下弦半月

前編

 事故の瞬間はスローモーションに見えると言い出したのは、一体誰なのだろうか……
 そんな言葉を何となく思い出しながら、大空陽太はその瞬間を迎えた。
 楽しいはずの家族旅行の帰り、陽太とその両親が乗った車は、雨のためスピンをしてしまった反対車線を走っていたトラックと正面衝突。車体の半分を大破してしまうという大惨事になった。
 冷たい雨が降りしきる中、トラックの運転手が慌てて車の中から出てくる。額から血を流し、右腕をぶらりと下ろしていたが、致命傷ではないだろう。だが……
「誰か! 誰か救急車を呼んでくれ!!」
 半分が潰れてしまっている車体。もはや原型を留めていない姿を見て、中にいる人間の存亡は絶望的であった。
 人通りの少ない海沿いの道路。男の声は夜の雨の中いつまでも、どこまでも響き渡っていた。
 ……あぁ、この私の体が、動くのならば……この手を伸ばして、彼の身体を抱きしめてあげられるのならば……
 頭から血を流し、両足を壊れた車体に挟まれてしまっている陽太を見て、彼女は懸命に手を伸ばそうとした。
 しかし、その手が動くはずもなく――
「誰か! 誰か救急車を!」
 叫ぶ男の声だけが虚しくこだまする。
 その日、陽太の手に抱かれたまま彼女は雨の空を見上げていた。
 その時、雲が割れて月が顔を出す。
 狂おしいほどの、下弦半月。
彼女はその月を見上げ、一心に願った。
 ……あぁ、誰でもいいです。お願いだから、彼を助けてあげて……
 糸で作られた髪の毛は陽太の血で汚れ、黒いボタンで作られた瞳には雨が落ち、それは、まるで彼女が泣いているかのように見せていた。
 しかし、彼女は実際に泣いていた。その、汚れなき心の中で。
 彼女の名は、大空美月。
 陽太の母が作り上げた、一体の人形。
 それは、後に陽太が残す両親の唯一の形見となるのだった――


 月は嫌いだと、彼は言っていた。
 全ての世界を闇が覆っている中、自分の存在をあまりにも主張しすぎているから。ずっと見つめていると、このまま飲み込まれてしまうのではないかという錯覚を覚えるからだそうだ。
 それに、月を見上げているとどうしてもあの日を思いだしてしまうらしい。
 あの、雨の降っていた、下弦半月の夜。
 両足に燃えるような熱を感じた。この両足これから先二度と動かなくなるかもしれないということなど、あの時の彼に知る由はなかった。
 しかし今は、嫌と言うほどそのことを実感している。自分の力では、動かすことのできないその両足。今まで自由にその足で走り回っていたことなど、もう遠い昔のようだ。今は、まるで自分の物ではないかのように動かない。
 頑張ってリハビリを続ければ、今まで通りとはいかないが、自力で歩けるくらいに回復すると、医者は言っていた。
 ……でも、彼にその気がないことを、彼女は知っている。
 だって、足が治っても側にいてくれる人は誰もいないのだから。
 自分の隣で、いつも心配そうな顔をしてくれる人がいるとも気づかず……


「おはよう美月」
 陽太の一日は、今日も彼女の名前を呼ぶことから始まる。それは、この病院に来てから毎日欠かさないことであった。
 中学生の男の子が人形に話しかける――端から見たら、それは異様な光景なのかもしれない。実際、その光景を目の当たりにして眉根を寄せた人も少なくはない。だが、陽太はそんな人の目も気にすることなく決して返事をすることのない美月に話しかけていた。それは、この病院に来る前から繰り返されてきた日常。
 陽太が部屋を出ている間、ベッドのシーツを替えに二人の看護婦が部屋にやって来た。一人の看護婦は美月も何度か見たことがあるが、もう一人の看護婦は今日初めて見る看護婦だった。新人か何かなのだろうか。
その看護婦は、美月を見つけるなり汚い物を見るような目でこう呟いた。
「なに? この汚い人形は」
 そう、実際美月は汚かった。あの事故のせいでところどころ破れており、それを縫い直したあとはどうしても目立ってしまっていたし、洗っても取れない陽太の血が染みになってしまっている。その人形は、傍目から見るとどう見てもゴミとしか思えなかった。
でも、それでも陽太は美月を手放そうとはしなかった。その理由を知っている看護婦が、その看護婦をなだめるように囁く。
「駄目ですよ、これは陽太君が大切にしてる人形なんですから」
「大切に? こんなゴミみたいな人形がですか?」
「確かに、私達の目から見たらゴミみたいに見えるかもしれませんけど……。これは陽太君の亡くなったご両親の形見なのですよ? それに……」
 そこまで言って、その看護婦はそっと美月を抱き上げ、じっと見つめる。どこか、哀れむような瞳。
「これは、小さい時に亡くなられた陽太君の死んだ妹さんを思って作られたらしいのよ……。だから、このお人形の名前も死んだ妹さんの『美月』って言うらしいし」
「あ……。そうなんですか。すいません、出過ぎたことを言ってしまって……」
「いいのよ。でも陽太君の側では言っては駄目よ? 両親を亡くしたショックがまだ残っているんだから」
 同僚の話を聞き、美月をゴミ扱いしていた看護婦の目が変わった。小さく溜息を吐き、憂いを帯びたような瞳になる。
 この看護婦の目が、美月は嫌いだった。自分は悲しくなんかない、哀れんでもらう存在ではないのだ。
 陽太のベッドの真横にある棚に美月は飾られていた。陽太が美月に触れたいと思った時に、手を伸ばせば届く場所。
 美月は本当の美月が死んだ後に作られたので、陽太の妹がどんな人間だったのかは全く知らなかった。死因は事故死だったと聞いている。
ただ、母親が愛情のこめて美月を作ってくれたこと、陽太も惜しみない愛情を美月にぶつけてくれたことから、妹の美月は家族にとても愛されていたのだということは理解できた。
 ――自分に『心』があると知ったのは、一体いつの頃だろうか……。気がつけば、自分に話しかけてくる人間がいることに美月は気がついた。話の内容まではよく理解できなかったが、自分に向けられたその満面の笑みを見て美月はとても暖かい気持ちに包まれていた。返事をすることができない自分を疎ましくさえ思ったことがある。
 ……だが、それ以上は何も望まなかった。
 家で隣に置かれていたクマのぬいぐるみに、心の中から話しかけたことがある。だが、返答はなかった。その時に美月は悟ったのだ。これは、自分だけが得た物なのだと。
 そして、同時にこう思った。自分には、人間の声を聞いて何かを思う『心』を得た。が、それ以上は何も望まない。と。
 これ以上何かを望むことは、許されないことなのだと。
 そう、これ以上は、何も望まないはずだったのに……


「陽太君、リハビリの時間よ」
「行かない」
 その日も、いつもと変わらない会話が交わされていた。
「またそんなこと言って……。リハビリをしないと以前みたいに歩けるようにならないわよ?」
「別にいいよ。もう歩けなくたって」
「陽太君……」
 看護婦はうんざりとした表情でベッドに寝転んでいる陽太を見つめる。
 もう、幾度となく交わされた会話。
 あの事故からすでに三ヶ月が経過していた。陽太の足のギプスは取れ、これから元通り歩けるようになるためリハビリをしようと言い出した時、陽太は断固としてそれを拒否したのだ。看護婦がどんなに説得し、なだめても陽太は首を縦には振らなかった。
(……陽太さん……)
 その光景を、美月はいつも見ていた。そして、いつも心を痛めていた。
 美月は知っていた。陽太がリハビリを始めない理由を。
 陽太は怖いのだ。どんなにリハビリをしても、この足は治らないかもしれない。だから、どうしてもリハビリをするのをためらってしまう。
 リハビリをしても、もう二度と歩けないのかもしれない……それなら、いっそのことリハビリをしないで歩けなくなってしまった方がいい。
 他人が聞けば「何て馬鹿なことを」と思うかもしれない。だが、陽太にしては、これは一大決心だったのだ。陽太だって、本当はリハビリをして歩けるようになりたい。以前と同じように歩いて、またいろいろな所に出かけたい……。何度もそう思った。
 でも、もう陽太の隣には彼を励ましてくれる人がいないのだ。事故の後陽太が目を開けたのは事故から一週間が経過した時。即死だった両親の遺体はすでに埋葬されていて、陽太が再会したのは、かつて両親の身体を形成したと思われる骨が入っている二つの箱だけだった。
車椅子に乗り、線香の匂いが充満している暗い部屋の中で、陽太は両親と再会した。膝の上に美月を乗せて。
 しかし、不思議と涙は出なかった。
 陽太君は強い子だね。と看護婦に言われたが、別にそういう訳ではない。ただ、あの箱に両親の骨が入っていると言われても実感が沸かなかっただけなのだ。
陽太の記憶にあるのは、旅行の帰りに笑顔で運転をしていた父と母の横顔。その笑顔がもう見られないというのが、陽太にはとてもじゃないが信じられなかった。
もう、あの笑顔が二度と見られないということなど、信じたくなかったのだ。
 だから、陽太は涙を流さなかった。涙を流した日は、それを全て受けとめてしまう日だと思ったからだ。
 信じたくなかった。妹の美月だけでなく、両親までもが自分を置いてどこかに行ってしまったなんて……
 人形の美月は、いつも涙を流していた。
 もちろん美月は人形なので、その目から涙が出てくるはずもない。
 でも、美月はいつも泣いていた。その、汚れなき心の中で。
(私は、いつもここにいます……)
 その日の夜も、美月は泣いていた。
 陽太は今、トイレに行ったのか病室には美月しかいない。別に美月が泣いても誰かが気づくというわけではないのだが、美月は陽太のいる前では泣きたくなかったのだ。
(あぁ、誰か、陽太さんを元気付けてください……誰でもいいです、陽太さんに……)
 その時、風が吹き、窓を開けっぱなしにしていたため、カーテンがふわりとなびいた。カーテンの隙間から、空が覗ける。
 今夜は、下弦半月。
 ぼうっと空を見上げていると、一瞬月が揺らいだように見えた。
(……?)
 じっと、月を見つめてみる。
 今度は、月の周りがぼうっと光ったように見えた。そして――
(!)
 次の瞬間、美月は妙な錯覚を覚えた。何かに包まれているような、溶け込んでゆきそうな、そんな錯覚。その時だった。 
「誰?」
 聞き慣れた声が、耳に届く。美月は反射的にそちらを向いた。
(……あれ?)
 美月は、妙な違和感を覚える。
首が、動く。
「誰なんだい? どうして俺の病室に?」
 車椅子を漕ぎながら、陽太は美月の方に目を向ける。
(……私……?)
 どうしてこちらを見るのだ? 美月は不思議に思った。私のことなど、見慣れているはずなのに……
 しかし、次の瞬間美月はその陽太の不審な態度の理由を知ることになる。
 部屋に置かれてある、洗面台。その鏡に見慣れない人物が映っていたのだ。
 背を流れる艶やかな黒髪。月夜の光に青白く光る白い肌、夜風になびく白いワンピースを着ている十二、三歳の少女…そんな少女が、自分の座っているはずの棚の上に座っていたのだ。
「ここで何をしてるの?」
 陽太に声をかけられ、美月はそこで始めてそれが自分に語りかけられているのだとわかった。驚きのため、肩がビクッと動く。その時、鏡の中の少女の肩も自分と同じように肩を震わせた。
(……え……?)
 その時、やっと気がついた。自分の体が、自分の思うように動いていることに。
「どうしたの?」
 じっと遠くの鏡を見つめている少女を疑問に思ったのか、陽太はもう一度尋ねてみる。その時の陽太に、不思議と怖いなどの感情は浮かばなかった。むしろ、どこか懐かしいような――
「……いい月が出てるね」
 それが、美月が生まれて初めて発した言葉だった。静かに空を見上げ、月を仰ぐ。桜色の唇から鈴が鳴くような声が漏れた。陽太は思わずドキリとしてしまう。
「こんな夜は、何かが起きそうな気がしない?」
 そう言って陽太の方に向き直り、少し悪戯っぽく微笑んでみせる。
 声の出し方はわかっていた。どうやったら笑顔が作れるのかということも自然とできていた。
 美月が微笑むと、鏡の中の少女も微笑む。そう、あの鏡に映っているのは美月自身なのだ。
 美月はもう一度、窓から月を眺める。本当に綺麗な月。陽太はしばらくその少女の姿に見とれていてしまったが、しばらくしておもしろくなさそうに答えた。
「月は嫌いだよ」
「どうして?」
 聞き返したのは、社交辞令。しかし美月はこの理由を幾度となく聞かされてきた。彼自身の口から。
 陽太は窓から空を見上げる。一瞬眉根が寄ったのを、美月は見逃さなかった。
「暗闇に輝いているから」
 返って来たのは、美月の予想していた通りの言葉。なぜか、少しだけ悲しくなる。
「それだけの理由で?」
 これも、ずっと聞きたかった言葉。陽太から月が嫌いな理由は聞いていたが、本当にこれだけの理由で嫌いになれるのだろうか。私と……彼の愛する妹と同じ名を持つ、この月を。
「あの、月しか見えなかったんだ……」
 しばらくの沈黙のあと、陽太は口を開いた。
「交通事故にあったあの日、救急車が来るまでずっと空を見上げてた。雨は上がっていて、綺麗な夜空が見えたよ。月も、とても綺麗だった……」
 でも。と言って、陽太は息を呑む。この続きをこんな見知らぬ少女に言っていいものかと、ほんの少しだけためらう。
だが、その迷いはすぐに打ち消された。この少女になら話してもいい。なぜかそう思えたからだ。
「でも、月は俺を見下ろしてるだけだった。とても綺麗に輝いていたのに、月は俺に何もしてくれなかった。励ますことも、抱きしめてくれることも、叱り付けてくれることも。当たり前だと言われたらそれまでかもしれない。でも、あの時俺が頼りにしていたのはあの月だけだった。ずっと、月だけを見上げていた……それなのに、月は俺に何もしてくれなかった。それどころか、俺達がこんな事態に陥っているというのに、月は自分のことしか考えていないみたいに夜空に輝いていたんだ。……だから月は嫌いだ」
 私は? 私は、ずっとあなたの側にいました。私ではあなたの心の慰めにはならないのですか?
 美月は、心の中でそう思う。そして、それと同時に目頭が熱くなるのを感じた。
「どうして泣いてるの?」
 そう尋ねてきたのは陽太だった。美月はその時初めて自分が泣いているということに気がつく。そう言えば、陽太が病室から出た時に泣いていたのだっけ……美月は慌てて目をこすった。
「君もこの病院に入院してるの?」
 ふと陽太が、そんなことを尋ねてくる。美月は一瞬迷うが、すぐにゆっくりと頷く。それ以外に言い訳が見つからなかったからだ。
「俺は大空陽太。君は?」
 笑顔でそう言われ、美月は思わず嬉しくなってしまう。やはり、この人には笑顔が似合う。心からそう思った。
「……美月……」
 迷うことなく、そう答える。陽太はその名を聞いて目を何度か瞬きさせるが、すぐに先ほどの笑みを浮かべてくれた。
「……俺の妹と一緒の名前だよ」
 俺の妹と。
 そう言われ、胸がチクリと痛む。やはり、私では妹の代わりにはならないのだろうか。
「俺は太陽で、妹は美しい月。そういう意味でつけた名前なんだって。『大空』って苗字にも合ってるだろ? 気に入ってるんだ」
 これも、何度か聞かされた言葉。しかし美月はさも初めて聞いたかのように大きく頷いてみせた。
「いい名前をつけてもらったんですね」
 これは、初めてこのことを聞かされた時に返してやりたかった言葉。やっとこの言葉を本人に直に言えた喜びからか、美月の瞳に再び熱いものがこみ上げてきた。
「どうしたの?」
 陽太が、優しく声をかけてくれる。
 それだけで、とても嬉しかった。
 今まで幾度となく願ってきた。この人と、会話をしてみたいと。
 それは願ってはいけないことだとわかりつつ、願わずにはいられなかった。
 ……そう、これは夢ではないのだ。
 人形である私が人の姿を得られる魔術。
それは、彼女の心の想いが作り出したものなのだろうか……
 それとも、彼も願ってくれていたことなのだろうか……
 風が吹き、カーテンが揺れる。
 柔らかな月光が、二人を照らしだしていた。

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