第2回
階段を降りる未夜子の拳は強く握られていた。歩調もいつもよりしっかりしている。
「未夜子、あの男の子……」
未夜子の耳元に、あの女の声が聞こえてくる。未夜子は唇を噛み締めた。女は構わず続ける。
「あんなに不安定な魂、見たことないわ。今にも体から抜け出してしまいそうじゃない。かわいそうだけど、あの子……」
「沙羅」
女――沙羅の言葉の続きを、未夜子の一言が制した。未夜子は歩みを止めることなく呟いた。
「わかってる、わかってるから……」
その言葉は、全てを決意した証。未夜子は拳を一層強く握り締めた。爪が手のひらに食い込み、皮膚を破る。
「わかってるから……」
踊り場に立つと、未夜子は片腕を上げる。次の瞬間、その手の中に光に包まれた大きな鎌が姿を現した。未夜子はその鎌を握り締める。
「今日はどこまで行くの?」
「五丁目。でもまだ時間があるわよ? 授業に出たら?」
「いいわよ、どうせつまらないんだし」
「またそんなこと言って……。出席日数が足りなくなっても知らないわよ」
沙羅の言葉が終わるのと同時に、未夜子は廊下を蹴った。
少女の体はふわりと浮き、そのまま学校の壁をするりと通り抜けてしまう。彼女の体は宙に浮いており、よく見ると体が半分透けていた。未夜子は辺りをぐるりと見回すと空を蹴って空を駆け出す。数秒もすると、もう影も形も見えなくなってしまっていた。
その時、三時間目の授業開始のチャイムが鳴る。
まだ、良太は屋上から動けないでいた。
全ての授業が終わり、学校は帰宅風景に彩られていた。
昼は晴れていた空も、日が傾きかけた頃から分厚い灰色の雲が覆い、授業が全て終る頃には大粒の雨が降り出していた。
今週の教室掃除の担当に当てられている良太は、ほうきを持ちながら窓から空を見上げた。
「最悪〜。私、今日は傘持ってきてないのに」
気が付くと、良太の隣に同じクラスの峰藤直美が立っていた。手にはちりとりを持っている。
ショートカットと明るい笑顔が印象的な彼女だが、今だけはその顔は不快そうに歪められていた。が、すぐにパッと明るい笑顔を見せてくれる。
「でも雨が降ると水不足の心配がなくなるからいいよね〜」
白い歯をちらりと見せ、声を出して笑う。嫌なことでもこういう風にプラス思考で考えることができるのが彼女の羨ましいところだ。
陸上部の次期部長候補でもある彼女は、クラスからの人望も厚い。二人は小学校四年の時に良太がこちらに引っ越してきてからの付き合いであり、大人しくて当時あまり友達のいなかった良太の唯一の友達でもあった。
「はいはい。さっさとゴミ入れて」
直美は床にちりとりを置いて良太のほうきを突付く。良太は慌てて集めたゴミをちりとりの中に入れる。
「はい、お掃除終了っと……あ、そうだリョータ」
ちりとりを持ち上げ、直美は思い出したかのように良太の方を向いた。
「なに?」
「リョータさ、傘持ってない?」
「持ってるけど?」
「ラッキー! それじゃあさ、私を入れて帰ってよ。私の家と同じ方面なのってリョータしかいないから他には頼めないんだ」
ちりとりのゴミをゴミ箱に入れ、直美は良太の手からほうきを取り、ちりとりと一緒に掃除箱の中にしまう。
「別に構わないけど……部活の方はいいの? 大会近いんじゃなかったっけ?」
「いいのいいの。雨降ってるし、部室でストレッチくらいしかできないよ。体育館が使えたら別なんだけど、他の部活が使ってるし。ストレッチくらいなら家でもできるし、たまには体を休めないとね」
そう言うや否や、直美はカバンを取って良太の腕を引っ張る。
「さ、早く帰ろう。見たいテレビがあるんだ〜」
「……それが目当て?」
思わず本音を言ってしまい、直美は慌てて口元を手で隠す。
「ま、いいじゃない! こんなかわいい女の子を雨の中ほっぽって帰るの〜? リョータはそんな薄情な男になっちゃったの〜?」
猫なで声を使って良太の腕に擦り寄ってくる直美を、半ば諦めた状態で良太は溜息を吐いた。
確かに、テレビがあろうとなかろうと、直美は良太に傘に入れてくれと頼んだだろう。
「今度ジュース奢るから! ね?」
「わかったわかった。早く帰ろう」
他の掃除班も帰り、ほとんど人が残っていない教室を出て、良太と直美は学校を出る。カバンの中から黒い折り畳み傘を取り出し、半分を直美の方に寄せる。
昨日の教訓として、梅雨の間は折り畳み傘を入れることにしておいたのが幸いした。今日は雨が降るという予報はなかったので、何人もの生徒が雨に濡れながら走っている横を、二人はゆっくりと歩いて通り過ぎた。
「なんか久しぶりだね、二人で帰るの」
学校の門をくぐったところで直美がそんなことを聞いてきた。
「そう言えば……そうだね」
良太は記憶をさぐりながら返答をする。
家が同じ方面にあることから、昔はよく一緒に帰宅していた。
ただ単に、良太には他に一緒に帰る友達がいなかったというだけなのだが、年月が経つにつれて良太にも他に友達ができ、男と女ということもあって、二人は次第に離れていったのだ。
それから直美とは偶然にも同じ高校に通ったのだが、もし二年生になって同じクラスになっていなかったら、もう二度と一緒に帰るなどということはなかったであろう。
それにしても、こうやって普通に男の子に向かって傘に入れて、と言えるあたり、やっぱり直美はすごいなぁ、と良太はつくづく思った。自分なんて、女の子に話しかけるだけで今でもドキドキするというのに。
「あ、そう言えば、今日の二時間目と三時間目、どうしたの?」
「え?」
「え? じゃないでしょ。一時間目はいたはずなのに二時間目と三時間目だけいなかったじゃない。それに、確か四時間目はまたいたよね?」
指折り数えている直美の隣で、良太は引きつった笑みを浮かべていた。
「た、ただのサボりだよ」
上擦った声でそう答える。直美が目を細めて唸りながら良太のほうに顔を寄せてくる。
「……相変わらず嘘吐くの下手だね、リョータ」
そう一言言うと、ふうっと溜息を吐いた。何も言えないでいる良太を見て、直美はククッと笑った。
「隠さなくてもいいんだよ。お姉さんは全部知ってるんだから」
意地悪な笑みを浮かべている直美の横顔を見て、良太は嫌な感じを覚える。何かを企んでいる時の笑みだ。
「蒼木さんでしょ?」
「!?」
直美の放った一言により、良太は目に見えるほどの動揺を見せる。雨に濡れたアスファルトに思わず足を取られそうになってしまい、慌てて直美の肩を掴んだ。
「きゃ! ……ちょっと! 危ないじゃない!」
何とか体勢を立て直した二人は、そのままその場に一時停止する。目の前の信号が赤だったのでちょうど良かったのかもしれない。
「な、なななななんでそこで蒼木が出てくるんだよ!」
良太は顔を真っ赤にする。そんな良太を直美は面白そうに眺めた。
「西川君に聞いたんだ〜」
ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべ、直美は手を後ろに回す。
(西川……!)
良太は心の中で拳を強く握り締め、その感情を表に出さないように苦しい笑みを浮かべた。
「だ、だから西川にも言ったんだけど、そんなんじゃないんだってば」
「そんなん。って何? 私何も聞いてないよ?」
直美は人差し指を唇に当てて小首を傾げる。してやったり。という表情の直美を見て、良太はもう何も言わないことを心に決めた。
目の前の信号が青に変わった。
色とりどりの傘を差した人たちがぞろぞろと歩き出す中、二人もそろって歩き出した。
「……あれ?」
しかし、横断歩道を渡りきった所で良太の足が止まる。
「どうしたの?」
直美も続けて足を止めた。
「あそこにいるの……蒼木じゃないか?」
良太は正面を指差す。一〇メートルほど離れたところに、通行人に揉まれながら傘も差さずに立ち尽くしている蒼木未夜子がいたのだ。
「え? どこに?」
直美は背伸びをしながら良太の指差す方向を見つめる。元々背の高いほうの直美は、少し背伸びをするだけで良太と同じくらいの背丈になる。だが、
「……どこに蒼木さんがいるのよ」
眉根を寄せながら良太の方を見る。良太はもう一度未夜子を指差した。
「ほら、あそこだよ、あそこで……」
そこまで言って良太は言葉を止めた。
未夜子が手に持っている物が目に入る。長い柄に付いた弧を描いた大きな刃物。それは、先日見た物と全く同じ物だった。
「蒼木っ!?」
思わず良太は叫んでしまう。その声に気付いたのか、何人かの通行人に混じり、未夜子は驚いたようにこちらを振り向いた。
じっと、良太を凝視する。
「あんた……何で……」
未夜子の唇がわななく。それが、雨による寒さのせいでないということは一目瞭然だった。未夜子は、何かに怯えていた。
「ちょ、ちょっとリョータどうしたのよ。どこに蒼木さんがいるのよ!」
何が起こったのかわからず、直美だけが良太の隣でわめいていた。
「ほら! そこにいるだろ!? 今こっちを向いてるじゃないか!」
「だからどこにいるのよ! 誰もいないじゃない!」
「え……」
心配したような表情でこちらを見つめる直美を見て、良太は上げていた手を下ろす。
その光景をじっと見ていた通行人達は、何事もなかったかのように再び各々の目的の場所に向かって歩き出した。
「無駄だよ」
背筋がゾクリとした。それほど、低く威厳のある声だった。良太は直美から視線を逸らして未夜子のいた方を向く。
笑っていた。
未夜子は、笑っていたのだ。
じっとこちらを見つめ、片手に鎌を握ったまま、唇に弧を描いていた。雨に濡れた髪とセーラー服だけが、彼女の存在を露にしている。
「あんたにしか見えないんだよ、今の私は」
先ほどと同じ低い声が響き渡る。直接頭の中に話しかけられているような、不思議な響き。良太は軽く頭を押さえた。
「ねぇ、リョータ。本当に大丈夫……?」
直美はまだ心配そうな顔で良太を見つめている。その直美の顔と、目の前の未夜子を交互に見比べ、良太は呼吸を荒げていった。
「リョータ、きっと疲れてるんだよ。元々体は弱いんだから無理しちゃ駄目だよ。さ、早く帰ろう」
そう言って、良太の手から傘を奪い取り、直美は良太の手を引きながら歩き出した。良太も、直美に引かれるがまま歩き出す。
ゆっくり歩き、だんだん未夜子との距離が縮まってゆく。あの不気味な笑みを浮かべている未夜子の顔を見ないように、良太はずっと下を向いていた。だが、未夜子の隣を通り過ぎる瞬間、
「ねぇ……アンタ、生きてるの?」
「!」
心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚える。良太は目眩がしてしまい、直美の肩にもたれかかった。
「リョータ!」
「ご、ごめん。大丈夫……」
何とか立ち上がり、良太は苦い笑みを直美に向けた。
「顔、真っ青だよ……今日は早く帰って寝なきゃ駄目だよ」
再び歩き出した二人の後ろで、未夜子はまだあの笑みを浮かべていた。
「ねぇ、未夜子」
「なぁに、沙羅」
少し高めの女の声が聞こえ、未夜子は雨に濡れた前髪を払いのけながら返事をする。
「そろそろよ」
「……わかってる」
突然、未夜子の目に光が宿った。他人を小馬鹿にしたような表情から、獲物を狩る狩猟者の瞳へ。その時、
ドォン!!
激しい衝突音が辺りに響き、良太と直美も思わず音のした方を向いてしまう。
「な、何? 何?」
好奇心旺盛な直美は辺りをきょろきょろと見回しながら甲高い声をあげる。
しばらくして、そう遠くない場所からもくもくと黒い煙が立ち上がってくる。
「か、火事!?」
わぁ、と声をあげる直美の隣で、良太は呆れ顔を浮かべる。
「火事なら衝突音がするわけないだろ。多分車の衝突事故じゃない……か……」
「そっかー、衝突事故か」
感心そうに頷く直美の隣で、良太はさっきまで未夜子が佇んでいた場所を眺めていた。
今はもう、そこには誰の姿も見えない。
やがて、パトカーや救急車のサイレンが響き渡り、その場は騒然となりだした。そのまま自分の目的地へと歩き出す者。野次馬根性が芽生え、事故現場へと走り出す者。
「ねぇ、リョータ。私たちも行かない!?」
「え!? じ、事故現場にか?」
「モチロン! だって交通事故なんて滅多に見れるもんじゃないし!」
そう滅多に見ることができても困るのだが。
良太は言いかけた言葉を飲み込み、目をきらきらと輝かせている直美に渋々頷く。もう、気分が悪かったのが全部吹き飛ばされてしまったような気がした。
「ここから先には入らないでくださいー!」
事故現場はすでに人だかりで溢れ返っていた。出遅れてしまった良太と直美には前が全然見えないが、辺りを覆う黒い煙と真っ赤な炎だけが嫌なくらい目に入った。
周りの人からの情報によると、どうやら乗用車二台の正面衝突だったらしい。一台が雨によってスリップしてしまい、反対車線に飛び出してしまったのだ。しかし、この煙や炎の状況から見て、乗っていた人間の存亡は絶望的ではないかと思われた。
警察官が叫び声をあげる中、消防車が到着して消火活動が始まる。車の中から救出された人たちが次々に担架で運ばれているのを良太はじっと見つめていた。そして、
「!」
良太は息を呑む。
担架の一つに、鎌を擡げたまま虚ろな瞳で空を見上げている未夜子が座っていたのだ。しかし、担架を運んでいる救急隊員が未夜子に気付いた様子は見えない。
(あんたにしか見えないんだよ、今の私は)
唐突に、先ほどの未夜子の笑みが思い出される。
「直美……俺やっぱり帰るわ」
「え? ちょ、ちょっとリョータ!」
「ごめん! 傘は明日返してくれたらいいから!」
「リョータ!?」
後ろで叫んでいる直美を無視し、良太は未夜子の乗った担架が乗せられた救急車に向かって走り出した。が、運悪く救急車は発車をはじめてしまい、良太は大量の排気ガスを浴びせられる羽目になってしまう。
「蒼木ぃ!」
両腕で顔を覆い、良太は救急車に向かって叫ぶ。
だが、後には静寂だけが残されていた。
「ふぅ……」
雨に濡れた体を風呂で暖め、良太はコーヒーを入れながらリビングのソファに座り込んだ。
人間の足が車に追い付くはずもなく、あの後諦めて家路についたのだ。
「傘を持っていった意味ないよなぁ……」
コーヒーを一口すすり、首に掛けていたタオルで頭を拭く。
今、家には良太しかいない。父は仕事だし、母は学生時代の友達に会うとかで遅くなると言っていた。そんなことを思い出しながら、良太はコーヒーをもう一口すする。
何もすることがないので、テレビをつけてみる。チャンネルを適当に変えてみるが、特に面白そうな番組は見当たらない。
良太は無言でテレビを消し、そのままソファに寝転んでしまう。疲労感からか、すぐに心地よい眠気が襲ってきた。
今日は疲れた……。
あまり体が強いほうではない良太にとって、今日は波乱の一日だったと言っても構わないかもしれない。
良太はそのまま、目を閉じた。
鼻を突くのは、血の臭い。
良太はゆっくりと目を開けた。
赤。
広がっているのは、一面の赤。
良太はきょろきょろと辺りを見回した。
後ろでパタン、と扉の閉じる音が聞こえる。
そこは玄関だった。何足かの靴が綺麗に並べられている。
が、そこはいつもの見慣れた玄関ではない。どうやら、他の家のようだ。
良太は靴を脱いだ。他人の家のはずなのに、不思議と抵抗感は感じられない。
フローリングの床に、何かべっとりと赤いものが染み付いている。それは、奥に見える扉まで何かを引きずった跡のように続いていた。
一歩足を入れると、ぬるっとした嫌な感触が足の裏を襲う。
良太は一瞬だけ足を引いてしまった。が、すぐに次の一歩足を踏み入れた。
(おかあさん?)
良太は声を出した。
だが、すぐに異変に気付く。いつもの自分の声と違う。もっと、高い声。
(おとうさん?)
同じ声が響く。あぁそうだ、これは自分の小さい時の声だ。
(おかあさーん。おとうさーん)
幼い良太の声がしんと静まった家に響く。相変わらず、目にはべっとりしたと赤い何かが映る。
良太は歩を進め、正面のドアに手をかける。ドアノブにも、赤い物が付いており、ドアノブを握った途端にぬるりとした感触が伝わる。
だが、良太はその感触を気にすることなくドアノブを回した。ぬるぬるとして回しにくかったが、何とか扉が開いた。
(おかあさん?)
恐る恐るドアを開けながら顔だけを出す。
そして、幼い良太は息を呑んだ。
そこは、赤の世界。
赤だけが広がる、無限への領域。
床も、壁も、家具もみんな、赤で染まっていたのだ。良太はほんの少しだけその光景に見とれてしまうが、鼻を突く異臭にすぐに我に返った。
(おや?)
男の声が聞こえた。良太は慌てて声のした方を向く。
(まだ人がいたのか……)
気が付くと、良太の隣に一人の男が立っていた。
一〇代半ばほどの、まだ少年と言ってもおかしくない幼さを残す容貌の男。真っ黒なシャツとズボンを穿いており、短い黒髪と漆黒の瞳が微笑み、小さく震えている良太を捕らえていた。
(お兄ちゃん、誰?)
良太は尋ねた。だが、目の前の少年は優しげな笑みを浮かべたまま、何も言おうとはしない。
その少年の笑みを見て、良太も何気無く微笑んでしまう。穢れを知らない、無垢な笑み。この人は天使なんだ。当時の良太には、そう見えた。
(大丈夫、怖くないよ)
優しく言いながら少年は良太の頭を撫でてくれる。だが、その手も真っ赤な何かが付着していたので良太の頭が赤く汚されてしまう。
(……すぐ、お父さんとお母さんのところに連れて行ってあげるからね……)
少年の言葉に、良太は顔を上げた。
天使の笑みを浮かべた少年が、手に持っていた何かを振り上げる。
それは、銀色に輝く光を持つ大きな鎌。
良太は、その鎌をじっと見つめていた。
少年が、微笑んだままゆっくりと鎌を振り下ろす。その瞬間まで、良太は目を開けていた。
次の瞬間、本当の闇が訪れた。
「!」
良太は目を開けた。ゆっくりと、上半身を起こす。
「…………」
無言のまま、右手を軽く閉じたり開いたりしてみる。
「夢……じゃないな」
袖で額を拭く。全身が汗でぐっしょり濡れていた。
せっかく風呂に入ったのにな……。そう思いながら、良太はすっかり冷めてしまったコーヒーの入ったマグカップを手にとり、キッチンに向かおうとする。だが、
ピンポーン
チャイムが鳴った。
「はい」
良太はカップをテーブルの上に置き、玄関に向かって駆け出す。
「どなたで……」
扉を開けた瞬間、良太の動きが止まる。
「こんにちは」
赤いリボンのセーラー服。頭で結った黒い髪。限りなく透き通った釣り目がちの黒い瞳。
蒼木未夜子が、そこに立っていた。
「悪いね、突然押しかけて」
「い、いや、それは別に構わないけど……」
部屋に招きいれた未夜子は、良太に促され、先ほどまで良太が寝ていたソファに座った。両足をぷらぷらさせる。
「コーヒーでいい?」
「あ、うん。何でもいいよ」
未夜子が頷いたのを確認し、良太はキッチンへと姿を消した。
一人になった未夜子は、立ちあがって物珍しそうに辺りを見回している。
ふと、テレビの横に置かれている本棚が目に入り、なんとなく寄ってガラス戸を開けてみる。
その中の、一番分厚いピンクの背表紙の本を取り出してみる。それはずっしりと重く、よく見るとアルバムだった。表紙を捲ってみる。
そこに挟まれていたのは、恐らく良太であろう七、八歳くらいの少年。母親らしき女性と父親らしき男性と一緒に写っている。
パラパラとアルバムを捲る。捲るにつれて、写真の中の良太は成長を遂げてゆく。そして、最後から三枚目のページを捲ると、そこには高校の制服を着た良太の写真が挟まれている。
最後の三枚は空白だった。これから撮った写真を挟むのであろう。
アルバムを閉じ、未夜子はふと妙な感覚に襲われた。
アルバムを手に持ったまま、もう一度本棚を探ってみる。参考書、写真集、料理本……いろいろな本が置かれているが、アルバムは他に見つからなかった。これ一冊だけなのだ。
「おまたせ」
そこで、新しいコーヒーを入れたカップを二つ持った良太が姿を現す。テーブルの上に置き、本棚の前に立っている未夜子を見る。
「どうしたの?」
未夜子が振り向く。その手に持っているアルバムを見て、良太が頬を染めた。
「み、見ないでよ勝手に!」
「あ、ごめん」
やはりアルバムというものは他人……特に異性に見られるのは恥ずかしいものなのだろう。未夜子にはその気持ちがよくわからなかったが、とりあえず謝っておく。アルバムを元の場所に戻し、ソファに戻る。
「ねぇ」
テーブルに置かれているカップの一つを手に持ちながら、良太を見上げた。
「なに?」
良太も未夜子の向かいに座った。
「他にアルバムはないの?」
未夜子は本棚を指差す。良太は再び頬を染めた。
「な、ないよ。あれ一冊だけ。……って言うか、勝手に漁らないでね?」
「あぁ、もう漁らないよ。……で、ちょっと気になったんだけど」
コーヒーをすすり、はあっと大きく息を吐く。良太も無言のままコーヒーをすすった。続きを促している。未夜子はちらりと良太の目を見て、すぐに本棚の方に目を移す。
「小学校以前の写真はないのか?」
「ないよ」
間を入れることなく返事をし、コーヒーを一口飲む。
「どうしてだ? 確か秋津って一人っ子だよな? 普通あるんじゃないのか? 生まれた直後の写真とか、幼い時の誕生日の写真とか」
「ないよ」
未夜子の問いを、良太はさらりと交わす。
「どうしてないんだ? 火事で焼けたとか?」
コーヒーを飲みながら聞いてみる。
「俺、養子だからさ」
少し笑いながら良太が応える。未夜子の手が止まった。
「……ごめん」
「別にいいよ、謝らなくても。知らないんだから聞くのは当然だろ?」
うつむいてしまった未夜子に、良太はもう一度笑いかけてコーヒーをすする。
今まで何度か同じことを聞かれたことがある。アルバムの写真のこともそうだが、良太が両親とはあまり似ていないというのも原因だった。しかし、その度に良太は明るい笑顔で答えるようにしている。
別に無理に明るくしているわけではない。血の繋がりなどなくても、両親は自分を愛してくれているから。
「小学二年の時にこの家に来たんだ。だからそれ以前の写真はないよ」
「ふぅん……」
良太の明るい笑顔を見て、未夜子もこれ以上は気にしないことにした。
「ところで、どうしたんだ? 何か用なんだろ?」
思い出したように良太が口を開く。今更ながら、目の前にいる少女をまじまじと見つめた。
頭のてっぺんで結ばれた長い黒髪。釣り目がちの黒い瞳……
これは、蒼木未夜子だよな? そんなことを自問自答する。
何だか信じることができないのだ。いつも学校では一匹狼でいる少女が――先ほどまで、大鎌を持ち不気味な笑顔を浮かべていた少女が、自分の前で平然とコーヒーをすすっているなど。
どう声を掛けようと悩んだが、とりあえずお決まりの文句を切り出した。が、当の未夜子は、ん? と間抜けな声を出した口からカップを離す。
「どうしたの……って、それはアンタのセリフなんじゃないの?」
目を細めてニッと笑い、頬杖を付く未夜子を見て、良太は無意味に顔を赤らめてしまう。
「ま、いいか。突然押しかけたのはこっちだし……」
もう一口コーヒーをすすって、未夜子は突然真剣な眼差しになる。
「アンタには、全部見えてんだよね?」
「え?」
「とぼけないでもいいんだよ。……昨日も、今日も。鎌を持った私を見たんでしょう?」
良太はごくりと唾を飲んだ。少し戸惑いながらも、ぎこちなく頷く。
「いいんだよ、怖がらなくても」
ケラケラと高い声をあげて笑う未夜子を見て、良太は少し拍子抜けた感じになってしまう。
蒼木って……こんなキャラだったのか?
思わず溜息を吐いてしまった。その溜息の意味をどう取ったのかはわからないが、未夜子は気にしない様子でコーヒーをすする。
「蒼木家は代々死神を生業として生きている家系なんだ」
その話は、あまりにも唐突に出された。
まるで自分の趣味を言うかのように素っ気無くそう言ったため、注意して聞いていないとそのまま聞き流してしまいそうなほどであった。
余りにもさらりと言われてしまったので、良太は一瞬呆気に取られてしまう。
「へ?」
未夜子はまっすぐにこちらを見つめている。
「しに……がみ……?」
「そう」
未夜子が大きく頷く。良太は頭が真っ白になるのを感じた。
「だから、アンタが見た鎌を持ってる私は死神ってわけ。わかった?」
片手をぴらぴらさせながら未夜子は一気にコーヒーを飲み干す。その正面で、良太だけが状況が飲み込めない様子で呆然としていた。
死神……漫画や小説の世界ではよく見かけるが、まさか現実の世界にそんなものが存在するのか?
それに良太が思う死神とこの目の前にいる自称死神の少女は余りにもイメージがかけ離れていた。
「あ、今『自分が思ってる死神のイメージと全然違う』って思ってるだろ」
良太の表情を読み取り、未夜子は唇を尖らせる。
良太の方はと言うと、自分の心の中が読まれてしまったのではないかとドギマギしてしまう。沈黙を答えととったのか、未夜子は大きく溜め息を吐いた。
「黒いマント、骸骨の仮面、大きな鎌……あんたが思い浮かべているような死神ってのは大体想像がつくよ。ま、セーラー服の死神なんて、誰も信じないか、ははっ」
それ以前に死神なんて存在を誰も信じない。
良太は胸中でそう思った。実際に今も半信半疑なのだ。だが、未夜子は一人でケラケラと笑い、面白そうに良太の顔を覗き見る。その大きな瞳に見つめられ、良太は思わず生唾を飲んでしまう。
しかし、そんな未夜子の瞳にふっと影が差す。
「でも……本当のことだから仕方がないんだよね」
喉の奥から絞り出したような声。良太はドキドキしながらも、何だか自分が悪いことをしてしまったような気がしてしまった。
「あ、あのさ……」
何か声を掛けなければ。そう思いながらも、良太はどう声を掛けようかと視線を宙に泳がせる。その時だった。
「ちょっと、男ならもっとシャンとしてよね!」
「!?」
どこかから、女の声が聞こえてくる。良太は驚いて辺りを見回す。が、誰もいない。
「あ、あれ? 今誰かの声が聞こえなかった?」
良太は目を白黒させながら未夜子を見る。未夜子は額に手を当てて軽く天井を仰ぎ見ていた。
「沙羅……もう少し大人しくできないの?」
溜息を吐きながらそう呟く。
「あら、私はもう充分大人しくしていたわよ?」
未夜子の声に女が答える。そのどこから聞こえているかよくわからない声に良太は眉根を寄せた。
「蒼木……? 誰と話してるんだ?」
「……仕方ないなぁ。出ておいで、沙羅」
言いながら未夜子は右手を上げる。すると、その手の平の中に突然あの大鎌が姿を現した。
「! それは……!」
「そっか。秋津は初めてじゃなかったね、これ見るの」
言いながら、未夜子は慣れた手付きで軽く鎌を振りまわす。それは見た目よりずっと軽いのか、未夜子の小さな手の中でくるくると踊るように回った。
「紹介するよ、私の相棒の沙羅」
回転を止め、刃の部分をビシッと良太の首元に付きつける。良太は思わず後ろに両手を付いてしまう。
「あ……相棒?」
その声が上擦っているのがよくわかる。未夜子はまた声を出して笑った。
「未夜子、そんなに笑っちゃ失礼よ」
また、あの声が聞こえてくる。だが今度はその声の発声元はハッキリとしていた。それは、少女の手に収められている鎌。
「喋った!?」
耳を劈く声が部屋に響く。未夜子は笑うのをやめて体をビクリと震わせた。
「び、びっくりしたぁ〜。いきなりそんな大声出さないでよ」
胸を撫で下ろす未夜子の前で、良太はまだ口をぱくぱくとさせていた。
「駄目よ未夜子。普通の人にとったら鎌が喋るなんておかしなことなんだから」
未夜子をなだめるように鎌が口を挟む。
「あ、そうか」
人差し指を唇にあて、未夜子は鎌に向かって微笑む。
「私はずっと沙羅と一緒だったからさ、私からしたら喋らない鎌の方が変な感じがしちゃうよ」
そんな会話を交わしながら二人してクスクス笑い出す。良太はどう反応したらいいのかわからず、ただただ呆然とその光景を眺めているだけだった。そんな良太の視線に気がついたのか、未夜子があぁ、と呟いて鎌の刃を上に向けて立てた。
「じゃ、改めて紹介するね」
一息吐き、軽く鎌を振り回す。
「この鎌が、私の相棒の沙羅だよ」
「よろしく」
未夜子の言葉に彼女の手の鎌――沙羅が続ける。
その声に良太は聞き覚えがあった。未夜子より少し高めの張りのある声。それは、昨日学校の屋上で聞いた声。
もう良太には何が起こっているのかさっぱりわからなかった。
自分を死神だと名乗る少女。その少女の相棒だという喋る鎌。
良太は頭が痛くなってくるのと同時に、これから何が起こっても驚かないでいれる自分と、少しだけ未夜子に近づくことができたことに喜びを感じている自分がいることに気がついた。
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