夜魂鎮歌
序章
雨が降っていた。
まだ、梅雨に入って間もない日のこと。
時刻は午後九時。朝の天気予報で夜から雨が降るとは聞いていたが、今日は寝坊をしてしまい折り畳み傘を鞄に入れるのを忘れてしまったため、塾に通って帰りが遅くなってしまった秋津良太は仕方なく雨に濡れながら家路に着くことを余儀なくされてしまった。
六月とは言え、雨の夜はなかなか冷え込む。特に今日の良太は素肌の上に長袖のカッターシャツを着ているだけである。雨に濡れたシャツが肌に張りついて、気持ち悪いことこの上ない。
学友達は皆、まだ寒いからと冬服を着用しているのだが、根が真面目な良太は六月の衣替えと同時に冬服をクリーニングに出してしまったため、夏服を着るしか選択肢はなかった。その事を、今更ながら少しだけ後悔する。
しかも長袖のカッターシャツは一枚しか持っていない。もしこれが今日中に乾かなかったら明日は半袖のシャツで学校に通わなければならなくなってしまう。それだけはどうしても避けたいところだった。
良太は少しでも長い間シャツを乾かすことができるよう、足を急がせる。
リュックサックを頭に乗せ、少しだけ雨を防ぐ。もう家まで五〇〇メートルもない。他に誰もいない住宅街を、良太は水溜まりを蹴りながら走る。街灯で時々腕時計を確かめながら良太は二丁目の角を曲がった。
だが、そこで足を止める。あれ? と小さく呟いて目を細めた。
遠くに誰かがいたような気がしたからだ。街灯を浴びている二つの影。良太は雨のせいとは違う寒気を感じた。
そこにいるのは街灯を浴びている二人の人物。二人共良太の存在にはまだ気づいていないようだ。良太は電柱の影に隠れ、二人を交互に見やった。
一人は背広を着た二十代前半ほどの男。サラリーマンだろうか、雨に濡れぐったりと壁にもたれかかって座りこんでいる。
もう一人は、その男の前に佇んでいる人物。長い黒髪を頭の上で一つに縛り、こちらも傘も差さずに全身を雨に濡らしている。赤いリボンのついた紺のセーラー服を着ていた。
少女は神妙な面持ちで男を見下ろし、その場から微動だにしない。その手には、少女に不釣合いな物が握られている。
(刃物!?)
良太は目を見開く。そして、少女が持っている物をじっと観察する。
それは、長い柄の下に弧を描いたとても大きな刃物が付いた物。良太は思わず息を呑んだ。
(……鎌……?)
それはどう見ても鎌であった。しかし、良太はあんなに大きな鎌を見たことがない。小さい頃、農家をやっている祖父の家で農作業用の鎌を見せてもらったことがあるが、あの少女が持っている鎌は少女自身より大きい物だった。
良太は電柱から少しだけ顔を出す。まだ少女は男を見下ろしている。男も女もピクリとも動かなかった。
静寂だけが二人を包んでいた。雨音だけが虚しく響き渡っている。良太は意味もなくドキドキしてしまった。どうしてか、その場から動くことができなくなってしまっている自分に気がつく。声を出すことすら困難で、息を止め、じっと二人を見守るのが精一杯だった。だが、その時、
(!)
少女が動いた。
大鎌を両手で握り締め、ゆっくりと持ち上げる。夜の闇のせいか、表情は伺えない。
「……まだ、未練があるのか?」
結構な距離があるのに、少女の囁きは良太の耳にまで届いた。
それは、蚊のなくようなか細い声。女の子にしては少し低めの、だが心に重く圧し掛かってくる声。
「だが、もうお前はこの世にいてはいけない存在なんだ……安心しろ、苦しみはない」
言いながら、少女は鎌を握りなおす。すると男の体に異変が起きた。
全身が淡く光りだし、白い靄のような物が男の体から抜け出てきているのだ。その靄は男の頭上に集まり、小さな雲のようなものになる。
「……そうか、わかってくれたか……」
その靄を見て、少女は声を和らげた。どこか安堵したような、そんな呟き。
「成仏しろよ……」
誰にでもなく少女は呟いた。次の瞬間、
(!)
良太は息を呑んだ。
少女が、何の躊躇いもなく大鎌を男の首に振り下ろしたのだ。鎌が風を切る音が辺りに響き、ポニーテールが雨水を弾く。
「うわあああああああ!!」
「!」
良太は溜まらず叫び声をあげてしまう。少女がハッとこちらを向いた。その時、わずかだが目が合う。
少女は驚いたような表情でこちらを見ていた。その少女の顔を見て、良太は愕然とする。
「……お前は……」
少女が何かを言おうとする。だが、次の言葉を聞く前に良太はくるりと踵を返してしまう。
「ま、待て!」
少女が手をあげて制しようとするのも聞かず、良太はそのまま意味不明な叫び声をあげながら一目散にその場から走り出してしまった。
「秋津!」
少女が良太の名を呼ぶ。
だが、すでに良太は角を曲がって少女の視界から姿を消してしまっていた。少女はやり場のなくなった手を力なく下ろす。
「……見えていたの?」
先ほどの少女より少し高めの声が、どこかから聞こえてくる。少女は口元に手を当て、何か考え事をしているような仕草を見せるが、しばらくしてから顔を上げる。
「……明日、確かめてみるさ……」
その呟きは雨音にかき消されてしまった。少女は、雨に濡れたままぎゅっと鎌を握り締めた。
六月の雨だけが少女を見下ろしている。
もう、男の体から白い靄は消えていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
良太はあれからでたらめにあちこちを走り回ってしまい、いつもの倍以上の時間を要して家に辿り着いた。もう頭から靴の中まで雨でぐしょぐしょになってしまっている。
元々体が弱いので、心臓がいつも以上に激しく鼓動している。
気を落ち着けようと、肩で大きく息をして、良太は乱暴に靴を脱ぎ捨てた。そのまま風呂場に直行する。途中で母親に声をかけられたがそれは無視した。
そんなことより、考えなければならないことがたくさんありすぎたのだ。
(……お前は……)
熱いシャワーを浴びながら先ほどの少女の顔を思い出す。それは嫌なくらい鮮明に思い出された。
釣り目がちだが大きな黒い瞳、青白いとも見える肌、桜色の小さな唇……
あの全てに、見覚えがあった。今思えばなぜ最初に見た時に気づかなかったのだろうと不思議に思う。少女の着ていたセーラー服……あれは、毎日見ている物ではないか。
少女と初めて会ったのは新学期の時、それ以降、テストの結果発表の度にその名をこの目にしていたのに……
クラス内でも孤立し学校もよく欠席し、休み時間と放課後はいつも窓から外を眺めている少女。良太は教室の前を通る度に彼女の頭に結われた髪を眺めていた。少女の背は、いつも寂しそうな哀愁を漂わせていて……
「蒼木……?」
良太は、一言一句、確かめるようにその名を呟いた。
そう、先ほど出会った少女は、隣のクラスの蒼木未夜子――その人だった。
その日、秋津良太は死神を見た。
第一章 * 闇へ誘う
次の日、重い頭を持ち上げて良太は目を覚ました。途端に、昨日の出来事を思い出してしまう。……大鎌を振り下ろしていた、隣のクラスの少女。
だが、どこか記憶が曖昧だ。ちらりと見ただけだからかもしれないが、本当にあの少女が蒼木未夜子だったのか、よく思い出すことができない。昨日は風呂からあがった後、すぐに自分の部屋に戻って眠ってしまったからかもしれない。
ひょっとしたら昨日のことは夢ではなかったのか? 勉強に疲れて見てしまった幻影ではないのか?
そう思いながら、良太は部屋を出て一階に下りる。洗面所で顔を洗うと、そこでやっと完璧に目が覚めたような気がした。リビングへのドアを開けると、ベーコンの焼けるいい匂いが漂っている。
「あら、良ちゃんおはよう」
「おはよう」
母の昌子がフライパンを持ったまま台所から笑顔で顔を出す。まだ三十代後半で若々しく見える昌子に、良太はまだ頭が少しだけ痛んだが無理に笑顔を作って答えた。
「ご飯もうすぐできるから待っててね」
そう言い残して母はさっさと台所に戻ってしまう。良太はテーブルにつくとそこに置かれていた新聞に目を通した。
その時、また昨日のことを何となく思い出してしまい、そのことが記事になっていないか目で追ってしまう。
だが、それらしい記事は欠片も載っていなかった。当たり前だな、と思いつつも少しだけ期待していたのでなんだか拍子抜けしてしまった。その時、母が朝食を運んでくる。
良太の父は良太がまだ寝ているうちに家を出てしまうため、一緒に食事をすることは滅多にない。母と二人で食事をするのはいつものことだ。今日もそんな一日が始まる。
「そう言えば良ちゃん、知ってる?」
「何が?」
良太がベーコンエッグを口に頬張っている時に、母が思い出したように尋ねてくる。
「昨日ね、二丁目で人が死んだらしいわよ」
二丁目。その言葉に良太は箸を止めてしまう。しかし母はそんな良太の異変にも気づかずに食事を食べながら続ける。
「酔っ払った人が道端で泥酔しちゃってね、ほら、昨日雨で結構冷え込んでたでしょ? だからそれで死んじゃったらしいのよ。怖いわよねぇ。お父さんがあまりお酒を飲まない人で良かったわ」
「へぇ……」
母の言葉を聞きながら、良太は全身が熱くなるのを感じていた。
二丁目、昨日のあの夜のこと。雨に打たれて項垂れている男に大きな鎌を振り下ろした少女の姿。
「ごちそうさまでした」
「あら? もういいの?」
「うん、今日はちょっと早く学校に行かなくちゃいけないから」
良太は苦笑いを浮かべて席を立つ。
嘘を吐いてしまった。早く学校に行かなくてはいけないことはない。ただ、これ以上母の話を聞きたくないだけだった。
逃げるようにリビングを飛び出し、良太は自分の部屋に戻った。カッターシャツが乾いているのを確認してから制服に着替え、玄関に向かう。
「良ちゃん、お弁当お弁当」
家を出る前に母に弁当を手渡され、良太は学校へと足を急がせた。
本当はまだ頭が痛む。学校を休んでしまおうかとも考えたが、今日だけはどうしても休むわけにはいかなかった。
今でもまだ鮮明に思い出される、昨日の夜の出来事。
あのことが夢ではないと実証されない限り、この頭痛がなくなることはないだろう。
良太は知らず知らずの内に走り出していた。
良太は学校に着くと、クラスメイトへの挨拶もそこそこに鞄を机に置いて真っ先に隣の2―Bに駆け込んだ。
「あれ? どうしたんだ、リョータ」
すると、友人の西川が声を掛けてきた。良太は苦笑いを浮かべながらクラスを見回す。まだ予鈴前ということもあり、教室には半分も生徒は埋まっていなかった。
「なぁ、西川」
「ん?」
良太に声を掛けられ、西川は読んでいた漫画本から顔を上げる。
「蒼木、来てないか?」
良太がその名前を出すや否や、西川は目を真ん丸くさせる。
「蒼木? あいつに用なのか?」
意外だ。と言わんばかりに机に漫画本を閉じて置き、良太の方に向き直る。その顔はきらきらと輝いていて、誰から見てもわかるほど好奇心に溢れていた。良太は一歩だけ後ろに下がってしまう。
「ま、まぁな。用ってほどじゃあないんだけど……」
「ん〜、残念。蒼木はまだ来てないみたいだな。俺はいつも早めに学校来てるけど、蒼木は確かいつも本鈴ギリギリに来てるんじゃなかったかな? 一時間目が終わった後に来たらどうだ?」
そう言われ、良太は素直に頷いた。
「そうだな……そんじゃ一時間目の後に来るよ。サンキュな」
踵を返し、教室から出ようとする。が、シャツの襟首をむんずと掴まれてしまう。
「な、何だよ西川」
西川の手を振り解き、良太は後ろを向く。そこには満面の笑みを浮かべた西川が立っていた。
「良太クン、悪いが蒼木はやめておきなさい」
良太の肩に手を回し、一人で大きくうんうんと頷く。
「はぁ?」
「確かに蒼木は背も高いしスタイルも良くて美人だ。でもあいつはダメだな。まるで男に興味がないんだ……いや、それどころか他人にてんで興味を持っていない」
空いた方の手を顔の前で軽く横に振り、西川は苦悩の表情を浮かべた。それは、良太を憐れむ瞳。
「あんな奴を好きになっちまうなんて……お前も報われない奴だなぁ……」
ついには嘘泣きまで初めてしまった西川を見て、良太は大きく溜息を吐いた。もう、何も言い返す気が起きない。
「でも俺はお前の味方だからな! あぁ! 俺はなんて優しい男なんだろう! リョータもそう思うだろ? な? そう思ったら俺に今日の昼食を奢ってくれ」
「何でそうなるんだよ!」
肩に回された西川の手を振り解き、良太は顔を真っ赤にさせながら自分の教室に戻って行った。後ろでまだ嘘泣きを続けている西川はとりあえず無視することにする。
すでに予鈴は鳴ってしまっていたらしく、もう教室の四分の三が埋まっていた。良太は無言で自分の席についた。しかし、一人になってしまうとどうしても落ち着かない。良太は知らずの内にあることを思い出してしまっていた。
蒼木未夜子。
初めて彼女を見たのは、二年の始業式の時だったと思う。
秋津・蒼木ということで、二人共出席番号が一番だったので、必然的に体育館の一番前に立たされていたのだ。
そして、その時に彼女を忘れることのできない出来事が起こった。
B組のすぐ後ろの女子がやけに騒がしかったので、良太がちらりとそちらの方を覗き見ようとしたのだ。だが、その女子を素通りして、良太の目に彼女が写った。
それが蒼木だった。
切れ長の大きな瞳、紅も刺していないのに赤い唇、腰ほどまであるのではないかと思うくらい長い黒い髪、その全てに良太は魅入ってしまった。そこらにいるようなけばけばしく自分を着飾っている女生徒とは違い、自分らしい美しさを放っている蒼木は、そこに立っているだけで存在感が全身から溢れ出ていた。
蒼木は、まだ騒がしくしているクラスメイトにさすがに嫌気が差したのか、ゆっくりと彼女達の方を向く。そのさり気ない仕草にさえ良太はドキリとしてしまう。
その蒼木の視線に気がついたのか、それだけで騒がしくしていた女達は顔を青くさせてピタリとおしゃべりをしていた口を閉じた。
「五月蝿い」
蒼木は表情を変えずに小さくそう呟いた。地の底から涌き出てくるような、威厳のある声。女達はヒッと小さな叫び声をあげ、それきり式が終わるまで黙り込んでしまったのだ。
良太はすごいと心中で思い、そして気がついた。蒼木未夜子。その名前はいつも見かけていた、と。
良太は、自分で言うのも何だが頭が良い。予習復習を毎日きちんとしているおかげか、高校に入学してから今まで、毎回学年一位の成績を収めている。そのことが良太のたった一つの自慢でもあった。
そして、テストの順位発表の時、良太はいつも隣に書かれている少女の存在が気になっていた。それがあの蒼木未夜子である。
良太がいつも一位なのに対し、未夜子もいつも二位の成績をキープしていたのだ。良太はその少女のことが気になり、未夜子と同じクラスの友人に彼女のことを聞き出したことがあるのだ。だが、そのクラスメイトも蒼木のことはあまり知らないのだという返答をしてきた。
蒼木はいつも一人でいた。
どうやら群れを成して行動するのが嫌いらしく、毎時間自分の机でぼうっとし、学校の行事などもいつも欠席しているらしいのだ。目つきが悪く、口が悪いせいもあるのか、危ないバイトをしているだの実はどこかの暴力団の組長だのという良くない噂も決して少なくはなかった。
良太もいくつかの噂を耳にしてはいたが、どれも噂の域を越えてはいないものばかりだ。根も葉もない噂は本人に失礼であると理解している良太は、それ以上耳を貸さないでいた。
だが、今日になってその噂が全て脳裏に思い出されてしまう。
雨の中佇む一人の少女。その手には大きな鎌が握られていて……
そのことを思い出してしまい、良太は軽くかぶりを振った。しかし、考えるのをやめようと思えば思うほど、昨夜のことばかりを考えてしまう。
(……早く、早く休み時間になれ……)
良太は呪文のように何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
その時間の授業は、まるで頭に入らなかった。
一時間目の授業終了のチャイムが鳴る。それとほぼ同時に良太は教室を飛び出した。Bクラスの扉を開け、蒼木の姿を探す。
だが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。小首をかしげている良太に気がついたのか、クラスメイトと話していた西川が立ちあがった。軽く手を上げ、良太の方に歩み寄ってくる。
「蒼木ならどっかに行ったぜ」
開口一番、そう言った。
「え?」
「いや、さっき言うの忘れちまったんだけど、あいつたまに休み時間にどっかに出かける時があるんだよ。
多分、屋上だと思うぜ。屋上で見かけたって誰かから聞いたし。でもそれで次の授業をサボることはザラだぜ? 今日もサボるんじゃないか?」
「そうなのか……?」
「お前も本当に厄介な奴を好きになっちまったなぁ……友人として同情するよ」
そう言い、西川は両手で顔を覆って再び嘘泣きを始める。
「誰もそんなこと言ってないだろ……」
やれやれといった風に良太が溜め息を吐く。すると西川は顔をあげ、ん? と良太を見る。
「なんだ、お前蒼木のことが好きなんじゃないのか?」
「だから、誰もそんなこと一言も言ってないだろ?」
「なんだ、つまんねー」
「……そういう問題なのか?」
「俺にとってはね。ま、どっちにしろ頑張れよ。蒼木の人嫌いは一筋縄じゃいかないだろうし」
そう言い終わると、西川は手を振りながら自分の席に戻っていった。残された良太は一瞬どうしようか迷ってしまう。その時だった。
「っ!」
ズキリと、頭が痛んだ。良太はわずかに顔を歪める。
そうだ……何を迷っているんだ……
軽く頭を押さえ、良太は唇を噛み締めた。その時、二時間目の授業の開始を告げるチャイムが鳴る。だが良太は、教室とは逆の方向に向かって走り出していた。
良太は屋上への扉を開けようとドアノブを握り締める。が、そこで動きが止まった。
「……ねぇ、未夜子」
扉の向こうから、少し高めの女の声が聞こえてくる。
「ん?」
次いで返って来たのは、先ほどとは違う声。この声には聞き覚えがある。蒼木未夜子だ。
「昨日の男の子のことだけど」
高めの声の女がそう聞いてくる。良太はビクリと体を震わせた。『昨日の男の子』……これはひょっとして、自分のことではないだろうか。
「……そのことは聞かないで」
だが、未夜子は溜息混じりにそう言い返した。女も溜息を吐きながら聞き返す。
「あなたねぇ、そういうわけには行かないでしょう?」
「…………」
「未夜子」
少し鋭い声が返ってきた。もう、未夜子の返答はない。
蒼木の他に誰かいるのか……? 良太は無意識の内に扉に耳をくっつけていた。
こう言うのは失礼かもしれないが、蒼木が友達といるところなど見たことがない。こうやって彼女の声を聞くことさえ稀なことだと思う。
しかも、今交わされている会話は昨晩のことではないのか? 良太は注意深く二人の会話を聞き取ろうと耳を扉にピッタリと付ける。が、
「うわあ!」
突然扉が開き、次の瞬間良太の体は前に倒れ、地面に前のめりになってしまう。ベチャ、という無様な音が辺りに響いた。
「秋津……?」
「や、やぁ……」
良太は鼻の頭を押さえながら顔だけを上げる。そこにはフェンスにもたれかかったままこちらを呆れた顔で見つめている未夜子がいた。
いつもと同じポニーテール。学校の制服に紺のハイソックス……。傍目から見たらそこらにいる女子高生と何の変哲もない普通の少女だ。
そう、傍目から見ると。
「……ここの扉、壊れちゃってるからちょっと体重を掛けただけで開くようになってるんだよ」
腕組みをし、良太を見下ろしながら扉を指差す。その顔には先ほどの呆れた表情はどこにもない。そこにあるのは怒りの形相だった。
「で? 盗み聞きとは趣味が悪いんじゃない?」
「え? あ、これは、その、えーと……」
良太は慌てて立ちあがり、膝を軽く叩いて弁護しようとする。が、
「……ごめん」
素直に、深く頭を下げた。どうも昔から嘘を吐くのが苦手だ。
「ま、いいけどね。ところで何しに来たんだよ」
未夜子は良太に背を向けてフェンスにもたれかかって座り込む。良太は恐る恐る顔を上げ、辺りを見回す。
「ちょっと蒼木に聞きたいことがあったんだけど……って、あれ? もう一人いたんじゃないのか?」
「え?」
良太の問いに、未夜子は普段より一オクターブ高い声を出してしまう。
「今、何て……?」
未夜子は驚いたような顔で良太を見つめる。その表情は昨晩のあれとあまりにも酷似していた。
やはり、昨日のあれは夢ではなかったのか……? 良太は眉根を寄せた。
「もう一人いたんじゃないのか? 誰か……女の人が」
まだ痛む鼻の頭を擦りながら良太は辺りを見回す。しかしそこには未夜子以外の人物は誰一人として見当たらない。
「なぁ、蒼木……」
そこまで言いかけ、良太は息を呑んだ。
良太と未夜子の間に、強い風が吹く。
未夜子はゆっくりとした動作で立ちあがる。両足をしっかりと地に付け、顔を少しだけ俯かせている。ぎゅっと握り締めた両手が、少しだけわなないているかのように見えた。
泣いている。良太は直感的にそう思った。
「聞こえたんだ」
その時、その場を一瞬にして凍りつかせてしまうような低い声が響き渡る。
未夜子は顔を上げた。目を見開き、良太を睨むようにじっと見つめている。その、獣が獲物を狙っているような目つきの鋭さに良太は寒気を覚えてしまう。
先ほど泣いているように思えたのは、錯覚だったのだろうか。
「アンタには、聞こえたんだ。アイツの声が」
もう一度、確かめるようにそう聞いてくる。良太は顔を引きつらせた。
「アイツ……?」
そう、聞き返してみる。その声が震えていることに自分でも気づいていた。未夜子は大きく頷く。
「私と、もう一人他の女の声が聞こえたんでしょ?」
「あ、あぁ……」
操られたかのように答え、良太は首を縦に振った。すると、その答えを待っていましたと言わんばかりに未夜子は突然口元を押さえて笑い出した。
「……なにがおかしいんだよ」
「いや、ごめん。なんでもない……」
口ではそう言っているものの、未夜子は笑いを止めようとはしなかった。その理由がわからないだけに、良太はその場に立ちすくむしかできなかった。
「何なんだよ一体……」
良太は溜息を一つ吐き、諦めて屋上から去ろうと扉に向かう。
「あ、秋津」
その途中、未夜子に呼び止められた。友達を呼ぶような、何気ない声。良太は後ろを向いた。
その瞬間、ドキリとしてしまう。両手を組み、小首をかしげてこちらをじっと見つめている美少女……未夜子の唇が弧を描いていたからだ。その、優しいともとれる笑顔に、良太の胸は高鳴った。
だが、次に未夜子の口から発せられた言葉は、良太の心臓を鷲掴みにするものだった。
「アンタ、生きてるの?」
「!」
その瞬間、全身を氷の針で突き刺されたような痛みが良太を襲った。それが未夜子の視線のせいだと気づくのに数秒かかる。
未夜子は余裕の笑みを良太に向けている。それが何を意味するのか、今の良太には知る由もない。
その場から一歩も動くことのできなくなってしまった良太の隣をすっと未夜子が横切った。
「……蒼木っ!?」
未夜子の姿が見えなくなり、そこでやっと呪縛が解けたかのように良太は後ろを振り向いた。だが、未夜子は無言のまま校舎の中へ消えて行ってしまう。最後まで、こちらを振り向こうとはしなかった。
その時、二時間目の授業終了を告げるチャイムが鳴った。そう言えば、昨晩のことは何も聞けなかったな……。良太は今更ながらそんなことを思い出す。
だが、今となってはそんなことはどうでも良かった。
全てを見透かしたかのような、未夜子の瞳。あの目に見つめられると決して嘘を吐くことができないと良太にはわかっていた。
だから……何も答えることができなかった。
(アンタ、生きてるの?)
あの問いに、答えることができなかった。
だって、自分自身でもよくわかっていないから。
……俺は、生きているのか?
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