みごとだったので、朝から晩まで、つきっきりでいろんな武器を改造しまくっていた。おかげで体中が汗と油でベトベトである。仕事が終わったと実感してから、初めてその嫌な感触が全身を襲ってくる。
大好きな武器開発の最中は、そんなことは全く気にも止めていない。それほど夢中なのだ。
 ルーミスは苦笑しながら、とりあえず洗面所へ向かって、顔を洗った。横に置かれている清潔なタオルで顔を拭くだけで、随分と気持ちがよくなる。ふうっと一息ついてから、ルーミスはまたさっきの部屋に戻った。
「じゃあ、また明日」
 持ってきたカバンを持ち上げながら、ルーミスは挨拶をする。
「おう、また明日、頼むな」
 男の声に手を振って答え、ルーミスは仕事場をあとにした。
 後に残された男の部屋に、他の男たちが入ってくる。みんな、ルーミスが出ていった扉を見つめながら、
「にしても、珍しいよなぁ。ルーミスが時間になってすぐに帰るなんて……いつもなら、俺達が『頼むから返ってくれ』って言ってるのに……」
「イリアって子が待ってるんだろ? 家で」
「……本当に変わったよな……ルーミスって……」
 そう、口々に話している。みんな、嬉しいのだ。ルーミスがやっと普通の女の子らしい生活を始められて……
 そんな会話をしながら、男たちは、自分の仕事に再びとりかかった。元々ここに寝泊まりしているので、好きなときに仕事をやめて、好きなときに寝て、好きなときに起きてもいい決まりになっている。
 と、突然。
 ドンドンドンッッ!
「おい! 開けてくれ!」
 男の怒鳴り声と共に、扉を強く叩く音が聞こえてくる。
 仕事の手を止め、重い腰を動かして扉を開けると、真っ青な顔をした20代くらいの男がそこに立っていた。
 その男はよく知っている。同じ協会集落で働く男だ。
「よぉ、どうしたんだ? 息を切らして」
「大変だよ……さっき、スラムのギルドから連絡が来たんだが……」
言いながら、男は手に持っていた紙切れを広げてからつきつける。最初は面倒くさそうにその紙切れに書かれた文字を読んでいたが、読んでいくにつれて、その表情がだんだん険しくなっていく。
「……そういうことだ……ここもヤバイかもしれない。気をつけてくれ……じゃあ、他のみんなにも知らせてこなきゃいけないから……」
 相手が読み終えたことを確認してから、男はまたその紙切れをたたんで、その場をあとにした。
「……おい、何が書かれてたんだ……?」
 気がつくと、仕事を再開していたはずの仲間達が、全員こちらのほうに集まってきている。
「協会のメンバーがこのウェポン協会に来るなんて……よほどのことなんだろ?」
「……あ、あぁ……」
 ぎゅっと、拳を握り締めた。汗が、頬を伝わるのを感じた。ごくりと、唾を飲んでから答える。
「……スラムに……嵐が起こるぞ……」


「ごめん! 待たせた!」
 すっかり暗くなってしまったサビ荒地。ルーミスはランプをぶら下げながら、前に見える明かりの方に声をかけた。
 ランプを前方に掲げ、そこにいるはずの相手にルーミスは手を振った。
「仕事がなかなか終わらなくってさ……」
 笑いながら言い訳をするルーミスに、前にいた人物は明かりを掲げ返す。そこで、顔が見えた。イリアだ。
「うぅん、大丈夫。私も今来たところだから」
 言いながら、イリアはランプを地面におろし、そこに置かれているカバンに手を突っ込む。ルーミスも、イリアと同じように、地面にランプとカバンをおろして、その中に手を入れた。
「……じゃ、今日もやろうか……」
「OK.今日こそ私が勝たせてもらうわよ」
 カバンの中から出した物を大事そうに握り締め、お互いに睨みあう。殺意のまったくない、そんな睨みあいだ。
「今日のエモノは?」
 ルーミスが尋ねると、イリアは無言で微笑み、暗闇の向こうの方を指差した。そこには、大きな岩の上に並べられている、十個ほどの空き缶が見られた。ルーミスも、それを見て無言で微笑む。そして、手に持っていた物を、イリアの方に突きつけた。……それは、ランプの光を浴びて黒く鈍く光る、ルーミスがいつも愛用している拳銃だった。
「先に五つ撃ちぬいたほうが勝ちね」
 ルーミスの呟きに、イリアも手に持っていた物を、ルーミスに突きつけて答える。
「今日こそは勝たせてもらうわよ」
イリアが持っている物も拳銃だった。ルーミスとは違う型の物だが、どちらも十分に殺傷能力がある拳銃である。
 二人は、笑いながら銃を持った手首を、互いに交差させる。
 これが、この試合の始まりの合図であった。


「……はぁ〜、今日も負けちゃった」
「当たり前じゃない。あたしがそんな簡単に負けるとでも思ってるの?」
 にんまりと笑いながら、ルーミスはカバンの中から缶ジュースを二つ取り出した。一つを、イリアに差し出す。
 大きな岩にもたれかけた二人は、缶ジュースを手にとって、乾杯をする。二人の周りには、穴だらけになった空き缶が無数に散らされていた。
「……それにしても、やっぱりルーミスは強いよねぇ」
 ジュースを一口飲んで、イリアはふうっと溜息をついた。ルーミスも、缶から口をはなす。
「今日で何勝? ……えっと、十三勝だったかな?」
「十四勝よ。……そのくらい覚えてなさいよぉ」
 互いに笑いながら、二人はジュースを飲み干した。
 ……どちらから言い出したのかは、覚えていない。二人は、一ヶ月ほど前から、ヒマができると、こうやって撃ち合いをするようになっていた。ルーミスは、イリアが銃を撃っている姿を見たことがなかったし、イリアもルーミスが銃を撃っている姿を見たことがなかったので、丁度よかったといえば丁度よかったのかもしれない。
 一回きりだと思われたこの撃ち合いも、今日で十四回目になる。全部ルーミスの勝ちであった。が、イリアが弱いと言うわけではない。ルーミスが今まで見ている限り、イリアもなかなかの腕の持ち主である。今まで全勝しているがそれもほんの少しの差である。ルーミスも、わずかでも手を抜いたら負けてしまうかもしれないと思うほどだ。かろうじて勝っているものの、ルーミスも毎回冷や汗をかかされている。イリア本人は、気がついていないようだが。
「……さ、そろそろ帰ろうか? お腹すいたし」
 互いの仕事が終わってからすぐに、ここに来るので、まだ二人とも夕飯は食べていない。お腹はペコペコである。
「今日はルーミスが当番だったよね? たしか」
「うん。……でも、疲れたから簡単なものしか作れないよ?」
「何言ってるの。疲れてなくても簡単なものしか作ってないじゃない」
 ルーミスはドキリとした。……図星だったからだ……
 あまり家事が好きでないルーミスは、当番制に従っているとはいえ、必ずどこかで手を抜いてしまっている。
 ……気づかれていないと思っていたが、気づかれていたとは……
 やっぱり、イリアはあなどっちゃいけないな。と、ルーミスは改めて実感した。
「おい、ルーミス」
 突然、二人の背後に人の声が響いた。慌ててランプを持った手をそちらのほうに向ける。
「……なんだ……お前達か……」
 声の主は、3人の男だった。その顔は、ルーミスも見覚えのある……
「なんだとはなんだ! ……今日こそ決着をつけようじゃないか、ルーミスよぉ」
 確か、イリアと始めて出会った日に、ケンカを売ってきた男たちだ。
「……なに? ルーミス。知り合い?」
「まっさかぁ」
 イリアの問いにも、ルーミスは軽く首を振ってそっけなく答える。その行動が、男たちを刺激させてしまう。
「ルーミス! てめぇ俺達をバカにするのもいい加減にしやがれ!」
 三人の中で一番前に立つ、リーダー風の男が叫んでくる。しかし、ルーミスはつまらなさそうに頭を掻く。
「……で、なに? 何をしたいわけ?」
 一応、ホルスターから銃を抜き出す。威嚇行為だ。
「何がしたいって……さっき言っただろ? 決着をつけにきたんだよ!」
 威勢良く叫ぶ男の声にも、何の感情も示さず、ルーミスは突き放すように答えた。
「……決着って言われても……あんたと勝負をした覚えはないんだけど?」
 唇の両端を軽く上げて、銃口を男の方に向けた。
「さっさと失せな。今の私は機嫌がいいんだ。見逃してやってもいいよ?」
「……ふざけんなよっ!」
ガンッッ!
 ルーミスは飛びかかってきた男に向かって、一発だけ銃を撃つ。弾は男の横を通りすぎ、後ろにあった木の枝を撃ち落とした。飛びかかろうとするのを止め、冷や汗をかく男に、ルーミスは自慢気に微笑む。
「次ははずさないよ……? さ、どうする?」
男達は無言のまま背を向け、足早にこの場を立ち去り………これが、ルーミスの予想であった。銃を一発撃てば、大抵の男は逃げさってゆく。……が、今回だけは違った。
「………………甘く見るなよ……」
「なに?」
 両拳を握り締める男に向かって、ルーミスはおろしかけた銃をもう一度男の方に向けた。
「こんな小娘にバカにされて……このまま引き下がってられるかよ!」
「!」
 次の男の行動は、ルーミスの予想範囲をはるかに越えていた。
 無謀にも、銃を持ったルーミスに再び襲いかかろうとしたのだ。
 予想外の出来事に、ルーミスは声にならない叫びを上げ、男に向かって銃口を突きつけた。
 もう、いつでも銃を撃つことができる。そんな体勢にまでもってこれた。……もってこれたのに……
「……!」
 ルーミスの動きは、そこで止まってしまった。引き金に指をかけ、男に銃を向け、いつでも撃つことができると言うのに……ルーミスは、頬に汗が伝うのを感じた。もう、男は目の前にまで迫っている。男が隠し持っていたらしい、銀色に光るものを、ルーミスは見た。……ナイフだ……
 ナイフを確認したあとでも、ルーミスは動くことができなかった。……ただ、確実に自分の左胸を狙ってくるナイフを見ていることしか出来なかった。
 もう。ダメだ……。そう思ったその時………
 ガンッッ!
 一発の、銃声が鳴り響いた。ルーミスはハッと我を取り戻す。
「……が、が………………」
 目の前に、さっきまでナイフを持っていた男が前のめりになって倒れてくる。カランと、ナイフが地面に落ちる音が聞こえ、男はそのまま大地にうつ伏せになって倒れ、そしてピクリとも動かなくなってしまった。しばらくすると、地面に真っ赤な血が流れ出してくる。
「…………イリ………ア………?」
 ルーミスは、恐る恐る後ろを向いた。
 そして、絶句する。
 ……笑っていた。
 そこには、まだ煙の出る銃を持ち、ルーミスに向かってニコリと微笑む……イリアの姿があった。
「大丈夫? ルーミス」
 銃を持った手をおろさないで、イリアは心配そうな顔をした。
「……人殺しだあ〜〜!」
「うわああああああ!」
 男について来ていた二人の男が、いっせいに背を向けて逃げ出そうとする。……が、
ドンッ! ドンッ!
 イリアは、そんな二人にも躊躇せずに銃を撃ちこむ。
 そのまま地面に倒れこむ二人を見て、ルーミスは一歩あとずさってしまう。そして、そのまま動けなくなった。
 三人の音この体から、血がどんどん溢れ出してきて、ついにルーミスの足元にまで届いてしまう。
「あ……あ………!」
 ルーミスは顔を真っ青にして後ろを振り向く。そこには、きょとんとした表情のイリアがいた。
「ど、どうして撃ったんだよ! なにも……なにも殺さなくたって!」
 震える声で叫ぶルーミスを見て、イリアは当たり前のようにさらりと答えた。
「……私が撃たなかったら、ルーミスは殺されてたよ。……違う?」
「そうかもしれないけど……殺さなくたって……」
「……ここはスラムなんじゃないの? 生きるか死ぬか。選択肢はそれだけしかないんでしょ?」
「そうだけど……そうだけど……!」
 両手で頭を押さえて、ルーミスはその場に座りこんでしまう。
「……ルーミス……」
 イリアもしゃがみこみ、ルーミスにささやくように呟く。でも、その優しい声も、今は聞きたくなかった。
 血の匂いで、頭がクラクラする。一刻も早く、この場から離れたい。ルーミスはそう思った。
「……ルーミス、あなた………………」
 顔にかかる髪の毛をかきあげ、イリアはルーミス耳元で呟いた。
「………………!」
 ルーミスは顔を上げた。イリアがニコリと微笑んでいる。
「ダメだよ。ルーミス。……弱点は……命取りになるんだから……」
 立ちあがり、イリアはルーミスのカバンを手に取った。
「さ、帰ろう」
 そう言われ、ルーミスもゆっくりと立ちあがる。後ろをチラリと覗いてみる。そこには、やはりピクリとも動かない三人の男がいる。ルーミスはぐっと口元を押さえた。この死体は一体どうするのかと聞きたかったが、声を出すと吐き気が出てしまいそうなので、そのまま何も言えないでいた。
 ふらつきながら歩き、ルーミスはじっとイリアの背中を睨むように見つめていた。
(……ルーミス、あなた………………)
 さっき、イリアは自分の耳元で静かに呟いた。ルーミス自身でも認めたくない、自分の弱点を……
 だが、今はそんなことよりもっと気になることがあった。
 ……笑っていたのだ……
 男を撃ったとき、イリアは確かに微笑んでいた。憎しみや、狂気の笑みではない。あれは、いつもルーミスに微笑みかけてくれるときのような、あの笑顔だった。その笑顔のまま、イリアは人を撃ったというのだ……
 わからない……イリアの考えていることがわからない……
 確かに、あの時イリアが銃を撃ってくれなければ、命を落としていたのはルーミスのほうであろう。でも……だからって……!
 ルーミスはあの後、頭痛や吐き気のせいで何度もしゃがみこんでしまいながらも、なんとか家までたどりついた。
 イリアは、しゃがみこんだルーミスの側についていてくれたが、手を差し伸べてくれることは決してなかった。ただ、ルーミスが自力で立ちあがるのを待っているだけだった。
 いつもの倍の時間を要して、ルーミス達は部屋にたどりついた。ルーミスはそのまま着替えもせず、ベッドの中に潜りこんだ。イリアは、何も言わずに黙々と寝間着に着替え、自分の寝床についた。
 イリアの静かな寝息が聞こえるのを確認してから、ルーミスもゆっくりと目を閉じた。
 ……今日は、眠れそうにないな………そう、思いながら。

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