第5回

「蒼木?」
 良太が風呂から上がると、すでに未夜子の姿はそこになかった。ベッドの上に一枚のメモだけが残されている。良太はメモを手に取ってみる。
『ちょっと出かけてくる。今日はここで寝ていいし、適当に冷蔵庫を開けてくれても構わないから。 未夜子』
 相変わらずの一匹狼なんだな……。そう思うのと同時に、お腹がクルルと鳴る。そう言えば、今日は昼食にお弁当を食べた後は何も口にしていない。少しだけ迷ってしまったが、キッチンへ行き、冷蔵庫を開けてみることにした。
 お世辞にも綺麗とは言えない、築三〇年は経っていると思われるアパートだったが、それでもキッチンはとても綺麗に使われていた。
 流しには水は一滴も残っておらず、調味料入れに置かれている調味料にもきちんとラベルが貼られて置かれている。食器も丁寧に洗われており、花柄のタオルも真っ白でとてもふわふわしていた。
 キッチンをぐるりと見渡してから、冷蔵庫を開けてみる。
 小さな冷蔵庫を開けると、中には物は多くないものの、女の子一人が一週間は食べていけるくらいの食料が詰められていた。
 いくつか、ラップがかけられた器がある。その中の一つを手にとってみた。それは、昨日の晩御飯だったのであろう肉じゃがが入っていた。恐らく未夜子のお手製だろう。
「本当に、普通の女の子なんだよなぁ……」
 今更ながら、そんなことを考える。
 学校での彼女と、自分が見た死神の姿の彼女。その二つとも全く違う、本当の未夜子がここにいた。
(いつか自分が友達の魂を斬ってしまうのではないか。……そう思ったのね、あの子は。だから学校では極力目立たないように、誰も近づかないように、わざとああやって自分に悪い噂を立てられるような行動をしてるの)
 寂しそうな沙羅の声が思い出される。その声を聞いた時、良太の心に何かが芽生えていた。
 肉じゃがの入った器をレンジに入れ、温める。炊飯器にまだご飯が残っていたので、お椀に装う。
 誰もいない部屋で一人、肉じゃがとご飯を食べ始める。
 ……それにしても、いつの間に外に出たのだろうか。この狭い家だと、風呂にいても扉を開ける音は聞こえるはずだ。そう考えると、どうやら死神になって壁を通り抜けて外に出ていったらしい。
 でも、どうしてわざわざ死神になる必要があったのだろうか。
 肉じゃがを口に運びながら、考えてみる。だが、考えても答えは見つからなかった。
「まだ、蒼木のこと何も知らないんだよなぁ、俺……」
 口をもごもごと動かす。良太の母は週に二度、料理教室に通っているので、料理は上手な方だが、未夜子も負けていないと思う。恐らく、惣菜などに頼らず毎日自分で調理をしているのだろう。肉じゃがを一口食べただけでそれがすぐにわかった。
じゃが芋には出汁がよく染みており、全てが均等に切られていた。肉も玉ねぎも糸コンニャクもちゃんと入れられている。自分の母親が作ったものより美味しいかもしれないと思ってしまったほどだ。
 食べ終わったあと、器を綺麗に洗ってから拭いて、食器棚に戻す。流しもタオルで丁寧に拭き、最初に見た時の通りに綺麗にした。いつもは粗野な良太だが、今日だけは何故か自分から進んで掃除をしたくなった。
 全てを終えてから、これからどうしようと考えたが、どうしたらいいのかわからず、後はベッドで眠ることしか思いつかなかった。
未夜子を追いかけようかとも考えたが、どこにいるのか検討もつかない。それに、下手に動いてまたあの男に会わないとも言いきれない。
未夜子が自分を置いていったということは、今日はもうあの男は現れないということなのだろう。そんな未夜子の考えを信じ、これ以上彼女に迷惑を掛けるわけにはいかないと判断した。そのことは、きちんと理解していた。
 電気を消し、もそもそとベッドの中に戻る。今日は、いろいろなことがありすぎた。眠りは、すぐに襲ってきた。
 未夜子に守られているような気を感じながら、良太は眠りについた。
 夢は、見なかった。


「どこに行くの? 未夜子」
 雨が降っている夜空を、未夜子は沙羅を握り締めたまま飛んでいた。雨は容赦なく二人を叩き付ける。せっかくお風呂に入ったのに……。沙羅がそう愚痴っていたが、未夜子は聞かなかったことにする。
 死神になっている時は、他に物を持つことができない。だから濡れるしか選択肢がないのだ。
 別に傘を持って歩いていっても構わなかったのだが、少しでも早く目的地に辿り着きたいと思い、空を飛ぶことを決めた。空を飛べば障害は全くないので、普通の半分以下の時間で目的地に辿り着くことができる。
 顔に貼りつく前髪を払いのけ、空を飛びつづける。家を出る前に着替えた長袖のシャツとジーンズもすっかり水を吸って重くなってしまっている。それでも、未夜子は風を切った。後ろに流れる景色を見送り、目的地に向かって飛びつづける。
「……それで、どこに行くつもりなの?」
 未夜子は一つ身震いをする。さすがに、夜の雨は冷える。
「叔父さんの家」
「一夜さんの?」
 未夜子は頷いた。今向かっているのは、一年半前に出ていった父方の叔父――一夜の家だった。未夜子の家からは電車で三〇分ほどかかる距離にある。もう夜もふけてしまっている今では、電車もないと判断したのも、飛んでいくことにした理由の一つだ。
「でも、何をしにいくの?」
「ちょっと、聞きたいことがあって……」
「一夜さんでないと聞けないこと?」
「うん」
 はっきりと断言する。それを聞いて、沙羅もそれ以上は何も聞かないことにした。
 ……叔父でないと聞けないこと……それは、死神に関すること。
 叔父は、死神になってないとは言え、そのことに関しては、未夜子の唯一の理解者である。
「でも、家に行く前に一度連絡しておかなきゃ。そんなずぶ濡れの姿で行ったら叔母さんが驚くわよ?」
「あ、そうだね。うっかりしてた」
 沙羅の言葉に空中で一時停止をする。容赦なく全身を叩き付ける雨を気にせずに、沙羅を顔の前に持ってゆき、両手で握り締める。そっと、目を閉じた。
 一瞬だけ、雨が止んだ。
 生暖かい風がすっと未夜子と沙羅の間を吹き抜ける。未夜子は目を開けた。
「これでよし、と」
 目を開けた瞬間、止まっていた時が流れを再開したかのように、再び激しい雨が降り始める。
「叔父さんもこれで感じてくれたと思うし、行こうか」
「えぇ。行きましょう」
 お互いに頷き合い、再び空の散歩をはじめる。
 叔父にテレパシーを送ったのだ。蒼木家に代々伝わっているという、死神同士に送ることのできるテレパシーを。
 人の魂を斬る能力はないが、このテレパシーを飛ばしたり感じたりする能力は叔父にまだ備わっている。昔から、よくこの能力に助けられてきた。叔父は、未夜子の父親代わりの人間だったから、よく父の代わりに未夜子に叱咤を飛ばしてくれたものだ。
 今も、このテレパシーを感じ、叔父は家で未夜子を待ちうける準備をしてくれているだろう。
 頬を伝う雨を、舌で舐めとる。
 少しだけ、焼けた喉が潤ったような気がした。


「――……」
 蒼木一夜は、その時あの懐かしい感覚を感じ、目を開けた。自然と、上半身を起こしてしまう。
 ベッドの隣に置かれている置時計に目をやる。時刻は、午前零時を過ぎた頃。
「……あなた? どうしたんですか?」
 隣で寝ていた妻の裕子も目を開ける。一夜は慌てて起きあがろうとする妻の肩を優しく押してやる。
「いや、ちょっと目が覚めただけだよ。下でお茶を飲んでくるから、お前はもう寝ていなさい」
「そうですか? それなら先に寝かせていただきますね」
 そう言うと、裕子は布団に潜り込んで、すぐに規則正しい寝息を聞こえさせた。
 それを確認し、一夜はベッドから飛び降りる。ガウンを羽織って、一階に下りた。窓から外を覗き、雨が降っているのを見るとすぐに浴室に行き、大きなバスタオルを三枚取り出した。
それから妻の部屋に行き、もう着なくなったトレーナーとジャージを出す。次いでキッチンへ行き、やかんにお湯を沸かし始める。これで準備は完了だ。
 やかんが音を立ててお湯が沸いたのを知らせるのとほぼ同時に、玄関の扉が静かに叩かれる。
一夜はやかんの火を止めてから、バスタオルを持って玄関に向かった。
「未夜子、沙羅」
 扉を開けると、そこには手に沙羅を持ったままの未夜子がいた。全身ずぶ濡れである。
「今晩は、叔父さん」
「お久しぶりです、一夜さん」
「挨拶はいいから、早く体を拭きなさい。風邪を引いてしまうよ」
 一夜がバスタオルを差し出すと、未夜子は少しだけ微笑んでみせてから手に持っていた沙羅を消し、代わりにバスタオルを受け取る。
「でも死神が風邪を引かないのは叔父さんもよく知ってるでしょ?」
「気持ちの問題だ」
全身を丁寧に拭き、未夜子は靴を脱いで家に入る。
「居間に着替えを置いているからとにかく着替えなさい」
「うん。ありがとう叔父さん」
 スリッパを履いて、居間へと移動する。懐かしい花の香りが未夜子の気持ちを落ち着かせた。これは叔母が好きな花の匂いだ。
 叔父の用意した服に着替え、着てきた服を用意してくれた袋の中に入れる。
「飲みなさい」
 ソファに座り、叔父の出してくれたコーヒーを一口飲んで、そこでやっと未夜子は本当に落ち着いたような気がした。
「まったく……何もこんな夜中に来なくてもいいだろう? 裕子を呼ぶこともできないじゃないか」
「うぅん。今日はすぐに帰るから叔母さんは呼ばなくていいよ」
「またそんなことを言って……。ここ一月ほどお前が姿を見せていないから、裕子は寂しがっているんだぞ。子供がいない私達にとっては、お前が娘のようなものなのだからな」
「わかってるって。また今度改めて顔を出すから」
 言って、コーヒーを一気に飲み干す。
「……で、何の用だ」
 未夜子の隣に座り、煙草を吸いながら一夜が切り出す。その瞬間、未夜子の顔が曇った。
「……終夜、か?」
 その未夜子の顔を見て全てを理解したのか、一夜が大きく溜息を吐く。未夜子は驚いて叔父の顔を見た。
「知ってたの!?」
 一夜は苦笑した。
「まさか……。わしにそんな能力はないよ。ただ、お前を見ていれば全てわかるよ」
「未夜子は顔に出やすいからねぇ」
 どこからともなく、沙羅の声が聞こえてくる。
「そうだ。お前は新夜と一緒だ。その目もそうだが、本当に父親によく似ている。全部顔に出ているよ」
 意地悪っぽく笑い、一夜は未夜子のカップに新しくコーヒーを入れてくれる。未夜子は頬をぷうっと膨らませ、カップを口に運ぶ。
「どうせ私は単純ですよーだ」
 父の新夜のことを、何となく思い出してみる。目の前の叔父とよく似ていた、自分の父親。もう記憶はおぼろげでしか残っていないが、それでもとても良い父親だったと未夜子は言いきれる。幼かった自分に沙羅を渡し、大勢の人を救うべく、死神となる術を教えてくれた偉大な父だった。
でも、そんな父にも嫌いなところが一つだけある。
釣り目なところだ。未夜子の釣り目は父親似だった。母親が大きな目だったからよかったものの、目の大きさまで父親に似ていたら細めの釣り目でシャレにならなくなってしまっている。
「今度、新夜の小さい時の写真を見せてやるよ。未夜子を男の子にしただけだぞ」
「いいよ叔父さん……虚しくなるだけだから」
 まだ意地悪く笑っている叔父に溜息を吐き、未夜子はコーヒーを飲む。いつの間にか実体を現していた沙羅も、一夜の隣でクスクス笑っていた。
「……でも、お前は立派な死神になったんだな。一時はどうなることかと思ったが……」
 突然、しみじみと語り出す叔父に未夜子は苦笑した。
「沙羅もよく頑張ってくれたよ」
「えぇ、本当に。未夜子は一夜さんと新夜さんより手間の掛かる子ですから」
「沙羅!」
 沙羅は以前、未夜子の父の新夜と、その兄である一夜の手によって使われていた。死神の鎌は、代々長子に受け継がれてきた。親から死神となるべく術を習い、自身も死神となるのだ。
 だが、一夜は死神にならなかった。だから代わりに次男である新夜が鎌を受け継ぐことになった。
 未夜子の家庭は両親が共に死神なので、終夜と未夜子、二人に鎌が受け継がれることになった。こういうことは異例なのだが。
「……それより、終夜について聞きたいことがあったのだろう?」
 未夜子が二杯目のコーヒーを飲み終えた頃、叔父が本題を切り出してくる。姪の空になったカップに気づき、また新しいコーヒーを入れてくれる。未夜子はわずかに目を伏せてカップを強く握り締めた。隣に浮いている沙羅も、どことなく余所余所しい態度になってしまう。
「……お兄ちゃんが来た」
「!」
 一夜が、驚いた視線を未夜子に向ける。
「私の家に……うぅん。正確には、私の家にいた、ある男の子の前に」
「男の子……?」
「うん。……叔父さんは覚えてる? お兄ちゃんが、お父さんとお母さんを殺してから一ヶ月後に起こった事件」
「ん? あ、あぁ……」
 未夜子はちらりと一夜を見た。一夜は顎に手を当てて唸り出す。
もう一〇年も前の事件だが、そのことはよく覚えている。蒼木家で起こった事件はなんとか隠蔽することができたが、他の家はどうにもならなかったから。
「忘れることもできないよ。終夜が起こした一件目の事件だろ? 確か……一家四人が殺されたんだったな。それがどうかしたのか?」
「その四人の内の一人が重体だったってのは覚えてる?」
「そうだったか? 悪いがそこまでは覚えていないな」
 やっぱり。未夜子は胸中で呟いた。
 無理もない。未夜子自身も忘れかけていたことだ。当時もし生き残っていたとしても、数日後には確実に死んでいるとばかり思っていたから。
「私と同い年の男の子が瀕死の重体で生き残ってたの。……その男の子が、生きてた」
「生きてた?」
「うん。両親は死んだから養子として引き取られて、今は私と同じ高校にいる」
 叔父の溜息を吐く声が聞こえた。額に手をやり、何かに落胆したようにもう一度大きく溜息を吐いた。顔色は一気に悪くなっていっている。
「その男の子を狙いに、現れた」
 カップのコーヒーが小さく波紋を描いている。手が震えているのだ。やり場のない恐怖感を、ここにきて全て吐き出せたような気がした。
 それに気がついたのか、一夜がそっと未夜子の背に手を回してくれる。
「お兄ちゃんが……また、人を、殺……殺そうと……!」
 叔父の暖かさを感じると、落ち着いてくる気持ちとは反比例にどんどん目頭が熱くなってきた。
 喋る言葉が途切れ途切れになる。喉の奥も熱く、カラカラに乾いてきた。頬に、熱い何かが伝う。
 叔父の大きな手が優しく未夜子の背を撫でてくれる。
「もう、我慢しなくていいんだよ」
 背中越しに掛けられた叔父の言葉。その言葉を聞いた瞬間、未夜子の中で何かが弾け飛んだ。
 未夜子は泣いた。叔父の胸の中で、声を殺して泣きつづけた。
 もう、泣いてもいいんだ。何も、我慢することなんてないんだ。
 叔父の胸の中で、未夜子はふと死んだ父親のことを思い出していた。
 厳格で、でもとても優しかった父。叔父は、父と同じ匂いがした。
 遠い記憶の中で、未夜子は父に抱かれている幼い自分を思い出していた。その傍らには、幸せそうな笑顔を向けてくれる母と兄の姿もある。
でも、もうあの笑顔は見ることができなくて――
未夜子は泣いた。涙など、一〇年前のあの日に枯らしてしまったと思ったのに……
でも、もういいんだ。泣いてもいいんだ。
だって、涙は外の雨がどこかに流してくれるから。


「終夜がどうして家を出たのか、知っているか?」
 そう叔父が聞いてきたのは未夜子が目を真っ赤に腫らしながらホットミルクを口に運んでいる時だった。
壁に掛けられた柱時計が、午前二時の時刻を告げる。未夜子はホットミルクから視線を逸らし、叔父の目を見た。
「…………」
 無言のまま、首をゆっくりと横に振る。まだ少しだけ湿っている髪がとても重く感じた。
「父さんと言い争いをしてたのは覚えてる。でも、話の内容までは覚えてない……って言うか、よくわからなかったんだ。ただ、父さんが一方的にお兄ちゃんを責めているように見えた。……だから、私はお兄ちゃんの味方をしてた」
 言って、ホットミルクをもう一口飲む。今日はコーヒーばかり飲んでいたので、甘いミルクが胃に優しい。
「終夜はあの頃から狂い始めていたんだ。……誰か、生きている人間を斬りたいという衝動に」
「え?」
 カップから口を離す。
「本当は……秘密にするように新夜に言われていたのだが、もう話してもいいだろう……。終夜は中学三年になった時、誤って生きている人間を斬ってしまった」
 中学三年……終夜が、家を出た年。
「その時から終夜は狂ってしまった。あの頃、新夜はよくわしに相談に来ていたんだ。わしも出来る限りのアドバイスはしたし、あいつもそれを試していた。
……だが、それでも終夜はどんどん狂っていった。自分の手で人の魂を切り離すことができるということに快楽を覚えてしまったんだ」
 一夜の声は震えていた。
「終夜は夜毎に新夜と揉めた。自分は死神をやめたい。生きている人間を切り刻みたい、とな。
……新夜の説得も虚しく、終夜は家を出ていった。双樹を持って……。
それから終夜がどんな生活を送ったのかは知らん。学校には出席日数に響かない程度に顔を出していたらしいから家に連絡が来ることもなかったらしい。……まぁ、以前から死神の仕事でよく休んでいたからな。
……後はお前も知っている通りだよ。終夜は一年後にお前の前に姿を現した」
「…………」
 未夜子は無言だった。思わず手に持っていたカップを落としそうになってしまう。
 一夜もずっと未夜子を見ていたので知らなかった。後ろで、沙羅が小刻みに震えているのを。
 思い出しているのは、一〇年前のこと。兄と両親が、居間で言い争いをしている姿。
 あの頃の自分は、一方的に両親のほうが悪いと決め付けていた。自分は兄が大好きだったから。父が、兄を一方的に責めているように見えたから。
 でも違ったのだ。父は兄を止めていたのだ。道を踏み外そうとしている我が子を、止めようとしていたのだ。
(お兄ちゃんをいじめるお父さんとお母さんはきらい)
 あの時、自分は兄に何と言ってしまったのだ?
(未夜子はお兄ちゃんのみかただからね)
 何も知らないのに、何てことをしてしまったのだ?
(未夜子だけだよ、僕の言うことをわかってくれるのは……)
 あの時の兄の顔は今でも思い出せる。
 たった一人の味方を見つけ、全てを心に決めたような顔。
 未夜子の一言で、兄は全てを決めたのだ。
 未夜子の、一言で……
 あんなことを言わなければ、兄が道を間違えることはなかったかもしれないのに。
 秋津が、苦しむこともなかったのに。
「……未夜子? どうしたんだ?」
 カップを持つ手がさっき以上に震えている。ミルクが波を立て、カップから零れた。
 今までのことは全部、全部自分が引き起こしてしまったことなのだ。
 それがわかった瞬間、未夜子の心から恐怖の感情が消えた。その先にあるのは――『絶望』
「未夜子! おい、どうしたんだ!?」
 遠くで叔父が呼ぶ声がする。だが、もうその声すら未夜子の耳には届いていなかった。
 この時、未夜子の進むべき道が決まった。
 兄を、止めなくてはいけない。
 それがたとえ、最悪の結末を迎えることになったとしても。
 それが、未夜子に課せられた使命なのだから……


 次の日、良太は誰もいない家を出た。
 雨は昨夜の内に上がっており、眩しい太陽が晴天の中輝いていた。その余りの眩しさに、良太は思わず目を細めてしまう。
 家を出る前に一度自分の家に電話をした。母は少し心配していたものの、良太の声を聞いて安心をしたようだ。行ってきます、と言うと、行ってらっしゃいと返してくれた。
一瞬、今日はここで未夜子を待とうかとも考えたが、やめておくことにした。制服は残されているが、今日未夜子が家に帰ってくる保証はなかったし、学校に行くなという指示もなかったからだ。
 未夜子が何も言わないうちは、今まで通りに生活を続けよう。良太はそう決めていた。確かにあの男のことがあるから、今まで以上に警戒心は強めないといけないだろう。でも、今それを言っても何も始まらない。とにかく未夜子と合流しよう。学校に行けば、未夜子に会えるかもしれない。
 良太はたどたどしい足のりで学校への道を歩き出した。が、すぐにその足が止まる。
 そう、今日は未夜子の家から学校へ向かうのだ。
 良太は未夜子の家がどこにあるのか知らないのだ。それは、学校がどこにあるのかわからないことを意味する。
今更ながらそんなことを思い出した良太は、電柱に掛けられている町名のプレートを見ながら学校に向かって歩き出した。
どうやら、一時間目は遅刻してしまうことになりそうだ……


「秋津……アンタ一体何してたの?」
 予想に反して、良太が学校に着いたのは二時間目の授業が終了した時だった。体操服姿の生徒がグラウンドで体育の授業をしている横を恥ずかしそうに横切っている良太の姿を、未夜子は屋上で確認していた。
 良太は教室にも寄らずに、真っ先に屋上に駆け上がった。両手を膝に当てて肩で大きく息をしている。
「が、学校までの道のりで、ま、迷っちゃって……」
 苦しい笑みを向けている良太を見て、そう言えば簡単な地図とか置いていかなかったな……と思い出してしまう。昨日は未夜子が背負って帰ったため、道のりを知っているはずもない。
 未夜子の家から学校までは、歩いて三〇分ほどかかる。……にしても、二時間目終了まで迷っているのはどういうことだろうか。
「あ、俺方向音痴なんだ。筋金入りの」
 未夜子の疑わしい視線を感じ取り、良太は呼吸を整えてから微笑む。全身汗だくで言うその姿には、妙な説得力があった。
 未夜子が家に戻ったのは、学校の一時間目が始まった直後くらいであろう。良太が家にいないのを確認してから制服に着替え、すぐに家を出た。二時間目が始まる頃には学校に着いたのだが、良太がいないのを不審に思い、授業をサボって屋上で待機していたのだ。ここでなら、町の全てが見渡せる。
「まったく……それにしても連絡の一つくらいよこしてくれてもいいじゃないか。携帯電話は持ってるんだろ?」
「持ってるけど……俺、蒼木の番号知らないよ」
 良太は鞄の中から携帯電話を取り出す。あまり使っていないのだが、心配性な母親に持たされたものだ。
銀色の携帯電話には、テレビコマーシャルでよく見かける猫のキャラクターのストラップがぶら下げられていた。別に何も付けなくてもいいのだが、何もないと寂しかったので母親にもらったものだ。恐らく買い物をしたときにでももらったのだろう。
 しかしその愛らしい猫のキャラクターは、あまり男の子が好んで付けるようなものではない。もしこのストラップを付けた男子を見ると、未夜子は不快そうに眉根を寄せたかもしれない。
でも、不思議と良太にはそれが似合っていた。それは、良太が見せる繊細で儚げな印象のせいだろうか。
「そう言えば教えてなかったね……じゃ、教えるから今度から何かがあったら連絡してよね」
 未夜子は良太に近寄り、携帯の液晶画面を見ながら自分の電話番号を告げる。良太が慣れない手付きでそれを入力していった。
 その時に、三時間目の授業開始を告げるチャイムが鳴った。が、二人はそのチャイムが耳に入らなかったみたいに無関心を装っている。
「……って、蒼木は俺の番号知ってるの?」
 入力を終え、携帯を鞄の中にしまった後に良太が聞いてくる。
「知ってるよ。西川に教えてもらったから」
「西川に?」
「あぁ。確か秋津と仲が良かったから、知ってるかな? って思って。アンタを睨みはじめた頃に聞いたんだけど、快く教えてくれたよ」
 けらけらと笑う未夜子を見て、良太は苦笑しながら胸中で怒り半分、嬉しさ半分となんとも中途半端な拳を握り締めた。
「さて、授業始まったみたいだけどどうする? 私はまだ眠いからここでもう一眠りしておくけど」
 昨夜はどこに行ってたんだ? そう聞きたいのを良太はどうにか抑えた。未夜子が自分から話してこないということは、話したくないということなのだろう。
 本当は聞きたかった。未夜子の兄のこと。自分が死にかけているという事実。これから一体、何が起こるのかということ。
 だが、その言葉を全て飲み込んだ。その代わりに、満面の笑みを浮かべる。
「俺は授業に出るよ」
 自分でも上手に演じられたと良太は思った。本心を全て抑えることができた。未夜子も、何かを疑うこともなくいつもと同じ調子で返してくれる。
「そ。じゃ、またね」
 そう言うなり、未夜子は良太に背を向けて屋上の奥のほうへと歩き出す。
 良太は、そんな未夜子の背をずっと見送っていた。男の子のように高い背を、歩くリズムに乗って左右に揺れるポニーテールを、白く長い指を、すらりと伸びた健康的な足を。
 その、全てを脳裏に焼き付けておいた。
未夜子の姿が見えなくなるまで見送ってから、一人で屋上を後にした。
 重い扉を閉め、誰もいない階段を一人で歩く。
 もう、何となくわかっていた。だから、未夜子に何も言わなかった。
チョークと鉛筆の音が響く廊下を抜け、教室の中に入る。教師に一言二言声を掛けられたが、今朝は調子が悪かったのだと返答をした。良太の体が弱いことは、教師の大半が知っていることなのでそれ以上は何も言われることはなかった。
 窓際にある自分の席に座り、その時間の教科書を机に出してからペンを持ち、ぼうっと黒板を眺める。
 今日、あの男は来るだろう。だから、未夜子の姿を脳裏に焼き付けておいた。
 いつもなら真面目に教科書とノートを開いて授業に取り組むのだが、今日だけはどうしてもそんな気分になれなかった。
 未夜子は何も言わなかったが、その背中が全てを物語っていた。
 今もこの屋上に一人でいる未夜子のことを思い、ただ悪戯にペンをノートの上に走らせる。
 端から見ると、それはちゃんと授業を聞いているように見えたのだろう。普段から真面目に授業に取り組んでいる良太だったから、教師に注意をされることはなかった。
 窓の外を見てみると、雨上がりの空を雲がとても早く流れている。その雲を一つ一つ眺めながら、夏の訪れを感じさせる日差しを浴びる。
 目を閉じれば、思い出すことができる。
 それは、昨夜未夜子の家で男と会った時のことだ。昨日までは白い霧に包まれていた記憶が、その瞬間にはっきりと甦った。
 確かに一〇年前、自分は一度死神に斬られたことがある。あの、天使の顔をした死神に。
 相変わらず、その後とそれ以前の記憶は未だ霧に包まれたままだったが、その瞬間の記憶だけは嫌なくらい思い出すことができる。
 あの日の日差しの暖かさも、部屋に入った途端鼻を突いた異臭も、足の裏に纏わりついた血の生々しさも。
 銀色の軌跡が、目の前に再現される。男が振り上げた大鎌。あの時は随分大きく見えたのに、昨日はそれほど大きくは見えなかった。
 それだけ、良太が大きくなった証拠なのだろう。
 それだけ、月日が流れたという証拠なのだろう。
 一〇年という月日は、余りにも長すぎた。自分にも未夜子にも、あの男にとっても。
 だからかもしれない。誰もが、変われずにそこに立ち尽くしている。
 一〇年前のあの時から動くことができずに、いつまでも時が再び動きだすのを待っている。
「……未夜子」
 静かになった屋上で、今まで黙っていた沙羅の声が響く。
 だけど今、時が再び動き出そうとしている。歯止めをされていた歯車が、再び回り出そうとしている。
未夜子は頷いた。
「わかってるよ、安心して。……もう、覚悟はできたから」
 その時の流れが、どういう結論を出すのかはわからない。でも、未夜子は全てを心に決めた。
 梅雨の湿気を含んだ生暖かい風が屋上を吹きぬける。
 ポニーテールとスカートが巻き上げられたが、未夜子はそれを押さえようとはしなかった。いつのまにか握り締めていた沙羅を手に、ずっと虚空を見上げている。
 沙羅を持つ手が汗ばみ、何度か柄を握りなおした。
 二人共無言で空を見上げている。
 刻一刻と、その瞬間は近づいていった。


 良太は目を開けた。
 その時に、授業終了のチャイムが鳴る。
 号令と共に先生が教室を出ていき、途端に教室は帰宅風景に変化する。その時に始めて良太は今日が土曜日なのだということを思い出す。
 良太も帰ろうと立ちあがる。
「ね、リョータ」
 その時、帰り支度を済ませた直美が駆け寄ってきた。その顔には心配の色が濃い。
「体、大丈夫? 遅れて来たときは本当に心配したんだから……」
「ごめん。大丈夫だから安心しててよ」
 良太は苦笑しながら鞄に教科書を詰める。直美は昔から良太のことを知っているからか、人一倍良太のことに関しては過敏に反応するようになっている。今朝、携帯に連絡をいれなかったのは失敗だった。
「本当に大丈夫? 今日も途中まで一緒に帰ろうか?」
 良太の机に手を置いて身を乗り出す直美に少々圧倒されながら、良太は半歩だけ下がった。
「本当に大丈夫だって……。それより今日は部活があるんだろ? 大会が近いんだからそっちの方に集中しとけよ」
 教科書を全て鞄に詰め、それを背負った良太に、直美は少しだけ口元に手を当てて唸りだす。
「俺ももうガキじゃないんだから安心しろって」
「……ん。そうだね。いつまでもお節介焼いてちゃいけないよね。リョータには蒼木さんがいることだしぃ〜」
 くすくすっと笑いながらちらりと良太を見る直美に、良太は顔を赤くして抗議する。
「な、なんでそこで蒼木が出てくるんだよ!」
「だから隠さなくてもいいんだってば〜」
「何を隠すんだよ!」
「まぁいいわ。それじゃあ今日はお言葉に甘えて部活に行かせてもらうわね。でも途中で具合が悪くなったら遠慮なく連絡してよね! そっちまで走っていくから」
 そう言ってガッツポーズを作る直美を見て、良太は思わず吹き出してしまった。
 中学の頃から陸上をしている直美には、普通の女生徒より筋肉がついている。ひょっとすると良太より力があるのかもしれない。
「まったく……笑わなくてもいいでしょうが。小さい時から誰があんたを守ってやったと思ってるのよ」
 つんと横を向いてしまった直美に、良太は笑うのをやめる。
「ごめんごめん……。直美様にはいつも感謝をさせていただいております」
 わざとらしくその場で頭を下げる良太を見て、今度は直美が笑い出した。
「はいはい。これからも面倒見てあげるから感謝してよ〜」
 良太の頭をぽんぽんと叩き、直美は鞄を背負いなおした。
 良太も顔を上げ、何気無く窓の外を眺めてみる。
「!」
 柔らかな表情が、一瞬にして凍りつく。
 そこに、あの男がいた。
 良太が頭を下げたほんの数秒の間に、男はあたかもずっと昔からその場に存在していたかのように空気に溶け込んでいた。
 蒼木終夜。良太は、小さくその名を呟いた。終夜は、いつものあの笑みを浮かべていた。良太は頬に冷や汗が伝うのを感じる。
「……リョータ?」
 不思議に思った直美が声を掛けてくる。その声で、良太は我に返った。終夜が、ゆっくりと双樹を振り上げる。
「伏せろ!」
 良太は叫ぶのと同時に目の前にいる直美の体に覆い被さった。
 クラス中の視線が良太と直美に集中する。終夜が、ゆっくりと鎌を振り下ろす。その時だった。
 ガシャーン!
 良太のクラスの窓ガラスが全て、何かに吹き飛ばされたかのように粉々に割れてしまう。途端に教室中に悲鳴が飛び交った。
 良太は直美に覆い被さりながら、飛んでくるガラスの破片から直美を守る。当の直美は何が起こったのかわからずただ目を白黒させているだけだった。
「な、なに!? 何が起こったのリョータ!」
 ガラスの割れる音が止み、良太は立ちあがった。床に破片が散らばっているので、そこには手をつかないように気をつける。
「…………!」
 立ちあがり、絶句する。
 すぐ目の前に、終夜がいたのだ。良太から三〇センチもない距離に、あの微笑みが佇んでいる。その笑みは、相変わらず穢れを知らないような無垢なもので、良太はその笑みに逆に恐れを感じてしまった。
「リョータ……?」
 直美が体にかかった破片を払いのけながら立ちあがる。あらぬ方向を睨み付けている良太に疑問を感じたのだろう。
「直美……お前、ここを動くな」
「え?」
「ここを動くな! いいな!」
 良太は力強くそう叫ぶと、直美の体を突き飛ばして終夜の隣をすり抜ける。
「ちょ、ちょっとリョータ!」
 直美が叫ぶが、良太は振り向かない。鞄を背負ったまま、教室を飛び出す。
 教室の周りには先ほどのガラスの割れた音を聞きつけた生徒や教師たちで溢れかえっていた。ちりとりや箒を持っているそのギャラリーを跳ね除け、良太は廊下を走りぬける。途中、ちらりと後ろを見たが、まだ終夜は追いついていないようだ。ホッと安心するものの、気を抜いてはいけない。安心してしまったらこちらの負けだ。
 階段に出て、一気にそこを駆けあがる。途中転びそうになりながらも、慣れない一段飛ばしをしてしまう。
 すぐに息は上がってしまったが、今はそんなことを気にしている余裕はない。良太は無が夢中で階段を駆けあがった。
 だが、屋上へは行かず、その一階下の四階で良太は足を止めた。素早く左右を見回し、人がいないのを確認してからすぐそこにある音楽室に駆け込んだ。珍しく吹奏楽部や軽音部というものがない良太の高校では、放課後の音楽室は誰も訪れることがないのだ。
 ドアを勢い良く開け、すぐに閉めてから、良太はやっとそこで休むことを許されたかのように両手を膝について大きく息をする。終夜に追われた様子はなかった。恐らく、自分が屋上に駆けあがったと思っているのだろう。
教室に置かれている大きなグラウンドピアノにもたれかかり、呼吸を整える。しばらくは、終夜が良太を探すのに時間稼ぎができるかもしれない。その間に次の対策を練るしかない。
良太は背をピアノから離し、背筋を伸ばしてシャンと立つ。まだ呼吸は荒れていたが、直に治まるだろう。とりあえず落ち着いて考えよう。
そう思い、背負っていた鞄を床に下ろす。走って温まった体を冷やそうと、シャツのボタンを外そうと手を掛けた。が、次の瞬間、何もしていないのに良太の体が一瞬にして冷えてしまう。
 冷たい風が、音楽室を吹きぬける。窓は全て閉まっているのに……。そう思った良太の全身を、悪寒が走りぬける。気がつけば膝はがくがくと震えていた。
「逃げられないって、わかっているんだろ?」
 あの声が、耳元で囁かれた。
 終夜が後ろに立っているのはすぐにわかった。すぐ後ろに、良太の肩に手を置いて、終夜はやはりあの笑みを浮かべているのだろうか。だが、良太は金縛りにでもあったかのように顔を動かせずにいた。
 つと、後ろから冷たい何かが良太の頬に触れた。
 白くて繊細で、今にも壊れてしまいそうな細い指。未夜子によく似たそれが、良太の頬を舐めるように撫でまわす。
「死神から逃げることができるなんて……そんなのは不可能だって、わかっててやっているのかい? 屋上に行けば未夜子がいるのに敢えて行かなかったのは、あの子に迷惑を掛けたくないと思ったからかい?」
 淡々と、感情のない声で囁き続ける。人のものとは思えないほど冷たい息だけが、良太の耳をくすぐった。
「もう、逃げなくていいんだよ……。大丈夫、苦しみも恐怖もないから」
 良太の頬から手が離される。まるで魂を抜かれてしまったかのように、良太はその場から動けないでいる。
 ……いや、実際魂を抜かれてしまっていたのかもしれない……。自分は一度、この男に斬られたことがあるのだから。
終夜の右手に光が集まり、それはやがて鎌の形を成していった。
「やっと一〇年前の清算をできるよ……。今日、全てを終わらせることができる」
終夜の呟きを聞きながら、良太の脳裏に、一〇年前のあの瞬間が思い出される。
あの時も、良太は双樹が振り下ろされる瞬間まで終夜をじっと見上げていた。あの銀の軌跡は、一生忘れることができないと思っていた。
まだ体が動かない。逃げなければいけないと頭の中では理解しているのに、足がピクリとも動かなかった。息のしかたすら忘れてしまったように、喉の奥でヒューヒューと音が鳴っている。
 一瞬だけ、頭の中に未夜子の顔が思い浮かんだ。
 未夜子は微笑んでいた。優しい笑みで、良太を包んでいてくれた。
 だけど、彼女は死神なのだ。沙羅という相棒を連れて、見知らぬ他人の魂を……時には、どこかで会ったことのある知り合いの魂を斬っているのだ。
 それが未夜子の人生だと、良太は理解していた。沙羅も、とてもいい人だった。あんなお姉さんがいたらいいなと、本気で思った。
 でも、もうあの笑顔を見ることはできないだろう。
「一瞬で、終わるから……」
 終夜が双樹を振り上げたのが、気配でわかる。
 限界だった。
 自分の正気を保つだけで、精一杯だった。
 今にも気が狂ってしまいそうな緊張感だった。このまま死んでしまったほうが楽になれるのではないかと、本気で思ってしまった。
 頬を伝う汗の感触さえ感じなくなってしまう。頭の中が真っ白になり、視界さえもなくなってしまう。
 良太は叫んだ。喉を震わせて、絶叫した。
 だが、声は出ていない。
 それは自分の耳が聞こえなくなってしまったのか、元々声が出ていなかったか……どちらなのかはわからない。ただ、良太は叫びつづけた。それだけで、全ての恐怖を忘れられるような気がしたから……
 と、良太の背中に何か熱いものが触れる。それが誰かの掌だと思った瞬間、その掌が力強く背中を押した。
 良太は、バランスを崩して顔から床に向かって倒れ込む。額と頬を強く打ち、口の中に血の味が広がった。両手を床について、さっきまで自分が立っていた場所を振り向く。
 最初に見えたのは、白い上履き。青いラインが入っていて、それが良太の学年が履いているものだとすぐにわかった。
 視線を上げると、紺のハイソックスが見えた。白くスラリとした足が見え、短めのスカートが見える。どんどん視線を上げてゆくと、左手をこちらに伸ばし、右手に大鎌を握った少女の後ろ姿が見えた。頭のてっぺんで結ばれたポニーテールが、ゆっくりと舞い降りる。
 その姿を確認した途端、良太の全身から力が抜けた。
「蒼木……」
 そこでやっと声が出せた。良太は上体を起こし、その場に座り込んでしまう。
 未夜子の奥では、まだ終夜が笑っていた。



 第四章 * 闇に浮かぶは白銀の月

「秋津、立てるか?」
 未夜子がこちらを振り向かずに聞いてくる。良太は無言のまま勢い良く首を上下に振った。
 未夜子の肩が少しだけ下がる。良太の顔が見えるはずがないのに、どこか安心したような感じが見てとれた。
「後ろのドアから出ろ、秋津」
 未夜子は、終夜を見据えたまま呟く。
「それから私の家に逃げろ。そこに人を待たせてるから。頼れる人だ、私の名を出せばすぐにわかってくれるはずだから」
 ちらりと、音楽室の後ろの方にある扉を見る。良太が入ってきたのとは逆の方向の扉だ。
「行け!」
 短く叫ぶと、未夜子は床を蹴った。沙羅を握り締め、終夜に飛びかかる。終夜も胸の前に双樹を持ってゆき、少しだけ後ろに飛び退いた。同時に、二つの刃がぶつかり合う音がする。
 良太は弾かれたように立ちあがった。床に置いたままの鞄のことも忘れ、後ろの扉から廊下に出る。そのまままだ震えている膝をどうにか抑えて廊下を駆け出す。途中、数人の生徒とぶつかったが気にしている暇はない。謝罪の言葉もせずに、良太は走りつづけた。
 音楽室に残された兄妹は、ぶつかり合う刃と己の瞳を見つめ合ったまま、そのままの姿勢でいる。
 兄を睨み付ける未夜子の瞳には炎が宿っていた。乱れてしまった髪が、燃えるように空中で揺らいでいる。
「終夜……あなた、自分が何をしているかわかってるの?」
 口を開いたのは沙羅だった。それは、いつもの強気な沙羅の発言ではない。何かを恐れているような、そんな声。
「わかってるよ。僕は自分の役目を果たそうとしているだけだよ」
「何があなたの役目よ! これが正しいことだと思ってるの!? それにあなたは、もう……!」
 沙羅は言いかけた言葉を飲み込む。その、相棒のらしくない態度に未夜子は眉根を寄せた。
「さぁ、どうだろうね……それより」
 終夜は沙羅から視線を逸らし、真っ直ぐに妹を見つめる。その瞳には、呆れたような馬鹿にしたような感情が写っていた。
「未夜子はいつでも僕の邪魔をするんだね」
歯を食いしばったまま、未夜子は後ろに飛んだ。沙羅を振り上げ、こちらに飛んできた兄に向かって振り下ろす。
刃と刃がぶつかり合い、火花が散った。
廊下から女生徒達の楽しそうな笑い声が漏れた。好きなアイドルのことや、週末をどう過ごすのかという話題に花が咲いている。
まるでこことは別世界のように、あそこでは時が流れているのだ。
「今……あの輪の中に混じりたいと思っただろう?」
 終夜の唇に弧が描かれる。未夜子は一瞬はっと息を呑んだ。しかしすぐに、眉根を寄せる。
 沙羅を振り上げる。すぐに終夜は鎌が振り下ろされる位置を予測し、攻撃に備える。
 沙羅と双樹がぶつかり合う。
「双樹!」
「沙羅!」
 二人の声が交錯したが、その声は火花と共に飛びさってしまう。互いの声が聞こえたかどうかも謎だった。
「……図星かい? 未夜子」
 終夜が、未夜子の攻撃を避けながらまだ余裕の笑みを浮かべていた。
「死神というのはいつもそうだ……孤独で、一人寂しく生きている。自分がいつ、愛した人間の魂を斬ってしまうかわからないから、知らず知らずの内に自分の殻に閉じこもってしまうんだ」
 正面からぶつかってきた妹の攻撃を、やんわりと受けとめる。死神の鎌同士の対決となると、力技しか残されていない。この勝負、女の未夜子が圧倒的に不利だった。
「だから……だから僕は考えたんだ。みんな死んでしまえば、寂しい思いはしなくていいのかもしれない。現にそうだ。父さんと母さんを殺した時、僕はすごく満足感に包まれたんだ。……これで、未夜子が二人の魂を斬らなければいけないという恐怖に恐れることはなくなった、とね」
 軽く床を蹴り、未夜子の上を一回転して後ろに回り込む。未夜子は振り向きざまに沙羅で斬りかかった。が、虚しく刃が空を斬る音が響き、ポニーテールと制服のスカーフが舞っただけであった。
「そんなの……」
 未夜子は下唇を噛んだ。ふわりと宙に浮き、沙羅の刃の切っ先に羽のように乗っている兄を見上げ、涙を堪えながら訴える。
「そんなのお兄ちゃんが勝手に決めたことじゃないか!」
 勢い良く、沙羅を真横に振る。
 その直前に終夜は沙羅の刃から下り、空中でくるりと回ってからそのまま壁をすり抜けて外に出る。未夜子も後に続いた。
「勝手にだなんて……未夜子もそう思ってるんだろ? 違うかい? 自分が死神なんかじゃなかったら、どれだけ良かったかということを」
 下校風景が色濃くなり始めたグラウンドが眼下に広がる。先ほど騒ぎが起こった教室も、ガラスは割れたままだが、掃除は終わったらしくしんと静まっていた。
 だが、死神となった二人にそんなものは関係ない。よく似ている黒い双眸が互いを見つめ合っていた。
 躍るように双樹をくるくると回し、終夜は何かに祈りを捧げるかのように目を瞑った。未夜子も沙羅を構えなおす。何をされても対処できるように、右足を半歩だけ下げる。終夜の目が、ゆっくりと開かれた。
 何も写し出していない、虚無の瞳。ただ不気味に光を失った闇を宿しているだけであった。
 照り付ける太陽は熱いのに、未夜子は身震いをする。その緊張感が、沙羅を持つ手の平からも伝わっている。沙羅は胸中で舌打ちをした。
 ダメだ。ここで身じろぎをしてしまったら負ける。少しでも後に引いてしまえばお終いなのだ。
 未夜子と終夜の間に、風が吹きぬける。その下では何も知らぬ生徒達が次々と門をくぐっていく。未夜子は、あの中に良太が上手く紛れて帰ってくれているように祈る。
「父さんも母さんも、口では綺麗事を言っていたけど、所詮それは言い訳に過ぎない。
確かに、死んだ魂が迷って霊界に行けないというのはとても寂しいことだ。……でも、それがその霊の望んだことなんだよ。霊界に行かずに、この世に留まることをその霊が望んだのだよ。それを、僕達の勝手な解釈で霊界に送ってはいけない。そうじゃないか?」
「それと秋津の家族を殺したことと何の関係があるって言うんだ!」
 堪らずに未夜子が叫ぶと、終夜は悲しそうに目を伏せた。
「……そう、あの家族にはとても悪いことをしてしまったと思うよ……あの時の僕は自暴自棄になりかけていたんだ。本当にただの偶然だったんだよ。たまたまあの家を見つけたから、侵入して殺してしまったんだ。……今は、とても後悔している」
 額を押さえて溜息を吐く兄の顔を見て、未夜子は、え? と呟いて一瞬だけ沙羅を持つ手を緩めてしまった。
 ……兄は、悔やんでいるのか……?
(未夜子!?)
 未夜子の心境の変化を感じ取り、沙羅が小声で話しかける。が、未夜子は返事をしなかった。虚ろな目で、兄を見つめている。
「どんなことをしても、殺してしまった二人に償うことができないのはわかっている……。許してもらおうとも、思っていない」
 それでも兄は両手を広げ、許しを乞うように天を仰ぐ。双樹の刃が陽光を弾いている。その眩しさに未夜子はわずかに目を細めてしまう。
「お兄ちゃん……」
 小さく呟いた。その呟きを聞き、終夜は静かに未夜子の視線を向ける。どこか優しげな、未夜子の大好きな兄の瞳。
 未夜子の目は潤んでいた。その目で、兄に問う。
「後悔、してるの?」
 ゆっくりと、沙羅を下ろす。
「未夜子!?」
 沙羅が叫んだが、構わずに続ける。
「秋津の両親と……姉を殺してしまったことを、後悔しているの?」
「……姉?」
 そこで、終夜の顔が曇った。
「何のことだい? 僕はあの子とあの子の両親しか斬っていないよ? その後、少しだけ家で休ませてもらったけれど……姉なんか知らないね」
 兄の言葉に未夜子はえ? と呟く。
どういうことだ? 確かに新聞には姉も殺されたと載っていたのに……
 だが、そんなのは些細なことだ。未夜子は軽く首を横に振って続ける。
「もうやめようよ、お兄ちゃん……こんなことしても、誰も喜ばないのはわかってるんでしょ……?」
 憂いを帯びた妹の瞳を見据え、終夜はそっと目を伏せた。口元には、緩やかな笑みが浮かんでいる。
「あぁ、とても後悔しているよ……だから、死んでしまった二人にせめてもの罪滅ぼしをしたいと思ってるんだ」
 終夜が双樹を天に掲げると、突然冷たい風が吹き、辺りが暗くなる。
 分厚い真っ黒な雲が出て、太陽を隠してしまったのだ。まるで、光を嫌っているかのように。
「罪滅ぼし……?」
 呟く未夜子の声が震えている。嫌な予感がした。沙羅を持つ手に、ポツリと冷たい物が当たる。
 遠くで、雷鳴が轟いた。
 闇を一層深くさせた瞳を開き、終夜は頷いた。瞳の奥に遠い空で光っている雷が写し出された。
 その瞳を見た瞬間、未夜子の顔が強張った。反射的に、沙羅を強く握り締めて終夜に突き付ける。
 しかし、妹に突き付けられた鎌を見ても終夜は眉をぴくりとも動かさない。このことを全て、予測していたかのように。
「……あの二人の息子を、二人の元に送ってやる。それが僕にできる罪滅ぼしだ」
「!」
 未夜子は目を見開いた。
 校舎を背にした未夜子のずっと向こうを凝視している兄の瞳。この世の全ての闇を知り尽くしたような瞳が、どこか一点を捕えていた。
 その視線の先は、校舎の中。
「まさか!」
 未夜子は後ろを振り向く。その行動を後に死ぬほど後悔することになるとは、この時は思ってもいなかった。
「おにいちゃ……」
 校舎に向けた視線を元に戻す。が、
「!」
 そこには、誰もいなかった。
 最初からそこに何も存在していなかったかのように、冷たい風だけが吹きぬけていた。
 何が起こったのかわからず、半ば放心状態になりかけていた未夜子の頬に、ポタリと雨雫が落ちる。
「未夜子! 校舎の中よ!」
 沙羅の声と頬を叩いた雫で、我に返る。
「秋津っ!」
 身を翻しながら短く叫ぶ。
 終夜から視線を逸らしたのは失態だった。校舎の中に良太が残っているというのは、終夜の視線でわかった。
 未夜子は駆け出した。
 沙羅を強く握り締め、顔を苦痛に歪ませ、元来た道を走り出す。
 良太はまだ校舎に残っている。どうしてまだ校舎に残っているのか、何を考えているのかはわからない。ただ、終夜には見えているのだ。一度魂を斬ったことのある彼には、良太の存在が手に取るようにわかるのだ。
 そのことを、良太に伝えるのを忘れていた自分を悔やむ。歯を食いしばり、校舎の中に入って手当たり次第探し出す。未夜子には、良太の気配を感じることができない。一つ一つ探すしかないのだ。
「沙羅! どこにいるかわからない!? 双樹の気配でもいいから!」
「ちょっと待ってよ! 突然言われてできるようなものじゃないんだから!」
 いくつのも教室をすり抜け、良太を探す。もう一年半も通っている高校だ。構造は終夜よりも知り尽くしているし、良太も上手く隠れているかもしれない。
 それを祈るしかなかった。終夜に見つからずに、どこかに隠れてくれていると信じるしかなかった。
 まだ校舎に残っている生徒や教師に沙羅の刃が当たらないように気を付けながら飛ぶのは少々難しい。そのせいで、未夜子はいつものスピードを出せないでいた。
 そう言えば、兄もそのことには気をつけて飛んでくれているのだろうか。そんなことを思ってしまう。
 他人を死神の鎌で傷つけるのを恐れずに飛んでいるのなら被害は広がるばかりだ。
 舌打ちをし、未夜子は飛びつづけた。
「それにしても……どうして終夜が……」
 未夜子の手の中で沙羅がぶつぶつと呟いている。
「未夜子……絶対に終夜を止めなきゃ駄目よ!」
「わかってるよ、そんなこと!」
「違うの! そういう意味じゃないの! 終夜は……」
 何かを言いかけたが、突然言葉を止める。ハッと息を呑んで、
「! 未夜子、いたわ!」
 そう叫ぶ。まだ校舎に入ってから、二分も経っていなかった。未夜子はブレーキをかけながら空中停止をする。沙羅を睨むように見つめ、無言のまま続きを待つ。
「上よ……これは……音楽室!?」
 仲間である鎌の双樹の気配を感じ取り、沙羅は上を指した。未夜子も釣られて天井を仰ぐ。
 しかし、もうすでに二分が経過している。最初から良太の居場所がわかっている終夜に対して、この遅れは痛い。
 未夜子は今にも爆発してしまいそうな心臓を押さえながら天井をすり抜けた。
 沙羅も、先ほど言いかけていた言葉をグッと飲み込む。
 今日、全てのことに決着をつける……!
 未夜子は、拳を握り締めてそう誓った。

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