第6回

「…………」
 良太は息を殺して音楽室から外を眺めていた。
 二人が校舎を出たところは確認できなかったが、教室が静かになったので戻ってみると、すでにそこに二人の姿はなく、窓から見える外で伺うことができた。
 やはり未夜子のことが心配になってこっそり戻ってきたのだが、戻ってきて正解だったかもしれない。まさか音楽室に戻ってきたとは思っていないだろう。良太は窓から顔を少しだけ出して外を見てみる。
 二人が何か言い争い……というか、未夜子が一方的に何か叫んでいる様子が見えた。窓は閉まっているので、声までは聞こえない。
その二人を見ながら、ちらりとグラウンドの方を覗き見る。
 何も知らない生徒達が無邪気に家路に着くのを見て、良太はわずかだが吐き気を覚えてしまう。
……真上で、人の命を賭けた死闘を繰り広げている者がいるというのに、どうしてこいつらはこんなにも無関心なのだろうか……終夜は、今すぐにここにいる者全員を殺せるほどの能力を持っているのだ。
それは、終夜に限らず未夜子にも備わっているものだが。
人の命を自在に操ることができる人間。そんなことを考え、良太は寒気がした。今更だが、それがとても恐ろしく感じた。
 両腕を交差させ、己の体を抱きしめる。
 一〇年前に、良太は一度死神に斬られた。そのことを思い出すと、背中の傷がじくじくと疼いているような気がしてしまう。外は熱いのに、体は氷のように冷たくなってしまっている。
「……怖いのかい?」
 突然、耳元で誰かが囁いた。
「!」
 良太は驚いて顔だけを後ろに向ける。
 そこにあったのは、至極の笑み。
 この世の人間とは決して思えない、死神の鎌を持って天使の笑みを浮かべている男がそこにいたのだ。
 慌てて視線を戻し、窓から外を見る。そこには未夜子の姿しかなく、未夜子も呆然とその場で風に吹かれているだけだった。
 窓ガラスに両手を付け、大声を出そうとする。だが、金縛りにあってしまったかのように体が動かない。
「少し邪魔が入ってしまったけれど……やっと終わらせることができるよ……」
 背中に、軽く終夜の手が触れている。凍て付くように冷たい掌を感じながら、良太は歯をがちがちと鳴らした。
窓の外の未夜子が動いた。だが、自分がいる場所とは違う所に入っていく。
反射的に、良太は立ち上がろうとした。いつの間にか金縛りは解けており、自由に動くことができる。
床に手をつき、足をもつれさせながらも、良太は立ちあがって終夜の隣を横切る。
後ろで、ゆっくりと終夜がこちらを振り向く気配がする。でも、良太は足を止めなかった。
一歩一歩、確実に歩みを進める。すぐ後ろに迫っている闇の存在を、忘れようとするかのように。
「行っておいで。ご両親の元へ……」
 最後の呟きを、良太は聞いた。
 いつの間にか、終夜が良太の前に立っている。
誰かに何かを訴えかけようと、良太は唇だけを動かした。でも、そこから決して声が漏れることはなくて――
 ズッ
 何かを突くような、鈍い音が聞こえる。
 次の瞬間、良太は見た。
 自分の胸を貫いている、銀色の刃を。


 外は雨足が強くなってきている。
 空は一面に灰色の雲が多い、梅雨の風景が広がっていた。
 生徒も全て帰った、誰もいない静かな校舎の中に未夜子は佇んでいた。
 電気も付けられていない、暗く寒い音楽室。雨の音だけが響き渡り、壁に貼られた名高い音楽家達の肖像画が、じっと未夜子を睨んでいるような気がした。
 目の前に見えるのは、双樹から手を離した兄の姿。口元に、不気味な笑みを浮かべながら佇んでいる。
 無言のまま立ち尽くす二人の間にあるのは、大きなグラウンドピアノ。
 暗闇の中、不気味にそこに存在しているピアノが、突然独りでに音楽を奏でだす。
それは、ここにいる二人の死神の存在を露わにするようなその曲。この曲を、未夜子は知っている。
……そう、あの曲は一〇年前に兄が家でよく弾いてくれていた曲だ。
――モーツァルトの、鎮魂歌。
 未夜子はピアノが突然演奏を始めたことに驚きを欠片も見せず、大きく見開かれた瞳で朱に染まる壁を見つめていた。沙羅を持つ手を震わせながら、その壁に近寄る。
 長袖のシャツに穴が空き、血で染まっていた。
左胸に深々と一本の鎌を突き刺された良太が、十字架に磔にされたキリストのようにそこで静かに生を刻んでいた。
両腕を力なくだらりと下ろし、口の端からは一筋の血が流れていた。投げやりに投げ出された足に力はこもっておらず、その瞳に生気は宿っていなかった。
そこにあるのは、かつて生きている温もりを宿していた生物。笑い、泣き、怒り、己が生きていることを全身で表していた、一人の人間。
白い壁に、大輪の赤い花が描かれていた。それが良太の背から飛び出た血で描かれているものだと、最初未夜子は気がつかなかった――気がつかない、振りをしていた。
そっと膝を付き、目線を合わせる。その、永遠に光を失った瞳を見つめた途端、大粒の涙が未夜子の瞳から零れ出た。前が滲んで、良太の顔がよく見えない。カランと、沙羅が床に落ちる音がする。
全てが遅かった。何も間に合わなかった。誰も、救えなかった……
声を殺して涙を流し始めた妹の背を見つめ、終夜は理解ができないというふうに首を振った。
「何を悲しむんだい? 未夜子。……その子は天に召されたんだよ?」
 未夜子は振り向かなかった。ただ、良太の亡骸を前にして涙を流した。
 良太の頬には血が通っておらず、赤みは消えて土気色を帯び始めている。
 もう、彼が笑顔を見せてくれることはないのだ。弱気だが、自分を守ってくれようと頑張っている姿を見ることができないのだ。
 未夜子は泣いた。乱れた髪を気にも止めず、震える拳を床に叩いて叫んだ。フローリングの床がミシリと音を立てて軋み、窓ガラスがビリビリと揺れた。
 涙が床に染みを作る。次から次へと、外を降る雨のように染みを作る涙は、止まることを知らなかった。
 何度も何度も、拳を床に叩き付けた。行き場のない思いを、ぶつけるかのように。
 終夜は何も言わなかった。だが、その顔には疲労の色が濃く写っている。仕事は終わった。早く帰りたいと思っているサラリーマンの表情だ。
 無言のまま、しばらくの間時が流れた。未夜子が床に落とした沙羅を拾ったのは、両の拳と床が血で赤く染まってしまった時。おぼつかない足取りで、くらくらする頭を押さえながらゆっくりと立ちあがる。その瞳は、涙のせいだけとは思えないほど深紅に燃え上がっていた。
 そんな妹を見て、終夜は面白いそうにクスリと笑う。未夜子は沙羅を握りなおした。
「終夜あああぁぁーーーー!」
 叫ぶのと同時に、床を蹴る。ピアノがジャーン! と強く鳴って、余韻を残して音が消えていった。
終夜は逃げも隠れもしなかった。ただ、その場に立ち尽くして妹が立ち向かってくるのを待っていた。
 ザンッ……!
 沙羅が、終夜の右腕に振り下ろされる。が、その瞬間未夜子の顔が引きつった。
 手応えが、ない。
「!?」
 まるで空気を切ったような感覚だった。 驚いて、そのまま半歩下がってしまう。
 正面で、終夜がククク……と笑いながら左手で顔を覆う。感触はなかったのに、終夜の右腕にズッと切断が入り、そこからずれるように右腕がぼとりと床に落ちた。落とされた右腕が、床の上で蜥蜴の尻尾のようにのた打ち回っていた。
「無駄よ、未夜子……」
 沙羅が、重い口を開く。未夜子は呆然と立ち尽くし、まだピクピクと動いている自分が切り落とした兄の腕を見下ろす。顔面が蒼白になっていた。
 見下ろした腕の切断面は、カマボコのように真っ白だった。顔を覆いながら笑っている兄の右腕を見てみると、そこも切断面は真っ白で、何かうっすらと白い靄のような物が漏れてきていた。
 その靄を、未夜子はどこかで見かけたことがあるような気がした。そうだ、あれはいつも見ているではないか。
仕事をしている時。沙羅を振り上げた時。死者の体から、抜け出ている……
「そう、無駄なんだよ。全てがね……」
 終夜が顔から手を離す。薄い唇はにいっと釣りあがっており、こちらをじっと見据えている、闇だけを宿した光のない瞳にも未夜子には見覚えがあった。
……それは、先ほどまで自分が見ていた良太の瞳。その瞳と兄の瞳が、あまりにも酷似していたのだ。未夜子は背筋に悪寒が走るのを感じる。
 終夜の生気の宿っていない瞳に、蒼い炎が灯された。それは、どこか死者を送る送り火を連想させて――
「無駄なのよ、全てが……」
 今にも泣き出してしまいそうな沙羅の声が終夜の笑い声に混じって聞こえる。
 沙羅は、先ほど言いかけていた言葉を紡ぎ出そうとする。未夜子は黙って沙羅の言葉を待った。……沙羅が何て言おうとしているのか、その言葉が一体何を意味するのか。もう未夜子には痛いほどわかっていた。
 ……わかっていたから、何も言えなかった。ただ黙って、続きを待つしかなかった。
 耳を塞いでしまいたい衝動に駆られる。
 沙羅が、震える声で話し出す。決して聞きたくなかった一言が放たれた。
「終夜は、すでに死んでいるから……」
 その時、空が眩しく光った。終夜の半身が明るく照らし出される。
 ……影は、映っていなかった。


(……どうしても変わらないと言うのか……?)
(変わらない? 違うね。これが本来の僕の姿なんだ)
 微かに花の香りが漂う部屋に、二人の男が対峙していた。
 一人は、一〇代半ばほどのあどけなさの残る表情の少年。もう一人は、三〇を半分過ぎたくらいの、髪に白いものが少し混じり始めた男。
 二人は互いに大きな鎌を握っていた。その、真新しいギラギラとした鎌の刃が交差されている。
 少年は大きなテレビの上にちょこんと座り、大きな鎌を軽々と持ち上げて頭上で振り回して見せる。慣れた手付きだ。
 男も、床に足を付けて少しだけ腰を下げ、大鎌を両手でしっかりと握って少年の方に向けている。
(終夜……お前はこの一年間、一体何をしていた? 何を見付けたんだ?)
(……父さんに言っても理解してもらえないことだよ)
 テレビの上に座った少年――終夜が、面白くなさそうに鎌の柄を肩に乗せる。
 父・新夜は、一年振りに見る我が子を舐めるように見た。何も変わっていない。そう思う。だが、彼は変わりきってしまったのだ。人を殺すことをなんとも思わない、邪悪な殺人鬼に。
(……最後に聞く。……家に、戻る気はないのか?)
(終夜。今なら許してあげるわよ)
 新夜は、ゆっくりと口を開いた。続いて、高めの女の声も聞こえる。新夜が持っている鎌、沙羅から発せられたものだ。
 終夜は、ふん、と鼻から息を吹いた。
(そんなの聞かなくてもわかってるんでしょ? 僕は僕の道を行くよ。それが死神の道から外れているとわかっててもね)
(そうか……残念だ……)
 軽く首を振り、新夜は息を吐く。が、すぐに顔を上げて終夜をキッと睨んだ。
(ならお前にはこの世を去ってもらうしかないな!)
 実の父にそう宣言され、沙羅の刃先を向けられても終夜は顔色一つ変えなかった。年相応に見えない、落ち着いた表情で沙羅の切っ先を見つめる。
(死神の鎌でなら、誰でも殺すことはできるんだよね。その相手がたとえ、死神だったとしても……)
(その逆でもあるな。死神を殺すには死神の鎌を使うしか方法はない。道を踏み外した死神を排除することも、私達死神にとってとても重要な仕事だ)
(それが実の息子であっても?)
小首をかしげさせ、少し伸びた黒髪を垂らす。間があって、父が答えた。
(……そうだ)
 全てを決意したような、そんな瞳。沙羅は言いかけた言葉を呑んだ。この決意を、鈍らせてはいけない。
(じゃあ、僕も本気を出していいんだね?)
 新夜の声を聞き、終夜の目が爛々と輝き始めた。ここに来て終夜が始めて見せた、年相応の表情。その余りにも無邪気な笑みに、ほんの少しだけ新夜は戸惑いを見せる。
 そのほんの少しの差が、命取りになった。
 終夜が軽く、テレビを蹴って宙を舞った。新夜の頭上を一回転しながら飛び越え、真後ろに立とうとする。新夜の反応が送れた。
(さようなら、父さん……)
 ズッ
 肉を裂く、嫌な音が響いた。まだ宙を舞っている終夜の手に握られている双樹の刃が、新夜の背を貫通して胸から飛び出していた。
 瞬間に、新夜の体から白い靄の塊が抜け出て、魚のように床でびちびちと跳ねている。
(新夜さん!)
 沙羅が叫んだ。新夜の掌から、確実に体温が奪われていった。
(……!)
 その時、光を失いはじめていた新夜の目が一瞬だけ光った。沙羅を再度強く握り締め、思いきり振り上げる。
(!)
 予想していなかった事態に、今度は終夜の反応が遅れる。双樹を胸の前に出そうとするが、間に合わない。
(あぁっ!)
 終夜の叫び声が響いた。
 沙羅の刃が、終夜の腹を刺した。双樹を背に刺したままの新夜はそのまま床に雪崩込み、沙羅を腹に刺したままの終夜は、そのまま弾き飛ばされて床に何度かバウンドをしてから壁にぶつかって止まった。体から、新夜と同じく白い靄の塊が抜け出て、魚のように床で跳ねている。
 しばらく、沈黙が流れた。
 先に動いたのは沙羅だった。一瞬、何が起こったのか理解できずに終夜に突き刺さったまま呆然としていたが、思い出したかのように自力で終夜の腹から刃を抜く。白い光を放ったままゆっくりと宙に浮かび、終夜の死体を見下ろす。背中からは真っ赤な血が溢れでており、白い壁を赤く染め上げていた。
 次いで、新夜を見下ろす。
 不恰好な姿で床に突っ伏している新夜の目には、もはや生き物の光は感じ取れなかった。さきほどまで自分を握ってくれていた力強い手にも、もう血は通っていない。
 泣き出してしまいそうになるのを堪え、沙羅は体が熱くなるのを感じた。――そして、気がついた。
 双樹が、いない。
 沙羅は慌てた。もし双樹がここから逃げ出して、他の人間を餌食にしてしまったらどうするのか……
――鎌は一人では何もできない。けれど、他の人間を死神にすることはできる。ほんの少しでも、死神の素質を持っている人間には、鎌を見ることができるのだ――
 その人間を探すことは容易ではないが、不可能ではない。終夜に心を汚されてしまった双樹なら、それをしかねない。双樹を止めなくては。沙羅は反射的にそう思った。
 だが、家のどこを探しても双樹の姿は見つからなかった。もうすでに家を出てしまっているのかもしれない。沙羅はそう思い、終夜達の母を呼ぼうとした。一人で双樹を探すのはちょっと大変だ。力を借りよう。
 その時、甲高い悲鳴が聞こえた。沙羅は息を呑む。……あの悲鳴は、もしかして……!
 沙羅は飛んだ。急いで、声の聞こえた部屋へと向かう。そこは、先ほどまで沙羅がいた場所……新夜と終夜の、死体のある場所。
(双樹!)
 叫びながら沙羅が部屋に入る。
 沙羅は、そこで再び息を呑んだ。
 目に映ったのは、女の首を片手で軽々と持ち上げている一人の少年の姿。女の背から飛び出た血を顔に浴び、それをぺろりと舌で拭っている、終夜の姿。その手には、双樹が握られている。
(終夜……あなた……どうして……!)
 沙羅の声は震えていた。血で赤く染まった部屋に、生きている人間の気配は感じ取れなかった。
 終夜が、ゆっくりとした動作で沙羅の方を向く。その姿を確認すると、血に塗れた唇が弧を描いた。
(甘いんだよ、沙羅。君の考えはね)
 そう答えたのは双樹だった。終夜の手の中で、沙羅とは対照的な黒い光を放っている。沙羅の喉が震えた。
(双樹……あなた……!)
 沙羅は何かを言おうとした。だが、声が出なかった。
 恐怖のためなのかなんなのか。それは沙羅にもわからない。ただ、目の前にある光景はこの世にあってはならないものなのだ。それだけは理解できた。
 もう一度、口を開こうとした。だが、その時。
(沙羅……?)
 後ろの扉が開いた。
 そこから、赤いランドセルを背負った七、八歳の少女が顔を出す。
(未夜子……)
 沙羅の声が、やっと出た。
 つぶらな黒い瞳が、じっと沙羅を見つめ、次に終夜を捕えた。
 愛する妹の姿を見た瞬間、終夜の笑みがより一層深くなる。
 夥しく漂う血の臭いだけが、これが現実のことであると知らしめていた。


「終夜は……新夜さん達の魂を吸収して、死人として甦ったの……」
 嗚咽混じりの沙羅の声を、未夜子は呆然と立ち尽くして聞いていた。
 終夜は、机の上に足を組んで座っている。左手で頬杖を付き、目を少しだけ細めて未夜子を見つめている。その、愛しい者を見守るような優しい微笑みに、未夜子は戸惑いを隠せない。
 その時、床に落ちた終夜の右腕が白い光を放ちながら宙に浮く。互いの白い断面図から、何本か触手のような物が唸りながら伸びる。未夜子は思わず半歩下がって口元を押さえた。
最初は数本の触手が、徐々にその数を増してゆく。無数の細い触手が不気味に絡み合い互いの断面図にずぶずぶと埋まってゆく。数秒も経たない内に、切り落とされた腕は元通りになっていた。
「このくらいの傷ならなんともないんだよ。すぐに再生できるから」
 掌を、何度か握ったり閉じたりしてみる。先ほどまで切断されていたとは思えないほど、手は自由に動いている。
「……確かに、僕を殺せるのは死神の鎌だけだろうねぇ。でも……」
 終夜は含み笑いを見せながら、右手で沙羅を指差す。意味もなく未夜子は身構えてしまう。
「未夜子に僕が殺せるのかな?」
 終夜の顔に、影が差す。できっこない。その表情は、そう語っていた。未夜子は唇を噛む。
「未夜子! 迷っちゃ駄目よ! あれはもう終夜じゃないの! もう、終夜は死んでるのよ!」
 未夜子の体がビクリと震える。全てを拒絶するように、目を見開いて。
 目の前にいるのは死人。もう、兄は一〇年前に死んでしまっているのだ。……そう言われても、いきなり実感などが沸くわけがない。だって、今兄はそこにいるではないか。
 そんな未夜子の考えをすべて見透かしているのか、終夜はクスリと笑い、自分自身を指差した。
「この亡骸に、一度切れた自分の魂を定着させる……でも、それだけだと不安定だから、その場にあった父さんと母さんの魂を繋ぎにさせてもらったんだ。……それだけで、僕は生き返ることができたんだよ。
 でも、その繋ぎも長くは持たない。すぐに変わりの魂が必要だったんだ。……その繋ぎに、あの男の子の両親の魂を使わせてもらった。二人分の魂があれば充分だったからね、あの男の子のことはそんなに気に掛けなかったんだよ……。まさか、生きているとは思わなかったけど」
 未夜子は首を横に振った。もうこれ以上聞きたくない。顔にそう書いてあった。でも、終夜は無視をして続ける。
「それから何人かの人間を斬ったけど……。ちょっと斬りすぎたみたいでね。徐々に僕の体は人の魂に占領されはじめるようになった。以前人間だった頃の肉体を失い始めているんだよ」
 終夜が伸ばした右腕を見て、未夜子は先ほどまで床に落ちていた兄の右腕のことを思い出す。
 あの、断面図から白い靄が出ていた右腕。あの靄は、人の魂なのだ。兄の魂をその体に繋ぎとめるために使われた、何の罪もない人間の魂だったのだ。
 天界にも冥界行けず、兄の体でさ迷いつづけている魂。転生することも許されず、ただただ兄の命を繋ぐためだけに留まることを許された存在。
 未夜子は吐き気を感じた。そんなことが、あっていいものか。
 その時、未夜子は思い出した。
(……秋津は……?)
 俯かせていた顔を上げ、絶望の瞳で兄を見る。そのことも予測していたのか、終夜はわずかに目を伏せた。
 人差し指で、軽く胸元を叩く。
「良太君はココにいるよ」
 終夜の目が、無気味に開かれる。
「――――!!」
 未夜子は、一気に頭に血が昇るのを感じた。沙羅の柄を、折れてしまいそうなくらい強く握り締め、歯を食いしばる。大きな目をより一層大きく見開かせ、乱れた髪が揺らぐ炎のように逆立ちはじめた。
「駄目よ未夜子! 落ち着きなさい! 未夜子!!」
 我を忘れた相棒を宥めようと、沙羅が必死に呼びかける。が、もうすでに沙羅の声すら耳に届いていないのか、未夜子は首を仰け反らせて獣の咆哮をあげる。同時に、床がミシリと鳴って、未夜子の足元が少しだけ陥没した。
「……あれほど、死神の仕事をしている時は自分を見失ってはいけないよ。って父さんに教えられたのに……」
 残念そうに首を振り、終夜がゆっくりと床に立つ。目をぎらつかせている妹を一瞥して、すっと右手を上げた。
「双樹。ケリをつけるよ」
 右手を大きく開いて、その手の中に望む物が現れるのを待つ。――が、
「……? 双樹?」
 そこにあるべき物が現れなかった。終夜はゆっくりと手を下ろし、自分の掌を見つめる。
 ……接続時に失敗したか……? いや、そんなはずはなかったが……
 眉根を寄せながら考える。が、目の前にいる妹の変化の方が早かった。
 未夜子は血走らせた目で終夜を捕え、一気に飛びかかった。
「!」
 一瞬判断が遅れた終夜だったが、軽く右に飛んで難を交わす。丸腰の今は、終夜の方がわずかに不利だった。
 沙羅が、空を斬る。だが、すぐに次の攻撃に移った。
「未夜子!」
 沙羅の声が虚しく響いた。未夜子の攻撃は、あとほんの少しというところで終夜の胸の前を掠める。
「……相変わらず、自我を見失うと動きが素早くなるね、未夜子」
 苦しい笑みを浮かべ、額に一筋の汗を流し、終夜はその場にしゃがみ込んだ。
「……でも!」
 再び、未夜子が襲いかかってくる。両手で沙羅を真上に振り上げ、しゃがんでいる終夜に斬りかかろうとしているのか。
 終夜の目が光った。
 未夜子が鎌を振り下ろすのと同時に、終夜が曲げていた足を一気に伸ばす。妹の腹に向かって全体重をかけ、そのまま後ろに吹き飛ばす。
「……そうなってしまうと、周りがよく見えなくなるのが欠点だね……」
 そのまま宙をくるりと周り、床に倒れ込んだ妹をまたぐように立つ。その手には、吹き飛ばされた際に未夜子が手放してしまった沙羅が握られていた。
「未夜子!」
 沙羅が悲痛な叫び声をあげる。終夜がもう一度あの笑みを見せた。
「さぁ、これでお終いだよ。……僕も、今日でやっと過去の因縁に決着をつけることができる」
 生きることに疲れた亡者のようなセリフ。終夜は沙羅の刃を、気絶している妹の胸元に押し当てる。あとほんの少しでも力を入れれば、その刃は未夜子の体を貫くであろう。
「! 終夜! お願いだからやめて!!」
 終夜が何をしようとしているのかわかったのか、沙羅がヒステリックに叫んだ。死神に握られている時は、鎌は自分の意思で動くことはできない。今、未夜子の命は終夜の手の中にあった。
「……ほら、やっぱり気持ちがいい……。人の命を握り締めるというのは、とても気持ちのいいことなんだよ、沙羅……。君にも、このことを教えてあげるから……」
「やめてーー!!」
「大丈夫。苦しみは感じないから……」
 終夜の瞳から、光が失われる。その瞳が、沙羅の刃先を捕え、その刃先は未夜子の魂を捕えている。
 この瞬間が、たまらなく好きだった。
 人の命が散る瞬間。それはとても美しく、気持ちのいいものなのだ。……自分が一度死んだ時も、そう思った。
『死ぬほど気持ちいい』と言い出したのは誰なのだろう? 終夜は、その言葉が一番好きだった。本当に、死ぬことは気持ちのいいことなのだから――
 まだ叫んでいる沙羅の声を聞きながら、終夜は意識が遠のくのを感じる。人の魂を斬る時はいつもこうだ。至福の時を感じすぎて、気を失ってしまいそうになるのだ。
 もう少し、あと、ほんの少し力を入れれば、ここにある一つに命が終わる。そう、あとほんの少し……――
「!」
 突然、終夜の顔が強張った。全身をビクンと痙攣させ、思わず沙羅の柄を放してしまう。
 沙羅はその瞬間を見逃さなかった。瞬時に、終夜の手から離れ、終夜から少し離れた所に瞬間移動をする。
「……が、が、が……!」
 目を大きく見開かせ、両手で顔を覆った終夜がその場で悲鳴ともとれるうめき声をあげはじめる。
「しゅ、終夜……?」
 その終夜の異変に戸惑いを隠せない沙羅は、少しだけ終夜の正面に近寄った。終夜の顔は真っ青になっており、とても演技をしているようには見えなかった。最初は、沙羅を油断させるために演技をしているのかとも思ったが、これは絶対に違う。本当に苦しんでいる。第一、終夜が今、演技をする理由が見つからなかった。
「がああああああーーーー!!」
 ビクンと体を振るわせ、両手で顔を覆ったまま大きく背を仰け反らせる終夜の口の端から泡が漏れているのを、沙羅は見た。
「終夜!?」
 沙羅が叫んだ。
 その時、終夜の足元で気絶していた未夜子の目が開いた。未夜子は、自分の上で絶叫をあげ、何かに苦しんでいる兄の顔を見た。

 ザンッ……!!

 その時、時が止まった。
 未夜子と沙羅は見た。
 終夜の体が、縦に半分に裂かれていく姿を。
 縦に亀裂が入り、そのまま体が少しだけずれる。そうなると後はもう簡単だった。真っ二つに裂けた兄の体はそれぞれ左右に音を立てて倒れこみ、再び床の上で蜥蜴の尻尾のようにびちびちとのた打ち回っている。
 未夜子も沙羅も、声を出せないでいた。
 裂けた終夜の体。それを裂いたのは、一本の大鎌。

――鎌は一人では何もできない。けれど、他の人間を死神にすることはできる。ほんの少しでも、死神の素質を持っている人間には、鎌を見ることができるのだ――

 短い黒髪が、風に乗ってふわりと揺れた。
 黒い瞳に、稲妻が写し出された。
 汗ばんだ両手には、しっかりと柄が握られている。
 額から汗が滲み出ている。口の端から垂れている血を、ぺろりと舐めとった。
 肩で大きく息をし、慣れない鎌を振り回して――――
 秋津良太が、そこに立っていた。

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