第4回

 それは、とても暑い夏の日だった。
 白い壁に囲まれた部屋で、宮島良太はいつも通り、友達とボールで遊んでいた。
 その時、誰かが良太の名前を呼んだ。
 良太は返事をして、友達にバイバイと言ってからその部屋を出る。
 そこにいたのは良太もよく知っているお姉さんだった。いつも黄色いエプロンをつけていて、良太達に絵本を読んでくれたり、おやつを運んできてくれたりしている。
そのお姉さんが、にっこりと笑いながら走り寄ってきた良太にこう言った。
(良太くんのお父さんとお母さんになる人が見つかったんだよ)と。
おとうさん。おかあさん。
 その言葉に、良太は何だか嬉しくなってしまう。しばらくの間耳にしていなかった、とても懐かしい言葉。良太は自然と笑顔になった。
 良太は黄色いエプロンのお姉さんに手を引かれながら別の部屋に移動する。そこは、いつもは絶対に入っちゃいけないときつく言われていた部屋だった。良太が心配そうな表情を浮かべると、
(ここに良太くんのお父さんとお母さんがいるんだよ)
 お姉さんがそう言ってくれたので、心配な気持ちが全部吹き飛んでしまった。
 お姉さんが、扉を開ける。
 大きなソファが二つ、それに挟まれて大きな机が一つ、その部屋にあった。そして、ソファの一つに二人の大人が腰掛けている。
 良太はお姉さんの手を強く握り締めた。お姉さは、良太を見て微笑んでくれる。
 二人の大人が立ちあがった。一人は女の人、もう一人は男の人だった。女の人はお姉さんより少し年上くらいに見え、男の人はそれよりもっと年上に見えた。二人共、笑顔で良太の方を見ている。
(良太クン?)
 女の人がそう言ってきた。柔らかな笑みに、心が暖まるような声。良太は顔を真っ赤にさせて頷く。
 お姉さんが手を離した。良太は一瞬びっくりしたが、すぐに男の人が良太の両脇に手を入れ、抱き上げてくれる。良太は小さな悲鳴をあげた。
(今日から僕が君のお父さんだよ)
とても大きな、力強い手。良太は目を輝かせた。
(私がお母さんよ)
 女の人が男の人の隣に立つ。
(ねぇあなた、私にも抱かせて)
(わかったよ昌子……ほら)
 男の人が、良太を女の人に渡した。
(今日から、お母さんって呼んでね)
 女の人に抱かれると、とても甘い匂いがした。良太は何だか照れ臭くなってしまい、下を向いてしまう。
(ねぇ、何だかこの子の目元、あなたに似てない?)
(口元は昌子にそっくりだよ)
 男の人と女の人が、笑いながら良太を交互に抱いてくれる。
 そして、良太は二人と手を繋いで違う家に引っ越した。もう二度と、あの白い壁の家に戻ることはなかった。
 その日から、宮島良太は秋津良太になった。


 目をぼんやり開けると、白い天井が飛び込んできた。
 首を右に回すとひらひらと揺れる白い布が、左に回すと白い壁が見えた。
突然、良太は弾かれたように飛び起きた。ベッドがぎしりと音を立てて軋む。
「秋津?」
 右手の白い布が開かれ――どうやらカーテンのようだ――釣り目の少女が顔を出す。そこには、セーラー服ではなく、青いシャツとジーンズという私服姿の未夜子がいた。その顔を見て、良太は安堵の溜息を吐いた。
「蒼木……」
 その名を呼んで、やっと現実に戻れたような気がした。
「目が覚めたのはいいけど……どうしたんだ? 突然飛び起きて」
「あ、いや、ちょっと……」
 良太は苦笑しながら袖で額を拭った。
 白い世界は嫌いだ。
 また、父と母のいないところに連れていかれそうな気がして。
「ところで、ここは?」
 良太は辺りをキョロキョロと見まわした。違うとわかれば、白い壁も怖くはない。
「あぁ、私の家だよ」
「蒼木の?」
 未夜子は頷く。
「アンタがどこまで覚えてるかは知らないから最初から言うけど、アンタは屋上で倒れてたんだ。家に連れて行こうと思ったけど、雨が降ってきたからとりあえず私の家に連れてきた。沙羅を使って空を飛んでね。悪いと思ったけど、濡れてたから服は着替えさせてもらったよ」
 そう言われ、良太はハッとした。確かに今、自分は学生服を着ていない。男物の青と白のストライプのパジャマを着ていた。これを未夜子が着替えさせたのかと思うと顔が赤らんできた。
「? どうしたの?」
 しかし、当の未夜子は床に座り込んで何事もなかったような顔をしている。案外、男慣れしているのかもしれない。――そう思い、胸がちくりと痛んだ。
 改めて辺りを見回してみる。そこはこぢんまりとした部屋だった。今、良太が寝かされているベッドも質素だがきちんとシーツが敷かれており、周りにカーテンが引かれているというのは謎だったが、特に気にはならなかった。
 家具も一通り揃っており、テレビの上には可愛らしいテディベアが飾られていたりする。……そして、あることに気づいた。
「ご両親は?」
 きょろきょろと周りを見ながら聞いてみる。この家にはドアが一つしかない。それは、外に通じるもので、この家には他に部屋がなかったのだ。
「見てわかるだろ? 一人暮らしなんだよ」
 未夜子は床に座って胡座をかく。良太は、それ以上は深く追求せずにふぅんと呟いてから壁にある窓を見る。カーテンが半分しか開いておらず、外の様子はよく伺えなかったが、未夜子も言った通り外は雨が降っているらしく、微かな雨音に混じって雷鳴が聞こえてきた。
「けっこう降ってるよ……」
 未夜子が立ちあがり窓辺に寄った。カーテンを全部開いてくれる。
 小さな窓からは、外の様子がよく伺える。
 暗闇が続いている中、大粒の雨が窓を叩き、激しい風が木々を揺らしていた。もしかすると、台風に近いのかもしれない。
 ふと、窓から視線を逸らした。自然と窓の上に掛けられている時計に目が入る。時刻は、午後九時。
「九時!?」
「あぁ、大丈夫」
 良太が叫ぶのと同時に未夜子が呟いた。どうやらこのことは予測していたようだ。
「家、だろ? 大丈夫。ちゃんと電話しておいたから」
「で、電話?」
 良太が聞き返すと、未夜子はビーズアクセサリーのストラップの付いたピンクの携帯電話を指でくるくる回した。
 その、彼女のイメージと少しかけ離れた可愛らしい携帯電話に一瞬呆気に取られたが、すぐに頭に疑問符を浮かべた。
「蒼木が俺の家の番号知ってるのか?」
「いや、わかんなかったから秋津の学生証見せてもらった。アンタって絶対律儀だと思ったからさ、自分の電話番号書いてると思ったんだ。ビンゴだから助かったよ」
 ケラケラと笑いながら未夜子は携帯電話をポケットにしまう。
「ちゃんと母親を演じたから大丈夫だよ。『秋津君に、息子の勉強を見てもらっているので、今日は雨が強いですし家に泊まらせますね』って」
 途中、身をくねらせながら声色を変えて語る未夜子に良太は呆然としていた。
 確かにその声は大人っぽかったので、どうやら親は騙せたであろう。
……しかし、蒼木がこんなに大胆なことをする人間だったなんて……。普段では考えられないことばかりだった。
 いや、もしかしたらこの未夜子が本当の未夜子なのかもしれない。
 よく喋り、よく笑い、時には冗談も言う。そんな、普通の女の子。
「あ、そうだ。体冷えてるだろ? コーヒー入れてくるよ……って、コーヒー切れてたな……ちょっとコンビニまで買ってくるから、寝て待ってて」
 未夜子は立ちあがり、傘を持って家から出て行ってしまう。
残された良太は複雑な気分になりながら溜息を吐いた。親に嘘を吐いてしまったという罪悪感と、これからどうなるのかという不安感。
「未夜子ってあんな性格だったのか? って思ってるでしょ」
「うわっ!」
 突然、どこかから沙羅の声が聞こえてくる。
「そんなに驚かなくても……」
 大声を張り上げてしまった良太に、沙羅はめそめそ泣きながら姿を現す。良太の目の前に、白い光を放ちながら宙に浮いている。
「ご、ごめん」
「フフ。本当に素直ね、良太クンは」
 相変わらずのお姉さんっぽい口調。良太はなんだか背中が痒くなったような感じがする。
「未夜子は……本当はとても明るい子なのよ」
「……うん。俺もそう思う」
「え?」
 沙羅が驚いたような声を出す。
「珍しい。今までそんなこと言われたことなかったのに」
 良太は苦笑した。
「学校でのアイツが偽りのアイツなんだろ?」
「……そうね」
 少し間を置いて、沙羅が答える。すでに沙羅は良太の膝の上に降りていた。もう、輝きも消えている。
「自分で言うのもなんだけど……未夜子があんな性格なのは、自分が死神だからよ」
 それは、良太も予期していた言葉。沙羅は続ける。
「死神は、死人の魂を斬るのが役目。そして、私は人の死を感じ取ることができるの。昨日も、それを察知したから事故現場にいた」
 良太は黙って沙羅の言葉を聞いている。
「あの子が物心付いた頃からそうだったの。ずっとその仕事を繰り返してきた。
 ……結果、あの子は友達を作らなくなった」
 そこで沙羅は一息吐いた。一体沙羅はどこから呼吸しているのだろうか。ふと、良太はそんなことを思う。
「いつか自分が友達の魂を斬ってしまうのではないか。……そう思ったのね、あの子は。だから学校では極力目立たないように、誰も近づかないように、わざとああやって自分に悪い噂を立てられるような行動をしてるの。
……私は、それを見るのが辛い」
 最後は吐き捨てるように沙羅は呟いた。それが、沙羅の本音。
「だから、良太クンと一緒にいる時のあの子を見ているのはとても好きなの。……今となっては、あなただけがあの子の友達になれる人間かもしれないから……だからお願い。未夜子と仲良くしてね」
 良太の手の中で、沙羅は微笑んだ――微笑んだような気がした。
「なんだか沙羅って、お母さんみたい」
 何気無く、そんなことを言ってみる。
「お母さん?」
 沙羅はあら? という風に呟き、声を出して笑った。
「寄りによってお母さんかぁ。お姉さんのほうがいいなぁ」
「じゃあ、お姉さん」
 良太と沙羅がクスクスと笑いあう。
 不思議な感覚だった。
 今、目の前にあるのは一本の鎌のはずなのに、何だか人間と会話をしているような感じがする。
 頼れるお姉さん。そんな雰囲気を沙羅は醸し出していた。
 沙羅は、生まれた時から未夜子のことを見守っていたのだろう。それは、まさに母親の心境に近いのかもしれない。
 いつも自分のことを心配してくれる母親。良太は、毎朝変わらぬ笑顔を見せてくれる母のことを思い出していた。
 その時、家の扉が開いた。
「く〜、濡れちゃったよ〜」
 ズボンの裾を雨で濡らし、傘を閉じながら未夜子が苦い表情を浮かべている。すぐにドアを閉め、そのままキッチンへと向かってキッチンの扉を閉めた。どうやらお湯は沸かしていたらしく、すぐに両手にカップを持った未夜子が足で扉を開けて出てくる。途端に沙羅が叱咤した。
「未夜子! 足で扉を開け閉めしちゃいけないって何度も言ってるでしょ!?」
「両手が塞がってるんだから仕方がな〜い」
 未夜子は鼻歌を歌いながら小さなテーブルをベッドに寄せ、カップをそこに置く。
「あ、ありがとう」
 良太が苦笑しながらカップを受け取った。コーヒーの香りが気持ちを随分と落ちつかせてくれる。一口飲むと、体の芯まで暖まったような気がした。
「さて、聞かせてもらおうか」
「え?」
 良太がカップを離したところで未夜子が切り出した。床の上で胡座をかき、頬杖をつく。しかし、その表情は真剣そのものだった。
「屋上で何を見た?」
 核心だけを突いた、その一言。良太は一瞬戸惑ってしまう。
「いいよ、ゆっくり話して」
 そう未夜子が言ってくれたので、良太は順に話し出した。
 教室で見た黒い影。屋上にいた一人の男。突然自分に襲いかかってきたこと。……そして、男が持っていた、一本の鎌。
「!」
 未夜子の表情が強張った。沙羅も息を呑んでいる。
「……それから後の、意識はない」
 言い終わったところで、良太は大きく息を吐いた。
「今日は午前中に仕事があったから学校にいなかったんだけど……マズかったね……」
 片手で顔を覆い、ぼやく。
「とりあえず、その男の正体を掴まないと危な……」
 カップを口に運びかけているところで未夜子の動きが止まった。その姿勢のまま、じっと良太を見つめている。
「な、なに?」
 少しドキドキしながら良太は未夜子を見返した。だが、未夜子の瞳はまっすぐに自分を捕らえている。
「秋津、あんた……!」
 そこで未夜子の顔色が変わった。顔を青ざめさせ、驚愕の表情で良太を見つめている。
「ちょっと服を脱いで!」
 そう言うや否や、未夜子はベッドに乗り、良太の肩を乱暴に掴み、背を上にさせた。
「あ、蒼木!?」
 良太の叫びを無視し、未夜子は良太の背を足で挟んで馬乗りになる。ベッドがぎしぎしと音を立てて揺れ、短めのスカートからすらりと伸びた足が直に良太の手に触れる。乱暴に良太のシャツを剥いだ。良太は抵抗する間もなく上半身を裸にされてしまった。
「何すんだよ蒼木!」
 顔を赤くさせ、良太は首だけを後ろに向ける。だが、そこにある未夜子の表情を見て愕然とした。
 未夜子は顔面を蒼白させていた。良太の背中を睨むように見つめ、下唇を噛んだ。いつの間にか良太の背を覗くように飛んでいた沙羅も小さな悲鳴をあげる。
「『死月の烙印』……!」
 吐き捨てるように、そう呟く。その聞き慣れない単語に良太は眉根を寄せた。
「死月の……何?」
「烙印よ……」
 未夜子の代わりに沙羅が続ける。その声には今までのような安心感は微塵も存在していなかった。
 未夜子が額を抑え、深く溜息を吐きながらながら良太の上から降りる。良太もゆっくりと起きあがった。
「背中、見てみな」
 未夜子が額を抑えたまま部屋の隅にある鏡を指差す。良太は促されるままベッドから降り、鏡の前に後ろ向きで立ち、背中を見てみる。そして、再度愕然とした。
「な、なんだこれ……」
 その背にあったのは、右肩から腰の左側にかけて大きな弧を描いているミミズ腫れのような傷痕。こんな傷を良太は今まで見たこともなかったし、最近怪我をした覚えもない。
「それが死月の烙印だよ……ったく、どうして今まで気がつかなかったんだ……少し考えればわかることだったのに……」
 未夜子はカップに残っているコーヒーを全て飲み干す。それは、まるで嫌なことを全て忘れてしまいたいという仕草に見えた。
 大きく息を吐いてから、もう一度良太の顔を真正面から見つめる。
「秋津……アンタ、私以外の死神と会ったことがあるんじゃないのか?」
「え?」
 良太は鏡を見ていた目を未夜子の方に向ける。そこには嘲りや迷いの表情は見当たらなかった。ただ一点だけを見つめている。
恐ろしいほど、澄んだ瞳。
「な、ないよそんな……死神なんてそこらじゅうにいるもんじゃないんだろ?」
 しどろもどろになりながら良太は答える。
「そのはずだけど……皆無ってわけでもないし、多分アンタが今日会ったのも、私以外の死神だよ。……何か恨みでも買ったんじゃないの?」
そう言い、未夜子は口元に手を当てて唸り出した。その顔はまだ青い。
「だ、だから俺は何も知らないって。今日会った奴も……初めて会った奴だし」
 少しだけ、間を置いてしまう。
 あの男が、本当に初めて会った人間とは思えなかったから。
まだ何も言うことができない未夜子の代わりに沙羅が口を開いた。
「でもね、良太クン……。あなたのその背中の傷は……」
「いいよ、沙羅。私が言うから」
 そう言い、未夜子は目で良太にベッドに戻るように促す。良太は上着を着なおしてから素直にそれに従った。
「わかったよ、全部」
 良太がベッドに座ったところで、未夜子はそう言った。
「何が?」
 当然のように良太は聞き返す。
「あんたに私達が見えてる理由だよ。全部その死月の烙印のおかげさ」
「あの……?」
 コーヒーを口に運びながら良太は自分の背にあった傷の事を思い出す。そう、まるであれは月のような形をしていて……
「……あれは、死神に斬られた人間につく傷痕なんだよ」



 死神は、人間の体から抜け出ている魂を斬る。
 その証として、背中に大きな三日月型の傷痕が付くのだそうだ。
 なぜなのかはわからないが、昔からそうなのだと未夜子は言った。そして、それは普通の人間に見えることはない。

「非常事態だ、全部話すよ。
……正直、アンタの異変は初めて会った時から気づいてた。ずっと疑問に思ってたんだよ。アンタの体からは、魂が抜けかけている。死ぬ予定は全然ないのに、今にも千切れてしまいそうなんだ。……確か、体が弱いとか言ってたよな? 全部そのせいだよ。魂がないと人間は生きていけないからな。
……でも、その正体も全部わかったよ。あんたは昔、死神の鎌で斬られたことがあるんだ。でも、どうしてかはわからないけど、その時はアンタの魂は抜けずに済んだみたいだ。だけど、その時から魂の存在が不安定になっている。魂が半分斬られてしまっていたから。でも、その代わりに私達死神が見えるようになった……皮肉なもんだね」
 未夜子の言葉を聞きながら、良太は混乱している頭をどうにか整理しようとした。だが、考えが上手くまとまらない。
「驚くのも無理かもしれないけど……でも、おしえてくれ。お前はいつ、どこで死神に会って斬られたんだ?」
 良太は軽く額を押さえた。じわりと、汗が滲み出てくる。
「……残念だけど、時々いるんだよね。生きた人間を無理やり殺して魂を抜き取り、それを高値で地獄に売り付けてる悪党が。生きた人間の魂は高値で取引できるから」
 もう未夜子の言葉は良太の耳に届いてなかった。
「秋津、思い出すのも嫌かもしれないけどちゃんと答えるんだ。これはお前の命に関わることなんだ。……さっき現れた死神、ひょっとしたら昔お前の魂を斬った死神なのかもしれない」
 頭が、ぐるぐるしている。白い靄がかかっていて、はっきりと奥を見ることができない。
「……秋津?」
 ずっと、ずっと昔に起きたこと。
 ただ思い出すことができるのは、天使のような微笑みをした少年。
「秋津!」
「!」
 激しく肩を揺すぶられ、良太は我に返った。目の前にいるのは、緊迫した表情の未夜子の顔。いつの間にかパイプ椅子からベッドに。移動していた。が、その未夜子の顔を見て、良太はまた俯いてしまう。
「秋津! 話してくれないとわからないだろ!?」
「…………」
「秋津!」
 痺れを切らしたのか、未夜子がもう一度良太の肩を激しく揺すった。良太は未夜子にされるがままになっている。
「……覚えてないんだ……」
「え?」
 弱々しく呟かれた、良太の言葉。
「覚えてないんだよ……」
 今にも消えてしまいそうな、儚い命。
 未夜子は一瞬、良太の言っている意味がよくわからなかった。
「記憶がないんだ……」
 そこまで言われ、理解した。未夜子の手がぱたりと落ちる。
 良太は顔を上げた。
「昨日言ったろ? 今の家には養子で入ったって。……それ以前の記憶はどうしてかわからないけど……全くと言っていいほど、覚えてない」
「…………」
 今度は未夜子が無言になる番だった。
「父さんや母さんに聞いても教えてくれない。あの二人は知ってるはずなのに、何も言ってくれないんだ。……それに、今の生活に過去の思い出は不要だから、俺も極力聞かないようにしてるから……
あ、でも、ほんの少しだけなら覚えてる。本当に少しだけど。……頭の中に靄がかかったような、曖昧な記憶なら」
 良太は手を握り締めた。未夜子は顔を上げる。
「じゃあ、その思い出したことを何でもいいから話してくれ!」
 少しだけ顔を明るくさせた未夜子の呼びかけに、良太は大きく頷いた。が、
「!」
 その顔が、一瞬にして強張る。
 未夜子を通りすぎた向こうにある、小さな窓。
 そこに、人がいたのだ。
 黒いシャツ、黒いズボンを穿いた、二〇代前半ほどの男。
 雨に濡れ、手に何かを握ったまま、こちらを見てニヤリと笑っていたのだ。
「秋津? どうした……」
 良太の視線を感じ取ったのか、未夜子も後ろを向く。瞬間、男と未夜子の視線が絡み合った。
「!」
 未夜子は息を呑んだ。目を大きく見開き、窓の向こうを凝視している。
「しゅ、終夜!?」
 叫びは沙羅のものだった。その声を合図にしたかのように、未夜子が跳ねるように立ちあがる。窓の向こうで男が宙を蹴った。未夜子が窓に手をかけた時、男の上半身はすでに見えなくなってしまっている。代わりに、すらりと伸びた銀色の刃が見えた。
「お兄ちゃん!」
「双樹! あなたまで!?」
 未夜子と沙羅が同時に叫んだ。
 未夜子は窓から顔を出し、雨に濡れるのも気にせず真上を見た。そこには、闇に紛れてよく見えないが、一〇メートルほど上空に、あの男が手に一本の鎌を握ってじっとこちらを見下ろしていた。その顔は……笑っていた。
 良太もベッドから降り、未夜子の隣に並ぶ。雨が顔を叩いたが、そんなことは気にとめずに男を見上げた。
「あの男……」
 良太は小さく呟いた。未夜子は、え? と良太の方を見る。その顔が、みるみる青くなっていった。
「……まさか……!」
「あの男だよ! 蒼木! 今日、屋上で俺の目の前に現れたのは!……お兄ちゃんって……?」
 未夜子は良太の問いには答えず、バッと男の方を見た。男はまだ口元に笑みを浮かべている。未夜子は窓のサッシを強く握り、下唇を噛み締めた。
「終夜……あなた、どうしてここに……!?」
 恐怖に震えた声で沙羅が叫ぶ。
「甘いんだよ沙羅。僕が本当に引くとでも思っていたのかい?」
 男の言葉に沙羅は息を呑む。
「沙羅……?」
 未夜子が濡れた瞳で沙羅を見る。が、沙羅は未夜子を無視して今度は違う方向に向かって叫んだ。
「双樹! あなたも!」
「いやだね沙羅。ボクはボクの仕事をしているだけだよ」
 答えたのは少年の声。あの男のものではない。それは、男の握る鎌から発せられた言葉。
「あなた達は、どうして!」
 沙羅の叱咤は続く。男の片眉がピクリと動いた。
「沙羅……君が僕に指図を出来る立場なのかい?」
「立場なんて関係ないわよ! それに、あなたは……!」
 何かを言いかける。が、沙羅の言葉はそれ以上続かなかった。
 だが、男――終夜は沙羅の言葉を無視し、鎌――双樹の刃先を、良太の方に向ける。反射的に良太の体がビクリと震えた。
「次は、いただくよ……」
 すっ、と、その刃を十字に切る仕草をする。
「お兄ちゃん……」
 未夜子はサッシを握ったままそのままずるずると床に座り込んでしまった。髪先や顎からぽたぽたと雨の雫が落ち、床に染みを作る。
 良太は無言のまま男を見上げている。自然と、その表情が厳しくなっていった。ちらりと横目で項垂れている未夜子を見た。そして、終夜をじろりと睨む。
「怖い怖い。そんなに怖い顔をしなくてもいいじゃないか」
 まだ切っ先を良太に向けられている双樹が笑いながら呟いた。釣られるように、終夜も声を出して笑う。
「いいじゃないか、威勢のいいナイトだ。……でも、無駄だよ。君の魂は僕がもらうんだから」
 最後の言葉と共に、終夜の黒い瞳に光が宿った。鎌を持っていないほうの手を口元に持っていき、肩を竦めさせる。
その目は、獲物を選ぶような目。良太は睨みながらも額から汗を一筋流した。雨と混じって、頬を伝ってゆく。
「未夜子」
 終夜の視線が未夜子に向けられる。未夜子は体を小刻みに震わせながら恐る恐る顔を上げた。
 未夜子は、体を震わせて全身から怯えの感情を吹き出していた。隣に立っている良太にでさえ、未夜子の気持ちが怖いくらいに伝わってくる。
「また今度、二人でゆっくり話そうね……」
 終夜はそう言うと、もう一度ニコリと笑った。その笑みは、終夜もよく知っている。
 今浮かべている終夜の笑み。今日、屋上で見せられた笑み。そして、遠い記憶の彼方で、天使の顔をした少年が浮かべていた笑み。 
 全てが、重なった。
「終夜! 双樹!」
 沙羅が、もう一度叫ぶ。
 だが、二人は沙羅の声を無視し、あの笑みだけを残して、良太達が見えなくなるまで空高く飛んで行ってしまう。
「蒼木……」
 全てが闇に消えてしまった後、良太は未夜子の方を見た。だが、未夜子は座り込んだままずっと虚空を見つめていた。
 その目には、何も写されていない。
 雨だけが、二人を絶え間無く叩きつづけている。寒ささえ忘れたかのように、未夜子はずっと空を見上げている。
「……私の、兄なんだ……」
 どのくらいの時が流れたであろうか……。 震える唇で、未夜子が呟いた。
 良太は何も言うことができなかった。窓を閉めるのさえ忘れてしまい、ただ呆然と終夜が去った後を目で追っていた。
 そこで、二人の会話は途切れた。
 雨音だけが、虚しく耳に響いている。



 第三章 * 月明かりが見えない

 物音で、未夜子は目を覚ました。
 隣の部屋から聞こえる、ガサガサという物音。レースのカーテンが掛けられてある窓のから見える外は、まだ暗い。
(……お兄ちゃん?)
 隣は兄の部屋だ。未夜子はベッドから降り、眠い目を擦りながらスリッパを履く。
 いつも一緒に寝ているお気に入りの人形を胸に抱き、部屋を出た。途中、壁に掛けている時計を見上げた。長い針が六、短い針が二の位置にある。まだ未夜子は小学校に入ったばかりだったので、時計はまだちゃんと読めない。
 部屋の扉を開けると、暗い廊下を誰かが歩いているのが見えた。向こうはまだこちらに気づいていない。
 人影は、肩に大きな荷物を背負っており、一階に続く階段に降りていった。慌てて未夜子もその後に続く。
 階段を降りると、すぐ目の前に玄関がある。人影はそこでしゃがんで靴を履いており、どこかに出かけるようだった。
(お兄ちゃん、何やってるの?)
 未夜子がその人影に声を掛けると、人影はビクリと体を震わせ、ゆっくりと後ろを向いた。
(……未夜子……)
 兄、終夜だった。未夜子とは八つも年上で、今は中学三年生なのだが、いつも未夜子の側にいて、未夜子を守っていてくれた。未夜子は、兄が大好きだった。
 だが、今日はどうも兄の様子がおかしい。
(どうしたの? お兄ちゃん。どこかにおでかけ?)
 未夜子は持っていた人形を投げ出して兄に駆け寄った。小さな手を兄の大きな背にぐっと回す。嫌な予感がしたからだ。
すると、終夜は悲しそうな笑みを浮かべて未夜子の頭に手を置いてやる。未夜子は顔を上げる。
(ちょっと出かけてくるだけだよ。すぐに帰ってくるから。ね?)
(本当に?)
(僕が嘘を吐いたことあるかい?)
 終夜はそっと未夜子の手を払い、立ちあがる。未夜子はうんと顔を上げて兄の顔を見つめた。
 そこにあるのは、いつも優しく自分を包んでくれている兄の笑顔。未夜子は思わず涙目になってしまう。
(泣かないで、未夜子……。未夜子は、僕の味方でいてくれるんだろ?)
 未夜子は大きく頷いた。
そうだ、いつでも兄が間違えたことをしたことはなかった。未夜子にはそれがわかっていたのだ。
ぐずり出した妹の頭をもう一度撫で、終夜は荷を背負いなおす。
(終夜にいちゃあん……)
 それでも未夜子は去ろうとする兄の袖を掴んだ。終夜は困ったような顔をし、そのまま優しく未夜子の手を払った。
 未夜子に背を向け、扉を開ける。
 未夜子が声をあげて泣き出すのと、扉が閉まるのはほぼ同時だった。
(未夜子……仕方がなかったのよ……)
 泣いている未夜子の隣に、沙羅が姿を現す。その、幼い未夜子には大きすぎる沙羅の柄は、それでも未夜子の手の中にすっぽりと納まっている。未夜子は沙羅を抱きながら泣いた。
 こうなることは、何となく予想していた。
 最近、兄と両親は幾度となく喧嘩を繰り返してきていたから。
 一月ほど前からだったと思う。未夜子が眠りにつく九時を過ぎた頃、毎日のように兄と両親は居間で言い争いをしていた。未夜子には気づかれていないと思っていたようだが、あんな大きな声で騒がれたら眠れるものも眠ることができない。未夜子は毎夜階下に降りてきて、父と兄の喧騒を聞いていた。
 話の内容は、まだ幼い未夜子には全くわからないものだったが、未夜子には両親が兄を虐めているようにしか見えなかった。
 だから、いつも未夜子は兄の味方でいた。父と母は兄の言うことを頭ごなしから否定し、兄の言うことを聞こうともしていなかったから。
昔から、兄の言うことに間違いなどなかったのに。
(お兄ちゃんをいじめるお父さんとお母さんはきらい。未夜子はお兄ちゃんのみかただからね)
 居間から出てきた兄に、未夜子は決まって抱きついていた。力強く抱きしめ、自分だけは兄の味方でいようと心に決めていたのだ。
(未夜子だけだよ、僕の言うことをわかってくれるのは……)
 少しやつれた顔で自分に笑いかけてくれる兄の顔を見て、未夜子は一瞬だけ自分の両親が嫌いになったりもした。
 そんな日が続き、兄はついに家を出ていった。
 未夜子は両親を責めた。どうして追い出したのだと、毎日泣きつづけた。
 両親の困る顔を見て、早く兄を連れ戻してきて、と懇願した。兄の帰りを、一日も早く待っていた。
 でも、兄は帰ってこなかった。父も母も、心配はしているものの、兄を探そうとは決してしなかった。
 その時から、未夜子は何かと両親に反発をするようになった。兄が戻ってくるまで、決して二人を許さないと決めていたから。
 ……その時の未夜子は、知らなかったのだ。
 兄と両親が、どうして言い争いをしていたのかを。
 後ほど、未夜子は死ぬほど後悔することになる。
 当時の自分の幼さを。自分の考えの、浅はかさを。

 未夜子と終夜は、これから一年後に再会することになる。
 両親の死体を、目の前にして。


 未夜子はシャワーを浴びながらずっと俯いていた。
 狭い家だが、シャワーは備え付けられている。すっかり雨で体を冷やしてしまった未夜子は、とりあえず体を温めるように良太に促された。
 でも、いくらシャワーを浴びても体は温まらなかった。体の芯からくる恐怖が、休むことなく未夜子の心を冷やしてくる。
 未夜子は両腕を交差させ、ぎゅっと体を抱きしめる。
 兄の笑顔が、頭から離れない。
 何年振りかに会った、兄の笑顔。
 それは昔から少しも変わっていなかった。
 昔から変わらぬ、兄の笑顔だった。
 それが、とても恐ろしくて……
 キュッ。
 シャワーの蛇口をひねる。
 全ては、自分のせいなのだ。
 兄がああなってしまったのも、良太が命を狙われているのも。
 未夜子は唇を噛み締めた。
 全て、決着をつけなきゃいけない。
 自分で蒔いた種は、自分で摘まねばならないのだから……


「考えないことはなかったの。もしかしたら終夜の仕業なんじゃないかって」
 未夜子がシャワーを浴びている間、良太は頭からバスタオルを被ったまま、沙羅と話をしていた。いつも淡い光を放っている沙羅だが、なんだか今はその光に覇気が感じられない。
「終夜は、一〇年前に蒼木家を出ていった。終夜も、死神の家業についていてね。……あ、未夜子の両親は二人共死神だったの。それで結婚したんだけど」
 良太は語る沙羅の柄を軽く握っている。
「どうしてなのかはわからない。ただ、出ていく以前からよく両親と言い争いはしていたから、何となくそのことは予想していた。……本当なら、その時に私も止めるべきだったのよ……。でも、終夜が双樹を持っていったなんてあの時は考えもしなくて……」
「双樹?」
 良太は何となくわかっていたが問いかけた。全てを、理解したいから。
「終夜の持っていた鎌の名前よ。……私の兄弟みたいなものね。
 私は未夜子の父親が持っていた鎌なんだけど、双樹は母親の持っていた鎌なの。二人の家はそれぞれ方針が違っていて、蒼木家は死神と鎌は友達同士……今の私と未夜子みたいな感じで接しているんだけど、久保――未夜子の母親の旧姓ね。久保家では死神と鎌は主従関係を結んでいたの。だから、双樹は終夜の行動には絶対服従なの。
 たとえそれが、死神として間違った行為であっても。……でも、終夜が双樹を連れていったとわかっていたら死んでも止めたのに……!」
「沙羅……」
 良太は何と声を掛ければいいのかわからなかった。
「ごめんなさい、良太クン。……私の不注意だった。あの時、私が終夜を止めていたら……!」
「や、やめてよ沙羅!」
 謝りだす沙羅に、良太は慌てて両手を顔の前で振った。
「過ぎたことをどうこう言うのは仕方がないよ。それに、その時、沙羅はそれが一番いい選択だと思ったんだろ?」
 どうにか沙羅を宥めようとする。だが、気の利いた言葉が一つも思い浮かばない。
 その代わりに、どんどんと昔の記憶が鮮明になってくる。
 あの、血に塗れた赤い記憶が。
「沙羅は悪くないよ」
 その時、浴室の扉が開いた。
 白いパジャマに身を包んだ未夜子が姿を出す。
「秋津も……シャワー浴びなよ。風邪引いたら困るだろ?」
真新しいバスタオルを手渡され、良太は少しだけ戸惑ってしまう。
仮にも女の子の家だと言うのに、こういう時はどう対応をすればいいのだろうか。
「? 入らないのか?」
「あ、いや。入るよ」
「新しいパジャマは置いてるから」
「ありがとう」
 手を振る未夜子に見送られ、良太は浴室へと移動した。まだ少し心臓がドキドキしている。
 脱衣所に置かれていた青いパジャマを見て、少しだけ小首を傾げさせた。
 どう見ても、男物のパジャマだった。今思えが、自分が今着ているパジャマも男物ではないか?
 しかし、その思考はすぐに中断させた。
 決まっているじゃないか。これが誰のパジャマなのかは。
 どう反応すればよいのかわからず、良太は少しだけ唇を苦痛に歪ませ、浴室に入った。


「まさか終夜が出てくるなんてね……しかも良太クンを……」
「もっと早く気づくべきだったんだよ」
 未夜子は頭を拭きながら学校鞄の中を漁る。一冊の赤いファイルを取りだし、それを床に広げた。
 途端に、スクラップされた新聞記事がばらっと広がる。未夜子はそこから一枚の記事を取り出した。
「『一家四人謎の死傷』か……」
 それは、見出しにそう書かれている新聞。一面記事だったらしく、大きく鮮やかな文字で書かれていた。未夜子は記事全文を目で追う。
「殺されたのは家主の宮島良明と、妻の加奈、長女の美奈。……三人は外傷もないのに全身から血を抜かれて死亡していた。この日、宮島家には夥しいほどの血が家中に撒き散らされていたらしいね。
唯一生き残った長男の良太は重体。この子がその後どうなったのかは報道されることはなかったし、姓が違うから気がつかなかったよ……」
 ふうっと溜息を吐く。
「生きている人間の魂を無理やり抜けば、『死月の烙印』から全身の血が抜けてしまう……でも、普通の人間には烙印は見えないから変死体にしか見えない……」
「終夜が蒼木を出てから、初めて起こした事件ね……」
「まさかこの事件の生き残りと出会うことになるとはね……。ねぇ沙羅、運命って本当にあるのかな?」
 冗談めいて言う未夜子に、沙羅は溜息を吐く。
「そんなのわからないわよ。それより問題はこれからよ」
 未夜子は記事を元のファイルに戻す。そのファイルには、その事件を始めとし、いろいろな変死体発見の記事がスクラップされている。
 それは、恐らく全てが終夜と関わりのある事件。
「どうして今になって秋津を襲いに来たのか……だろ?」
 未夜子が言うと、沙羅は頷いた。
「明らかに終夜は良太クンを狙っている。……殺そうとしているのよ」
 最後の方の声は小さくなってしまっていた。だが、未夜子はちゃんと聞き取り、大きく頷いた。
「わかってる。……秋津は、私が守る」
「終夜と対峙することになっても?」
「…………」
 しばし、沈黙が流れた。未夜子は眉根を寄せ、右手で顔を覆う。
「わかってるよ……! 私は、お兄ちゃんと……!」
 嗚咽混じりの未夜子の声を聞き、沙羅は溜息を吐いた。
「未夜子の気持ちはわかる。でも、終夜は臆することなくあなたと戦えるわ。実の妹であるあなたにも、平気で鎌を向けてくることができるのよ!」
 叱咤する沙羅に、未夜子はいつになく弱気になってしまっていた。
 だって、どれだけ罪を犯してしまったとしても、そこにいるのは自分の兄なのだ。
 大好きな、お兄ちゃんなのだ。
「未夜子! あなた忘れたの!? 両親がどうして死んだのかを!」
「!」
 沙羅の言葉に未夜子は我に返った。
「……認めたくないのはわかる。争いたくない気持ちもわかる。……私だって、できれば双樹とは戦いたくない。……でも、そうはいかないのよ! たくさんの人が傷つけられている! 現に良太クンだって……! 私達が止めなきゃいけないの。終わらせなきゃいけないの。わかってるの? 未夜子!」
 沙羅の言葉を聞きながら、未夜子は兄と再会した日のことを思い出していた。
 家中を塗りたくっている夥しい量の血の中で、二人は再会した。
 未夜子が小学校から帰ってきた時だった。つんと鼻を突く異臭、全身を駆けぬける恐怖。未夜子は居間に向かって走り出していた。
 居間の扉を開けた瞬間、足が小刻みに震えた。知らず知らずのうちに、小さな手に沙羅が握られていた。
 そこには、兄がいた。
黒いシャツ、黒いズボンを着、一年前のあの時と全く変わらない笑顔で、終夜は未夜子を待ってくれていた。
 未夜子の足元には、父親の死体があった。
 兄は未夜子の目の前で母親の細い首を片手で握り締めている。
もう片方の手には双樹が握られており、今双樹は母の背に深々と突き刺さっている。
(やぁ、未夜子……)
 母の背から双樹をぐっと抜くと、次の瞬間にその背から真っ赤な鮮血がバッと吹き出し、部屋に赤い花が咲いた。
 終夜が、母の死体を未夜子の足元に投げる。
 背を向けて倒れた母の背には、三日月型の血の跡がくっきりと残されていた。
 それが何を意味するのか、当時の未夜子は知らなかった。
 終夜の手には、水から上げられた魚のようにびちびちと跳ねる白い靄が握られている。それが母の体から抜けでた魂だということを未夜子はわかっていた。
(どうしたんだい未夜子? そんな物を握り締めて)
 沙羅を握った未夜子を見下ろし、終夜は手に持っていた母親の魂を口元に持ってゆく。
それを唇に触れさせた瞬間、魂は吸い込まれるように終夜の口の中に消えていった。
ごくん、と何かが喉を通る音が聞こえる。
未夜子は全身に悪寒が走った。
終夜がこちらを向いて、にこりと笑っている。大好きな兄の、あの笑み。しかし、今はその笑みがとても恐ろしく感じる。
 幼い未夜子にも、もう全てがわかっていた。
 今、目の前にいる男が何者なのかを。
一体、何をしたのかを。
 自然と、沙羅を握り締める力が強まる。
 まだ未夜子の手には大きすぎる沙羅を、まるで重さを感じないかのように軽々と持ち上げる。終夜は眉を歪めた。
(……やっぱり、未夜子もわかってくれないんだね……)
 ふっと寂しそうな顔をし、そのまま俯いてしまう。そのあまりにも悲しそうな兄の顔に、未夜子は沙羅を持つ手を緩めてしまった。
 ……そう、今思えばあれが一番の間違いだった。
 あの時、沙羅を振り下ろしていれば全てが終わっていたのに……
 愛する者に拒まれた瞬間、終夜は未夜子の前から姿を消した。
 その日から未夜子は兄を探しつづけた。両親の葬式が済み、父方の叔父に引き取られた後も、ずっと探しつづけていた。
 だけど、再会から一ヶ月後、兄は意外な形で未夜子の前に現れることになる。
『一家四人謎の死傷』
 そう、大きく書かれた新聞記事。その時のことを、今でも昨日のことのように思い出される。
 自分の目を疑った。その記事に書かれていた人の死因。それは自分の両親の死因と余りにも酷似していたから。
 自分の兄がやったことだと疑う余地はなかった。自分が兄を促してしまったから、この悲劇は起こってしまったのだ。
 息子が一人、瀕死の重体だと書かれていた。だが、もう長くはないだろう。死神の鎌に斬られて生きた人間などこの世にはいないのだから。
 あの日、未夜子は心に決めた。
 どんなことがあっても、兄を止めてみせると。
「……未夜子?」
 沙羅に呼ばれ、未夜子は我に返った。無意識のうちに、握り締めた拳で床を叩いてしまっていたらしい。
「どうしたの?」
「ご、ごめん。何でもない。ちょっと考え事……」
 顔にかかる髪をかきあげ、未夜子は笑顔を見せる。その顔を見て、沙羅は少しだけ安心したように笑みを漏らした。
 ……でも、まさか死神の鎌で斬られた人間が生きることができるなんてね……
 未夜子は当時の考えの浅はかさにもどかしさを感じる。生きているとわかっていたなら、あの時に必ず助けに行ったのに。
 それは兄も同じ考えなのだったろう。瀕死の重体と知ったが、まさか生き延びるとは思わなかった。だから、放っておいた。
 兄がどうやって良太の生存を知ったのかはわからない。だが、これだけは言える。
 今の兄は良太を殺すことしか考えていない。
 あの後も何件か、未夜子は同じような記事を見ることになる。
 全員が全員、外傷はないのに全身から血が抜かれているという変死体。死神の姿は普通の人間には見えないので、兄が捕まるわけがない。事件は全て迷宮入りとなってしまっている。
 未夜子はその記事を見るたびに歯痒い気分に襲われていた。何もできない自分が、とてももどかしく感じられた。
 叔父の家を出たのは中学を卒業してからだ。
 叔父は、死神ではなかったが家業のことはきちんと理解している人間だったので、家を出たいと言っても何も言い返すことはなかった。いいと言ったのに、今でも最低額の生活費を支払ってくれている。
 死神のことを知らない叔母は自分が出て行くことには反対だったが、時々遊びに行くという約束で泣く泣く承諾をしてくれた。
 そんな二人に応えるためにも、未夜子は自分のすべきことをしなければならない。
 未夜子は唇を噛み締めた。
 全ては、もう始まっているのだ。

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