第3回

 未夜子の身長ほどある長い木の柄、それにも弧を描く長い刃にも、装飾の類は一切施されておらずとてもシンプルな作りであった。
しかし、柄は今まさに木の幹から切り取ったばかりとも思われる瑞々しく艶を保っており、刃金も新品の包丁のように美しく輝いていた。
だが、良太は知っていた。この少女は、この鎌で少なくとも一人の人間を斬っていることを。そして、先ほどの事故現場でも同じようなことをしたということを。
その鎌を良太はまじまじと眺めている。今、鎌は良太の手の中にある。未夜子がよこしてくれたのだ。
 震える手で危なっかしく柄を握り、刃を下にする。握った瞬間、なぜか身体が熱くなった。その刃を軽く指で弾いてみる。爪が当たるとかちん、と硬質の音が部屋に響く。
「やめてよ、くすぐったい」
 良太が刃に触れた途端、笑い声を漏らしながら沙羅が呟いた。その甘ったるい声に、良太は少しだけ手に汗を滲ませる。
「ご、ごめん」
 だが、すぐに落ち着きを取り戻してそう返す。沙羅がくすりと笑った。
「良太クン、緊張するのはわかるけどもう少ししっかり握ってほしいな、軽く握られるとなんだかむず痒くて」
クン付けされても、不思議と違和感はなかった。沙羅のおっとりとした口調。この喋り方は、どこか自分の母親のような印象を感じさせた。
 沙羅に言われ、良太は慌てて柄をしっかりと握りなおした。
「どう? 慣れた?」
「す、少しだけ……」
 未夜子はそんな良太を面白そうに眺めながら二杯目のコーヒーをすすっている。良太は口元をわずかに吊り上げさせながらそう答えた。だが、明らかに不審がっているその表情に未夜子は溜息を吐いた。
「仕掛けなんかないからね」
 そう言われ、良太はドキリとした。どこかにスピーカーがついていないか探しているのがバレたのだろうか。
「それって私の家に代々伝わってるものなんだ」
 言いながらもう一口コーヒーを飲む。
「一体それが何なのか、どうして喋るのか、それは私にもわからないし沙羅自身もよくわかっていない。ただ、これだけは言える」
 未夜子は真剣な眼差しで沙羅を見据える。それでも沙羅はフフ、と笑ってみせた。
「私はこの沙羅を持つことで死神になれる」
 はっきりとした、その口調。良太は未夜子に出会った夜のことを思い出した。
 神妙な面持ちで男を見下ろし、そして未夜子は鎌を振り下ろした。あの夜のことは夢ではなかったのだと今更ながら思い知らされる。
「あんたも見ただろ?」
 そんな良太の心を見透かしたかのように未夜子が聞いてくる。
「沙羅は人と魂を切り離すことができるんだ。……まぁ、あんたにはあの人の首を切ったようにしか見えなかったかもしれないけど」
「う、うん……」
 良太は未だ沙羅を舐めるように見回している。
「でも、それが問題なのよねぇ」
 主婦が井戸端会議でも始めるかのように沙羅が声を出す。未夜子とは対照的な、女らしく非常におっとりとした声。
「そうなんだよな……」
 沙羅に言われて未夜子も口に手を当ててうんうんと唸り出す。ただ一人、何のことかさっぱりわかっていない良太だけが目を丸くさせた。
「な、何? 何が問題なんだよ」
 未夜子と沙羅を交互に見つめる。すると未夜子が口を開いた。
「見えないはずなんだよ」
「え?」
 その声に、良太は間抜けな声を返す。沙羅が続けた。
「仕事中の私たちは、他の人間には姿が見えないようになっているのよ」
 何てことのないような沙羅の口調。しかしその言葉の重大さに良太はじっと沙羅を見つめて息を呑んだ。正面で未夜子が机の上にカップを置く。そして、自嘲じみた声で呟いた。
「今まで誰かに見られたことなんて一度もなかった。それなのに秋津、あんたには私たちの姿が見えている。……これはどういうことなんだろうねぇ」

 どちらかと言えば、霊感は強いほうなのかもしれない。
 今まで何度か霊と思わしき物を目にしたことはあるし、他の人には聞こえない声を耳にしたこともある。
 でも、それだけだった。
 それに、今までテレビや雑誌で何度も自分と同じような体験をしたという人を腐るほど見てきている。だから、自分だけが特別だなんて、感じたことはなかった。
 ……そう、今日までは……

「そ、そんなの俺、わかんねぇよ!」
 それは良太の正直な思いだった。どうして自分にだけ見えるのかなど、考えたこともなかったから。見えて当たり前。ずっとそう思って来た。
「ま、それがわかったらこっちも苦労しないよ。今日はただ、この事だけを言いに来たんだ」
 その時、壁に掛けている時計が時刻を告げる。
午後八時。空になったカップをテーブルに置き、未夜子は立ちあがる。
「沙羅、そろそろ帰るよ」
「そうね」
 沙羅が返答すると、良太の手にあった鎌がパッと消えてなくなってしまう。その魔法のようなものに良太は目を白黒させた。
「それじゃ、本当にごめんね。突然押しかけて」
「気にしてないから構わないよ」
「あ、それとこれだけ言っておくね。
本来は、死神は生きた人間には無害なんだ。事故などで死んでしまって、この世に未練が残った人間だけを対象に仕事をしている。未練があると、魂が体から抜けようとしないんだよ。そのままにしておくと、魂まで消滅しちゃって、二度と転生することができなくなってしまう。それを防ぐために私達『死神』が存在するんだ。死んでしまった体から無理にでも魂を引き剥がして極楽に送ってやるんだ」
「そうそう、私達は正義の味方なのよね」
 どこからともなく沙羅の声が聞こえ、付け加える。未夜子は苦笑した。
「正義の味方、ねぇ……ま、そう言えば聞こえはいいけど」
 そんな未夜子の顔を見て、良太は頬が火照ってくるのを感じた。なぜだか、妙にドキドキしてしまう。
「そうそう良太クン。わかっていると思うけど、このことは他言無用でお願いするわよ」
「誰にも言わないよ。……って言うか、言っても誰も信じてくれないよ」
 本当はまだ良太の頭も混乱したままだった。この世に死神だなんてものが存在するなど、今まで考えたこともなかったから。
 でも、昨日や今日の出来事。先ほどの喋る鎌を見せられては、信じないわけにはいかない。
「ま、そりゃそうだね。信じる方がどうかしてるよ」
 声を出して笑う未夜子を見て、良太も釣られて笑ってしまう。
 不思議な感覚だった。未夜子の笑顔を見ていると、なぜか落ち着くことができる。穢れを知らないような、無垢な笑み。それは、天使の微笑み。
(……あれ?)
 良太は笑うのをやめ、少しだけ俯く。
 ……穢れを知らない、天使の笑み……?
 さっき、そんな笑みをした人間を見なかったか……?
「どうしたの?」
 突然黙り込んだ良太を見て、未夜子が声を掛ける。そこで良太は我に返った。
「あ、いや、何でもない」
 右手を顔の前で振り、笑みを浮かべる。
 だが、先ほどから頭の中であの未夜子の笑みと誰かの笑みがぼんやりと重なっている。だがそれは、ピントの合っていない写真のようにぼやけており、ぴったりと重なることはない。
 未夜子が帰り、部屋で一人きりになった後も、そのもやもやとした映像は頭の中から離れることはない。
 どうしても思い出さなければいけない。でも、どうしても思い出すことができない。
 あの笑みは、一体どこで見たものなのか? 一体、誰の笑みだったのか……?


 色とりどりのネオンが暗い闇を照らし出している。夜も明るい街並み。星はおろか、月すらも見ることができなかった。
 すでに雨は止んでいた。未夜子は水溜まりを避けながら家路に着く。未夜子の家は良太の家から歩いて三〇分はかかる。まったくの逆方向なのだ。
「ねぇ、未夜子……」
 途中で沙羅が声を掛けてくる。駅前だったので通行人がたくさんいたが、沙羅の声が誰かに聞こえることはない。
 沙羅は途中のファーストフード店で買ったハンバーガーを齧る。
「なに?」
 問いかける未夜子の声も、周りの雑音に掻き消される。だが、沙羅には未夜子の声がハッキリと聞こえていた。
「言わなくてよかったの? 良太クンに」
「…………」
 もぐもぐと口を動かし、ハンバーガーを一心に食べる。別にお腹が空いているわけではない。沙羅の言葉を聞きたくなかっただけだ。
「未夜子!」
「わかってるよ!」
 苛立った沙羅の声に、未夜子は思わず叫んでしまう。これには周りの人達も反応して、皆が驚いて未夜子の方を見た。だが当の未夜子はそんなことを微塵も気にした様子も無く、歩みを止めることなく、ただハンバーガーに齧りついていた。
「わかってるから……!」
 自分に言い聞かせるように、小さく呟く。ハンバーガーの包み紙をくしゃくしゃと丸め、側にあったゴミ箱に放り込む。沙羅は溜息を吐いた。
「黙ってることが優しさじゃないからね、未夜子……終夜だって……」
 言いかけ、口を噤む。未夜子は無言のまま口の中に残ったハンバーガーを飲み込む。
「ごめん……禁句だったね」
その言葉を最後に、もう沙羅も何も言わなくなった。
夜も眠ることのない街。どこまでも続く光の波。
 ネオンの光と喧騒に包まれる中、未夜子は自分だけ違う世界にいるような感じを覚えた。
 何だかやるせない思いを感じ、未夜子は知らず知らずの内に走り出していた。



 第二章 * 死月の烙印

「おはよう、良ちゃん」
 いつもと変わらない日常風景。良太はまだ眠い目を擦りながらリビングに現れた。
「そう言えば良ちゃん」
 母・昌子がそう切り出してきたのは、朝食をテーブルに運び終えた時。良太が鮭の切り身を口に運んだ時だった。相変わらず、父の姿はない。
「昨日、誰か来たの? キッチンにマグカップが二つ置かれてたけど」
 何気無く言われた母の言葉に良太はむせてしまう。
「ヤダ良ちゃん! 何してるのよ」
 昌子は驚いた顔を浮かべて麦茶を息子に差し出してやる。良太は麦茶を一気に飲み干す。
「ちょ、ちょっと学校の友達が来てて……」
「それならそう言えばいいじゃない。別にそんなに驚かなくても……」
 昌子は怪訝な顔を浮かべたが、あ、と呟いて次の瞬間にニコリと笑った。
「女の子?」
「…………」
 女の勘というものだろうか。良太は返事をせずにもう一杯麦茶を入れてそれも一気に飲み干した。心なしか、頬が熱く感じる。
「そうなのね……良ちゃんも、もうそんな年になったのね……」
 頬に手を当てて目を瞑り、うんうんと頷いている母を一瞥し、良太はご飯を口に掻き込んだ。
「ごちそうさまっ!」
 まだ感動の余韻に浸っている母を放っておき、良太は自分の部屋に戻った。
 やっぱり、嘘吐くのは苦手だ……
 そんなことを再認識しながら、良太は玄関に立つ。
「良ちゃん、またお弁当忘れてるわよ」
 昌子がお弁当片手にスリッパをぱたぱた鳴らしながら走ってくる。
 弁当箱を受け取った良太は、靴を履いて外に出ようとする。その時、
「あ、そうだ良ちゃん」
 良太を呼びとめた。良太は首だけを母のほうに向ける。昌子は心配そうな表情を浮かべていた。
「最近、体の調子がいいみたいだけど余り無茶しちゃ駄目よ。良ちゃんは元々体が弱いんだからね」
「うん、わかってるって」
 良太は微笑んでリュックを背負う。
「じゃあ、行ってきます」
 元気に声を出し、扉をくぐった。
 母は、いつも自分のことを心配してくれている。母の愛情をその身に感じながら、良太は足を急がせた。
 どうやら夜の間に雨が降ったらしく、アスファルトは水に濡れていた。周りの木々の葉も露で濡れていた。
 陽光を弾くその露を眺めながら良太はうんと背伸びをする。まだ人通りの少ない路地には今は良太しかいない。良太は昨日とは打って変わって清々しい気分に包まれている。今は、今日は未夜子に何て話しかけようかということばかり考えている。
 とりあえず、また屋上に上ろう。授業をサボることになっても構わない、もっと未夜子と話して、色んなことを知りたい。死神ということも、それ以外のことも。
 今まで感じたことのない感情を感じながら、良太は空を見上げた。
 今日は、雨は降らないだろう。
 そんな予感を感じながら――

「あの子じゃないのですか?」
「そうだね、あの子だね」
「どうするのですか? これから」
「どうしようか? これから」
「それはあなたが決めることでしょう?」
「一緒に考えてくれないのかい?」
「えぇ、あなたの運命ですから」
「……相変わらず冷たいね、君は」
 二人の男の声が青い空に響き渡る。
 露に濡れる木の枝に座り込み、じっと下を見下ろしている。
 その木は高く、真っ直ぐに天に向かって太い枝を広げ、茂る葉を揺らしていた。幹はつるつるとした表皮に包まれており、決して人が登ることができないようになっていた。
 なのに、今、男が一人、この木のてっぺんから眼下を見下ろしている。短い黒髪に黒いシャツ、黒いズボンと全身黒で統一されている、二〇代前半ほどの男。おっとりとした印象を感じさせる、そんな男だった。
男の視線の先には、空に向かって伸びをしている一人の少年がいる。秋津良太だ。
男は枝に座って幹にもたれかかっている姿勢でじっと良太を見つめていた。まさかこんな高い木の上から見つめられているとは露ほども思わないであろう、良太は男に気づいた様子も無く再び学校に向かって歩き出した。
「よいのですか? 追わなくて」
 男とは違う声が聞こえてくる。少し高い、少年のような声。男はクスリと笑った。
「急ぐ必要はないよ、どうせ彼は逃げられないんだから……」
 穢れを知らないような、無垢な笑み。年相応に見えないその微笑みに慣れているのか、少年の声は冷たく返す。
「そんなこと言って、いざというときに逃げられても知りませんよ」
「大丈夫だよ、絶対に彼は逃げられない」
 男は軽く肩を揺らしながら笑う。風が吹き、枝が揺れる。露が飛んできて、男の頬を濡らした。男は顔にかかった露を指で拭って、舌で舐め取る。
「逃げられないよ、僕からは」
 良太が角を曲がり、男の視界から姿を消す。次の瞬間、男の姿も木の上から消えていた。



「はぁ〜……」
 良太はほうきを杖にしてもたれかかりながら窓から空を見上げていた。
 今日は良太の予想通り、雨は降らないでいてくれた。それなのに、良太の心の中にはいつも以上に分厚い雲が眥っており、止むことのない雨を降らせていた。
 未夜子が学校に来ていないのだ。
 授業が終わるたびに隣のクラスを覗いていたのだが、未夜子の席に誰かが座っていることはなかった。屋上にも上ってみたが、人の気配は感じられない。後で西川から聞いたのだが、今日は、未夜子は欠席とのことだった。
(死神の仕事でも入ったのかな……)
 脱力しながらも、良太は掃除を開始する。
「リョータ、今日は元気ないね。どうしたの? 朝はあんなに元気だったじゃない」
 ちりとりを持った直美が、隣のクラスから駆けつけた西川に耳打ちをする。西川は目元を拭う仕草をしてみせる。
「今日は蒼木が休みなんだよ〜。それを言った途端にあんな調子さ」
「あ〜……ナルホド」
 呟きながら直美は胸の前で手を叩く。
「昔は恋愛のレの字も知らない子供だったのにな〜」
「うん、人見知り激しくて。私が友達になってなかったらどうなってたんだろ?」
「一生一人でいたんじゃねぇの?」
「ま、今は蒼木さんがいるから大丈夫か。……でも、絶対尻に敷かれるタイプだよ、リョータは」
「ははっ! 言えてる!」
 良太はほうきを強く握り締めた。
「全部聞こえてるよ!」
 途端に、二人の会話がぴたっと止む。直美は視線を逸らして口笛を吹き始め、西川は自分の教室にそそくさと戻っていった。
「……ったく……」
 ぼやきながらも、良太の顔は真っ赤に染まっていた。窓から覗ける空も夕闇に染まり始めており、赤と青の微妙なコントラストを描いている。
 ほうきにもたれかかりながら、良太は何気無く空を見上げていた。その時、
「!」
 良太は目を見開いた。何か黒い影が、空を横切ったのだ。鳥ではない。もっと大きな、別の物。
(蒼木!?)
 良太は満面の笑みを浮かべた。ほうきを掃除箱にしまい、教室を飛び出す。後ろで誰かの叫ぶ声が聞こえたが、今の良太の耳にはその声は届いていなかった。
 迷うことなく階段を駆け上がり、屋上への扉を開く。体が弱いことなど忘れきっていた。そのくらい、未夜子に会いたいと思っていたのだ。
「蒼木!」
 扉を勢いよく開き、目の前の世界を切り開く。限りなく広がる空が目の前に広がり、次いで黒い影が目に入った。
 その影を見た途端、良太の表情が見る見るうちに萎んでゆく。
 そこにいたのは良太の待っていた人物ではなかった。
 短い黒髪に黒いシャツ、黒いズボンと全身黒ずくめの男。見たことのない男だ、ここの学校の教師ではない。
 だからと言って、誰かの父兄とも思えなかった。今日は何も行事はないし、それより父兄が屋上に上ってくるなど考えられなかったから。
「す、すいません。人違いでした」
 今更ながら良太は頬を赤く染める。膨らんだ風船が一気に破裂したような萎み様だ。
 男は、優しげな笑みを良太に向けていた。
(……あれ?)
 良太はその笑顔を見て妙な違和感を覚える。
「あの、すみません……」
 迷いながらも声を掛けてみる。
「なんだい?」
 男は首を傾げながら尋ねてくる。
「以前どこかで……お会いしたことありませんか?」
「どうしてそう思うんだい?」
「あ、い、いえ。深い意味はないんです。ただ、何となくそう思って……」
 ばつが悪そうに良太は言葉を濁した。
「何となく……」
 男は良太の言葉を繰り返す。その口元には、先ほどとは違う笑みが浮かんでいた。
 全てを慈しむような微笑みから、獲物を狩る狩猟者の笑みへ。その瞳には、鋭い光が宿っていた。
「見つけたよ……」
 風に乗せて囁かれた言葉。良太は全身に悪寒が走るのを感じた。
「やっと、見つけたよ……」
 違う声がどこかから聞こえてくる。目の前の男とは違う、少年のような声。しかしその姿はどこにも見当たらない。
この頭の中に直接話しかけられるような感じに、良太は覚えがある。
「可哀想に、天国でご両親が泣いてるよ」
「親不孝者の息子だね、一人だけ生き残るなんてさ」
 良太の額に汗が浮かぶ。目の前の男と、どこからか聞こえてくる少年の声が頭の中で交錯する。
「早く行ってあげないと……」
「そうそう、早く行ってあげなよ……」
 良太の頭の中で、二人の声がぐるぐると駆け巡っている。全身を小刻みに震わせ、良太は頭を抱え込んでその場に座り込んでしまう。
怖い。本能的にそう思った。この二人は、まずい。
 逃げ出そうと思った。だが、足が竦んで動かなかった。
「大丈夫、今度はちゃんと送ってあげるから……」
 次の瞬間に起こった出来事を、良太は一生忘れることができないであろう。
 目の前の男がゆっくりと右手を前に出す。風が、男の体を取り巻くように吹きはじめた。
 荒く、でもどこか優しく。風が男を撫でるように吹き、男の右手に集中するように集まっていった。
 そして、それは現れた。
男の背丈ほどある長い木の柄、弧を描く長く美しい刃。
鎌だった。
それは、その男には余りにも不釣合いな輝きを放つ、銀の大鎌だったのだ。
「いくよ」
「はい」
 男と鎌が向き合う。二人は短い言葉を交わした後、ゆっくりと良太に向き直った。
「大丈夫、苦しみはないから」
 男の浮かべた、天使の笑み。その瞬間、良太は何かを思い出した。

 赤い、赤く広がる世界。
 その世界の真ん中で、あの少年は微笑んでいたのだ。
 ……そう、今と同じ笑みを……

 脳裏に思い浮かぶのは、遠い昔に封印してしまった記憶の断片。今はもう、思い出すことができなくて――

 男が一歩、歩み寄ってくる。
良太はまだ動けないでいた。
 もう一歩、こちらに歩み寄る。
良太はじっとその鎌を見つめていた。
 もう、男と良太の距離はほんのわずかしかない。
それでも良太はそこから動けないでいる。
 手を伸ばせば、届く距離。
 良太は虚ろな目で男を見上げた。

 最期まで、目は閉じないでいた。


「秋津!!」
 バン! と扉が開かれる音がし、それと同時に未夜子が扉から飛び出してきた。
「秋津! 大丈夫か!?」
 未夜子はすぐに屋上で倒れていた良太を発見する。体を起こし、頬を軽く叩く。
「ん……」
「大丈夫か! 秋津!」
 良太が目を開けると、そこには安堵の表情を浮かべる未夜子がいた。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
 頭に柔らかく気持ちのよい感触が伝わっていた。それが未夜子の膝の感触だと、今の良太にはわかる余裕はない。
「俺……どうしたんだ?」
 気がつくと、日は既に沈みかけていた。冷たい空気が良太の頬を撫でる。
「変な気を感じて……慌てて来たんだ。でもよかった、無事で……」
 胸を撫で下ろす未夜子を見て、良太は軽く目を閉じた。
 無事?
 胸中で、そう呟く。
 どうして無事なんだ?
 先ほどのことは、まだ鮮明に思い出される。
「しに……がみ……」
「? どうしたんだ?」
 か細い声で呟かれた良太の声を、未夜子は聞き取ることができなかった。慌てて聞き返すが、良太からの返答はない。心地よい寝息だけが聞こえてくる。
「寝ちゃったよ……」
「安心しちゃったんでしょ? いいじゃない。寝かせておきなさい」
 呆れたような未夜子に、沙羅が優しい声を掛ける。未夜子は自分の膝の上で眠っている良太の頬を撫でてやる。その安心したような寝顔に、少しだけ安堵感を覚えた。だが、すぐに未夜子の表情が引き締まった。
「でも、さっきの気は……」
「えぇ、私も感じたわ」
 冷たい風が吹きぬける。ポツリ、と頬に何かが当たる。
 空から雨が降ってきた。
「とりあえず校舎に入りましょう。濡れちゃうわ」
 沙羅が促す。未夜子は頷いて、良太を背負った。難なく背負うことができ、難なく立ちあがることができた。立ちあがった途端、未夜子は眉根を寄せる。

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