後編

「美月はどうしてこの病院に入院してるの?」
 陽太がそう尋ねてきた時は、さすがの美月も返答に困った。しかし陽太は、
「言いたくなかったらいいんだよ。聞かれたくないことだってあるもんね」
 そう、笑顔で言ってくれる。美月もニコリと微笑んだ。その気遣いが、今はとても嬉しい。
 すでに美月は棚から降り、陽太のベッドの隣に椅子を置いてそこに座っている。陽太はベッドに横たわり、首だけを美月の方に向けていた。
「ところで、その棚に置いてあった人形知らない? 俺の大切なものなんだけど」
 美月が棚から降りて初めて、陽太はそこにあの人形がないことに気づいた。布団から手を出し、棚を指差す。美月はあぁ。と呟いてから答えた。
「あの人形なら大丈夫です。朝になったら元の位置に戻ってるはずですから」
「? それならいいんだけど」
 何故そんなことが言えるのだ。と、陽太は探索しなかった。自分でもよくわからないのだが、この美月という少女の言うことはなんでも素直に聞き入れることができる。
それは、月夜が照らし出す少女の神秘的な姿のせいか、それとも、美月という妹と同じ名前のせいだろうか。
 その時、ふと陽太は窓から外を眺めた。相変わらず、月がこちらを見下ろしている。その月を見て一瞬陽太は目を伏せる。
「そんなに、月が嫌い?」
 陽太の態度を見ていた美月が、寂しそうに尋ねる。陽太は目を伏せたまま答える。
「月を見ると、どうしても思い出してしまうから。あの日のことを……」
 そのことを言われると、美月は何も言い返すことができなかった。
 あの事故の悲惨さ、両親を突然失った陽太の悲しみは、美月が一番よくわかっていたからだ。事故のことを忘れることなど、できるはずもないし、美月もそれは望んでいない。
ただ、どれだけ時間がかかっても構わないから、この事を陽太が思い出しても今ほど心を痛めずに済むように願うだけであった。
 美月は、そっと陽太の額に触れてみた。なんだか陽太の顔が赤い気がしたからだ。だが、その瞬間ものすごい勢いで陽太は上半身を起こして美月の手を払った。
「……あ……ゴメン……」
 驚いた顔をしている美月に、陽太が顔を真っ赤にして謝ってくる。
「あの、あの俺、あまり女の子とは縁がなかったから、そ、その、突然で驚いたっていうか……」
 しどろもどろに言葉を探す陽太を見て、美月はなんだかおかしくなってしまった。
 人形の私の前では、絶対に見せない反応。
「……ひどいなぁ。笑わなくてもいいじゃないか」
「ごめんなさい……なんだかおかしくて」
 クスクスと一人笑う美月を見て、陽太はますます顔を赤くした。それが更に美月を笑いの渦へと誘う。
 そう、こんなさり気ない日常を望んでいたのだ……


「妹の美月はね、俺より一つ年下で……とても意思の強い子だった。クラスでも人気者で、委員長もやっていたんだ。でも、美月とは違って俺は人見知りが激しくて引っ込み思案な性格だから、特定の仲のいい友達っていうのもいなくて、いつも一人でいたから、美月がとても羨ましくて……」
 それは、美月自身も初めて聞かされたことだった。妹がいて、自分はその妹を想って作られたということは知っていたが、妹の美月がどんな人物だったのかは、美月には話されたことはなかった。美月は静かに次の言葉を待つ。
「でも、それでも美月は俺の妹だった。いつも俺の後ろをついてきて、いじめるとすぐに泣いて、甘えん坊で……。他の人は美月をどんな風に思っていたのかは知らないけど、俺にはたった一人の妹だったんだ。……それなのに美月は俺や父さん達より先に天国に逝ってしまった。もう、美月には会えないんだ」
 そう言うと、陽太は窓から月を見上げた。……あぁそうだ、これも自分が月を嫌いな理由だったと、ふと思い出す。
「あの日……美月の葬式のあの日も、今日と同じ月が浮かんでた」
 空に浮かぶ下弦半月。月にはなんの罪もない。そんなことは陽太にもわかっている。でも、月を憎まずにはいられなかった。
「美月が入った棺が運ばれるのを、月はずっと見下ろしていたんだ……その時、俺にはこの月が笑っているように見えた……」
 そう、あの日から陽太は月が嫌いだったのだ。いつも自分達を見下ろし、暗闇の世界に君臨している月。どうして妹にそんな月と同じ名前を付けたのだと、本気で思ったことがある。
 クスリと、自分自身に対して笑う。なんて子供だったのだろうと、今となっては恥ずかしい思い出だ。そこまで考え、陽太は目をこすった。知らず知らずの内に、涙がにじみ出てきていたのだ。
「おかしいね、会ったばかりの君にこんなことまで話すなんて……」
「いいえ……」
 会ったばかりではありません。と、美月は心の中で付け加える。しかし、決して口にはしない。口にすれば、今ここにあるものが全て壊れてしまいそうな気がして……
 美月は自分の心情を悟られないように笑みを浮かべた。
「でも君になら何でも話せるような気がするんだ。楽しかったことも……辛かったことも」
「えぇ、何でも話してください。私でよければ、相手になりますから……」
 そっと、陽太の手に自分の手を重ねた。
 そう、自分はそのためだけに、今ここにいるのだから……


「陽太君はどうしてリハビリをしないの?」
 美月がそのことを聞き出すことができたのは、あれから一時間ほどが経過した時であった。
 それまでは、他愛のないお喋りに花を咲かせていた。美月は生前の陽太の母親からいろいろ聞かされた話を思い出しながら会話をし、それでもわからない話題が出された時は「ずっと入院してたから」の言葉でかわしたし、それ以上陽太が詮索してくることもなかった。
 陽太も美月にたいして大分心を開いてくれ、いろいろなことを話してくれるようになっていた。が、さすがにこの話題を出された時は顔に陰りを見せた。しかし美月は続ける。
「怖いの?」
 それは、決して言ってはいけない言葉。陽太自身も認めたくない、己の感情。
「……怖くなんか、ない」
 陽太は美月から目を逸らしてそう答える。だが、その言葉に覇気はない。
「じゃあどうしてリハビリをしないの? もう二度と歩けなくなってもかまわないの?」
「……かまわないよ」
 返答するまでに、少しの間があった。まだ、彼には迷いがある。
「どうせ足が治っても、もう一緒に歩いていく人はいないんだ……それに、リハビリをしても元通りに歩けるようになるとは限らない。もしリハビリをしても歩けなかったらどうするんだ? 今以上の絶望を味わえって言うのかい? ……悪いけど、俺はそんなのはごめんなんだ」
 そうとだけ言うと、陽太は布団を頭から被ってしまう。
「そんな……あなたのことを大切に思ってる人がいるかもしれないじゃないですか」
「いないよ、そんな人」
 そう、自分を心配してくれる人など、誰もいない。
 陽太の両親は共に一人っ子だった。祖父母も早くに死んでおり、陽太には親戚と呼べる人が誰一人としていないのだ。ここを退院しても、どこへ行けばいいと言うのだ?
「……俺も……」
 小さく、本当に小さく、呟く。
 それは、幾度となく考えたが、口にはしなかった言葉。
「俺も死んでしまえば良かったのに……」
 ぎゅっと、布団を握り締める。
 ずっと、考えていた。
 これから先、自分が生きていて何か特があるのだろうか? ……これから先、生きていく意味があるのだろうか……
 しばらくの、間が流れた。
 陽太は美月の方を見ようともしなかった。ただ、真正面の病室の壁を眺めている。
 どのくらいの時が流れただろう……。
陽太にもよくわからなくなってきた頃、美月が口を開いた。
「本当に……気がついていないのですか?」
「え?」
 美月の呟きを聞き、陽太が顔を向ける。そして、思わずぎょっとしてしまう。
 美月の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちていたのだ。
 風が吹き、美月の長い髪がふわりとなびく。
 月明かりが美月の顔を怖いくらい鮮明に、そして、美しく見せる。
 そう、それはまるで月の化身のような……
「ずっと、あなたを見ている人が側にいるんですよ……?」
 まばたきもせずに、そう呟いた。
 ……そう、ずっと見ていた……
 今思い返せば、あの日も今と同じ下弦半月が空で輝いていた。
 私が、初めて心を授かった日。その日のことは、今でも昨日のように思い出せる。
『美月』
 初めて聞いたのは、とても澄んだ声。その声で、私のことをそう呼んでくれた。あぁ、私は美月なのだ。と、瞬時に理解できた。
 私を抱き上げて、いつまでも他愛のない世間話に花を咲かせてくれていた。
 朝晩の挨拶は欠かすことはなかったし、母はよく洋服を作ってくれていたし、家族で出かけるときは必ず一緒に連れていってくれた。
 ……妹の代わりでも、構わなかった。
 ずっと、私を見てほしいと思っていた。
 ずっと、私を必要としてほしいと思った。
 どんなに辛くても、私という『人』がいることを、忘れてほしくなかった。
 だから、望んだのだ。
 こうやって、あなたと言葉を交わすことを。
 そう、美月は知らず知らずの内に恋をしていた。大空陽太という、一人の男に。
 自分に心を与えてくれた者に、とても感謝をしていた。恋をするというのは、こんなにも暖かいものなのだ。そのことを、知ることができたから。
「私は、ずっとあなたを見ていました……」
 そして、同時に深く憎んだこともあった。
この感情を知らなければ、私は悲しまずに済んだ。夜、一人で涙を流すこともなかったのに……
 縋るように、懇願するように、美月は椅子から立ちあがった。
「……美……月……?」
 呟きは、無視された。美月は陽太のベッドに腰掛ける。
 もう、止められない……
 美月は抑えきれない気持ちで一杯になりながら、陽太の顔を挟むように両手を置く。陽太の顔に、腰まで伸びた美月の長い髪がかかった。
「……気づいてください……」
 美月の瞳からは、まだ涙が溢れ出ていた。それがポタポタと落ち、陽太の頬に染みを作る。それは、陽太が泣いているかのようにも見せる。
 陽太には、わからなかった。
 どうして、この目の前にいる少女が涙を流しているのか。
 どうして、自分はこの少女を払いのけることをしなかったのか……
「忘れないでください……あなたを想う、女の子がいることを……」
 そうとだけ呟くと、美月はゆっくりと頭を下げる。
 美月の唇と、陽太の唇が重なるのに、そんなに時間はかからなかった。
 陽太は逃げもしなかったし、受け入れもしなかった。ただ、いつものようにそこに寝転んでいるだけであった。
 だから、美月が唇を離した時も、驚きもしなかったし怒りもしなかった。
 だが、美月は笑っていた。涙で顔をぐしゃぐしゃにして、満面の笑みを陽太に向けてくれていた。
 それなのに、陽太は彼女に笑い返すことができなかった。何事もなかったかのような、無表情を浮かべる。
 ……そう、そこには始めから彼女が存在していなかったかのように…………


「…………」
 陽太はゆっくりと目を開けた。どうやらしばらく眠ってしまっていたらしい。上半身を起こし、辺りを見まわしてみる。
「…………」
 しかし、そこには美月の姿はなかった。
 まるで、夢から醒めたようだった。
 風が吹き、カーテンがなびく。
 気がつくと、空は白味を帯び始めていた。備え付けの時計を見てみると、時刻は午前五時半。
「自分の病室に帰ったのかな?」
 そう思い、もう一度布団に潜ろうとする。と、その時、布団の上に人形がうつ伏せに転がっていることに気がつく。
「美月? どうしてベッドに……?」
 美月を置いてある棚の位置からして、自然に落ちたとは考えられなかった。不思議に思いつつも、元の場所に戻そうと美月を持ち上げる。
「!」
 美月を持ち上げ、陽太は言葉を失った。
 濡れていた。
 美月が濡れていたのだ。
 それも、普通に濡れているのではない。目の辺り……それも、顎にかけて筋になって濡れていたのだ。
「涙?」
 その時、一瞬陽太の頭の中に一人の少女の姿が写しだされる。
「う……!」
 たまらず、頭を押さえ込む。
 写し出されたのは、一人の少女の姿。
 それは、涙を流しながら自分に何かを訴えた少女。
 あの少女は、自分に何と言っていた……?
「……」
 心臓の鼓動が早くなる。頭が痛い、目頭が熱い、喉がカラカラだ……
 どうしてだろう? 彼女の涙を思い浮かべると、こんなにも胸が苦しくなるのは。
 どうしてだろう? 彼女のことを思い出すと、こんなにも涙が溢れ出てくるのは……
 そっと、唇に触れてみる。
 そこはまだ、彼女の温もりを残していて……
 自分に何が起こったのか、どうしたらいいのかわからず、陽太は窓から空を見上げた。
 そこには、変わらぬことのない下弦半月があった。
 だが、どうしてかその時だけは陽太は月を憎むことはできなかった。
 妹と……あの少女と……そして、この手にある人形と同じ名を持つあの月を……
 陽太はもう一度月を見上げた。月はなおも優しく、陽太に月光を降り注いでくれる。
 涙が止まらない。頬を伝い、布団に染みを作る。瞼の裏から、あの少女の最後の笑顔が消えることはなかった。
 陽太はこの日、生まれて初めて声を出して泣いた。
 この感情を、人は何と呼ぶのだろうか……


 また、何事もなかったかのように一日が始まった。
 陽太は病室に訪れた看護婦に美月という名の少女がこの病院にいるかどうか尋ねてみた。が、誰に聞いても知っているという答えは返ってこなかった。
 それは、なんとなく予想していたことなのだが。
「さ、陽太君。今日こそちゃんとリハビリを受けてもらうからね」
 そして、その日もいつもと同じ台詞を看護婦が言ってくる。陽太は少しだけぼうっとした後、
「……うん、わかった」
 静かに、そう答えた。
「え?」
 虚を突かれたらしく、看護婦は間抜けな声を返す。
「……リハビリ、受けるって言ったんだよ」
 陽太は表情を変えずに淡々と呟いた。
「あ……わ、わかったわ! それじゃあ先生呼んでくるからちょっと待っててね!」
 看護婦はみるみる喜びの笑顔を浮かべ、大急ぎで病室を出ていってしまった。すぐに何かが衝突する音と人々の悲鳴が聞こえてきたが、この際それは無視することにした。
「なぁ、美月……」
 隣に置いてある美月に、声を掛ける。
「お前は知ってるだろ? 昨日会った女の子のこと……」
 しかし、美月からの返答はない。それは当たり前のことなのだが、陽太は少しだけ期待の眼差しを向ける。
 なんだか、今にも美月が動き出しそうな気がして……
「歩けるようになったら、またあの子に会えそうな気がするんだ……」
 それだけの理由だった。
 たったそれだけの理由なのに、陽太に勇気を与えるのには充分だった。
 人に言えば、笑われてしまう理由だろう。
 でも、それだけ昨日の出来事は陽太にとって忘れられないことだったのだ。
 これだけは、確信している。
 あの日……あの、下弦半月の夜のことは、夢なんかじゃない。
「陽太君! リハビリの先生がいらっしゃいって!」
 その時、看護婦の呼ぶ声が聞こえる。
「はぁい」
 陽太は返事をし、車椅子を漕ぎ始める。
 その膝の上に、美月を乗せて――
「行こうか、美月」
 いつも通り、そう話しかけた時だった。
(えぇ、行きましょう)
 どこかから、声が聞こえたような気がした。陽太は慌てて辺りを見まわしてみる。…だが、誰も見当たるはずがなかった。
「…………」
 陽太は無言のまま微笑んだ。優しく、美月の頭を撫でてやる。
 すでに美月の瞳からは涙は消えていた。
 もう、美月が泣くことはない。
 陽太はその日、新たな一歩を踏み出した。

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