後編

 家に戻った俺を待っていたのは、誰もいない廊下で鳴り響く電話の音だった。
 扉には鍵がかかっていたのでどうやらみんな出かけているらしい。まぁ、兄貴達がいないのはいつものことだが。
「はい、小畑です」
 鞄を背負ったまま、受話器を取る。
『お、英樹か?』
 受話器の向こうから聞こえてきたのは、久しく耳にしていない懐かしい声。
「兄貴?」
 自然と声が明るくなる。
 俺のすぐ上――二つ年上の兄、直樹だった。
『よかった、お前が出てくれて。親父だったらどうしようかと思った』
 そう言いながら兄貴は笑う。が、心底本当に安心したような声だった。兄貴の心情を察しながら、俺も軽く笑う。
「ところで、今日はどうしたの?」
 鞄を床に置き俺はその場に座り込んだ。少し火照っている体に床の冷たさが気持ちいい。
『いや、用ってわけじゃあないんだけど……』
「またしばらく帰ってこれない。か?」
 苦笑しながら聞く俺に、受話器の向こうで兄貴が息を飲む音が聞こえた。それを聞いて、俺は声をあげて笑う。
「兄貴の考えてることは大体わかるよ。親父に出られたくないのもそれが理由だろ?」
『そう単刀直入に聞くなよなぁ……』
 溜息をつきながら兄貴はそう呟いたが、内心はほっとしているのだろう。直樹兄貴は昔から言いにくい話を切り出すのが苦手なのだ。
「俺と親父のことは心配しなくていいから。兄貴は兄貴のやりたい通りにやりなよ」
 俺は無理に明るい声を出した。でも、兄貴達には自由に生きていてほしいと思うのも事実だった。今の自分みたいにレールの上を歩くような人生は、兄貴達には歩んでほしくなかった。
「それより俊樹兄貴と晴樹兄貴がどうしてるか知ってる? 全然連絡取れないんだけど」
『俺も兄さん達とは連絡取ってないからわからないけど……連絡取れたら言っとくよ』
「うん。よろしく。じゃあ、俺宿題やらなきゃいけないから」
 そう言って、受話器を切ろうとした俺の手を、兄貴の呼び声が止める。
『英樹』
「……何?」
 俺は受話器を持ちかえる。しばしの、沈黙。何故か俺はその場に固まってしまっていた。
『お前も、自分のやりたい通りに生きろよ。いつまでも親父の言いなりになる必要はないんだからな』
「…………」
 重い沈黙を破った兄貴の言葉は、俺の胸を痛いくらいに締め付ける。
『じゃあ、来週には帰るから』
 そう言い残し、兄貴は電話を切る。
 俺もゆっくりと立ちあがり、受話器を置く。
「自分のやりたい通り……」
 何気なく呟いた、小さな言葉。でもその呟きは、俺の思いを行動に起こすのには充分だった。
 無言のまま俺は玄関へと走り出す。急いで靴を履き扉を開ける。
 ……今やらなければ、いつやるんだ……?
 ぎゅっと、唇を噛み締める。俺は乱暴に扉を閉めた。


 第二章 * 少年の想い

 先日高橋を送り届けた時の記憶を頼りに、彼女の家まで辿りついた。あの時は夜だったし、ちゃんと道を覚えているか不安だったが、そんなに家が遠くないこともあり、なんとか迷わずこの家に辿りつくことができた。
『高橋』と書かれた表札を確認し、呼び鈴を鳴らす。チャイムの音が鳴り響き、しばしの沈黙が流れる。しばらくして、パタパタとスリッパで駆けてくる音が聞こえてきた。
 扉が開き、顔を出したのは四十代ほどの中年の女性。少しやつれているとも思えるほど痩せた体に、疲労の色が見て取れる顔をしていた。
「どちら様?」
 恐らく高橋の母親だろうその女性は、高橋とよく似た笑顔を見せる。しかし、こちらの笑顔には余り生気が感じ取られない。
「あ……俺、小夜さんと同じクラスの小畑と申す者なのですが、小夜さんはいますか?」
 高橋の母親は俺の言葉を聞いて、もともと血の気の良くなかった顔を更に青くする。
「小夜……ですか?」
「はい。小畑と言ってくれればわかると思いますが」
 しかし、高橋の母親は俺から視線を逸らし、少し考え込むように手を口元に当てる。しばらくの間、何かを考え、意を決したように俺の顔をじっと見た。
「小夜はいません」
「え?」
 反射的に聞き返してしまう。が、それきりその女性は黙り込んでしまう。やがて、疲れたように溜息をついて、顔をあげる。その顔には、先ほど以上に疲れが溜まっているかのように見えた。
「病院に行ってるんです。小夜は病気持ちですから」
 そう言うともう一度溜息を吐く。もうこれ以上聞かないでくれと言っているように思えた。
「そう、ですか……。すみません、失礼します」
 俺は無理やり口元に笑みを浮かべた。ここから逃げ出してしまいたいという気持ちをどうにか抑え込み、踵を返す。そして、一目散にその場所から走り去ってしまった。
 高橋の母親が何か言いたげに手を上げていたが、俺には再び振りかえる余裕さえ残されていなかった。その場から走り去り角を曲がった所で立ち止まる。大きく肩で息をし、手を膝に置く。心臓は今にも爆発してしまいそうだった。
「高橋……?」
 思い出されるのは、哀しいくらい切ない、あの瞳。俺は呼吸を整え顔を上げる。
「行かなくちゃ……」
 ふらりと、顔を上げる。
 幸いまだ制服のままだ。今ならまだ入れる。
 どうしてかと聞かれると、俺は何も答えることができないだろう。ただ、行かなければいけないと、そう感じたんだ。
 俺は、再び学校へと向かい走り出していた。

 学校に着いた時、すでに日は傾き始めていた。
 冬の冷たい空気が肌を突き刺すが、そんなことを気にしている余裕は無かった。俺は重い扉を押し開け、目の前に広がる風景を見つめる。
 いつもと何も変わらない、その風景……俺は、ゆっくりとフェンスの前に立ってみた。
ここが、この間高橋の立っていた場所……
 あの時彼女は、何を思ってここに立っていたのだろうか……
 あの美しい歌声も、神秘的な後ろ姿も、未だに瞼に焼き付いて忘れられそうにない。
自らの髪を切り落とし、そうまでして鳥になりたいと願った少女は、一体何を夢見ているのだろうか……
 その時、床で何かが日の光を浴びて光った。
 それは、色素の薄い長い茶色の髪。
「高橋……」
 小さく、呟いてみる。
その声は、誰にも聞かれることなく掻き消えていった。


 月曜の朝、高橋は学校に来ていなかった。
担任が来て、出席を取り終わっても、高橋が来る気配はなかった。誰も特に気にすることもなく、そのまま授業が進められてゆく。
 午前中の授業が終わり、昼休みが過ぎ、放課後が来ても、高橋は教室に現われなかった。
『ごめんなさい……』
 土曜日の高橋のあの瞳が、嫌なくらい鮮明に俺の脳裏にちらつく。
あの、何かを悟ったような、哀しい瞳。俺は妙な胸騒ぎを覚えた。
「なぁ、小畑。今日ゲーセン行かねぇか?」
 帰り際、田村が声を掛けてくる。が、
「悪い、今日は用事があるんだ」
 そうとだけ言い、俺は飛び出すように教室を出ていった。
 どうしてだろう……どうして、こんなにも高橋のことが気になるのだろう……
自問自答を続けていた。だが、いくら考えたところで、答えは出てきそうになかった。
それでも俺は、問い続けずにはいられなかった。


 そして、俺が辿りついた場所は……
 ギィ、と冷え切った扉を開く。夕焼けの眩しい光が飛び込んできて、思わず目を細める。
 そこに、彼女はいた。
 初めてここで会った時と同じ黒いワンピースを身に付けていて、こちらには背を向け、なぜかフェンスの向こう側に立っていた。そして、そのおぼつかない足元を支えるかのようにフェンスにもたれかかっていた。
 風でなびく肩口で切りそろえられた髪だけが、高橋の心情を表すかのように寂しく風になびいている。
「……高橋……」
俺は戸惑いながらも、肩で息をしながら哀愁の漂うその背に声を掛けた。
高橋は俺の声が聞こえていないのか、何の反応も見せずに、今にも風に飛ばされてしまいそうな体をフェンスで支えている。
「高橋!」
 大きな声で、もう一度その名を呼んでみる。そこで初めて高橋はピクリと肩を動かした。どうやら聞こえていなかっただけのようだ。俺はほっとして溜息をついた。相変わらずのゆっくりとした動作で高橋はこちらを向く。
その目が、少し赤かったように見えたのは気のせいだろうか……
「どうしたの? こんな所に……」
 俺が聞こうと思っていた言葉を、高橋は本当に不思議そうに聞いてくる。俺は一瞬呆気にとられたが、わざと意地悪く言い返してみた。
「高橋こそ……学校サボって何してたんだよ」
 嫌味だとわかっているはずなのに、高橋は微笑むだけで何も言い訳をしようとはしなかった。夕焼けが、高橋の頬を紅く染め上げる。高橋はくるりと体をこちらに向け、じっと俺のほうを見つめている。だが、逆行のせいで、その顔色は伺えない。
 沈黙が、二人の間に流れた。
 その沈黙が、嫌なくらい俺の胸に突き刺さる。夕暮れ時の冷たい風が、俺と高橋の間に吹いた。まるで、そこが俺たち二人の境界線だと言わんばかりに……
「鳥に、なろうとしたの」
 どれくらいの時が流れただろうか……。先に口を開いたのは高橋のほうだった。
軽く顔を上げて、空を仰ぐ。すると、仲の良さそうな二羽の鳥が静かに夕日に向かって飛んでいくのが見えた。
そんな鳥たちを見て、高橋の表情が今まで以上に柔らかくなる。
「鳥はいいよね。何も悩むことなんてないし、この空を自由に羽ばたける翼を持っている」
 だんだんと、高橋の表情が変わってくる。苦痛に歪んだような、恨めしいものを見ているような、そんな表情だった。
「だから、私は鳥になりたい。……うぅん、違う。私は鳥になるの」
 そう言った高橋の瞳は、憂いで満ちていた。夢現なそんな瞳を見て、俺は少し目を反らしてしまう。
「鳥になるって……どういう意味なんだよ」
「言葉の通りだよ」
 高橋の曇りのない声が耳に響く。その時俺は目を反らしたままだったのでその表情を伺うことはできなかった。だが、恐らくあの笑顔を浮かべていたのだろう。そう考えると目を逸らしていて良かったのかもしれないと、そう思う。
あの、今にも消えてしまいそうな哀しそうな笑顔。あれは今でも鮮明に思い出すことができる。そして、あの笑顔は俺を怖いくらいに狂わせるのだ。
 俺はそっと顔を上げてみた。……そして、愕然とする。そんな俺にはお構いなしに、高橋は言葉を続ける。
「私は鳥になって世界を飛びまわるの。もう、何も考えなくてもいいように。私は、鳥になるの。鳥になって、自由を手に入れるの」
 そう、本当に嬉しそうに高橋が言うので、俺は胸の奥に込み上げてきた何かを抑えることができなくなってきた。
 こんな無邪気な子供のように自分の夢を語る少女に、苛立ちを覚え始めたのだ。両手を握り締め、唇を強く噛んで俺は高橋を睨みつけた。
「お前は……それで幸せなのか?」
 唐突な俺の問いかけに、高橋は、え? と呟いて目を丸くする。そこで、俺はやっと高橋の顔を正面から見つめることができた。
「お前はそれで幸せなのか?」
 なおも問いかける俺に高橋は困ったような表情を見せる。が、最後にはやはりあの笑顔を見せた。
「うん、幸せ。この上ないくらい……」
「嘘だ」
 即答する俺に、高橋は眉をピクリと動かした。口元は未だ弧を描いていたが、その目は氷のように冷えきっていて、何の感情も見受けることが出来なかった。
「幸せです」
「嘘だ」
 再度言い返す高橋の冷ややかな声に、俺は同じ言葉を返す。高橋がフェンスからそっと手を離す。その時、一際強い風が吹いた。
「うわっ!」
俺は反射的に腕を顔の方にもってゆき、風を防ぐ。が、腕の隙間から見える高橋は、風に揺らぐことなく地面に足をつけたまま、じっとこちらを見つめていた。
その風を気にも止めないように、両手を下ろしたまま俺のほうを睨みつけていた。
「どうして……」
 その声は、怒気に満ちている。
「どうして、私の夢を奪おうとするの……?」
 怒りとも、悲しみともとれる声が響き渡る。
「私は鳥になりたいの。ただそれだけなのに……夢くらい見せてくれたっていいじゃない!」
 高橋の悲痛な叫びは、そのまま白い吐息となり、虚空へと消えていった。それでも高橋は肩で息をしながら俺を睨みつけている。
「じゃあ……どうして泣いてるんだよ!」
 たまらず、俺は叫んでしまった。
 俺の叫びを聞き高橋は一瞬呆気にとられ、そして次の瞬間驚いて自分の変化に気がついた。
 白い頬を伝う一つの雫――それは、涙。
「泣くなよ……幸せだって言うんなら、泣くんじゃねぇよ!」
 それは、懇願に近かったかもしれない。
拳を握り締め、俺は荒れ狂うように叫んだ。
 自分でも何が起こったのかまだよくわかっていないらしく、高橋は呆然と立ち尽くしたまま、涙を流し続けていた。
 その涙でにじむ瞳に、俺の姿は映っているのだろうか……それははわからなかったが、高橋はやっと事態を飲み込むことができたのか、わずかに目を細め、唇に弧を描いた。
もう、その笑顔を見たくないと思った。それでもなお高橋は笑顔のまま涙を流し続ける。あれは、余計に俺の胸を締めつけるのに……
「鳥が自由だなんて……そんなの勝手に決めるなよ……」
 やっと吐き出した言葉は、嗚咽と混じって声になっていなかった。それでも俺は言わずにはいられなかった。
「翼があったら……空を飛ぶことができたら、それだけで鳥は幸せなのか?」
 夕焼けに向かって飛ぶ鳥たち。あの鳥は一体、どこに向かうと言うのだろうか。
「例え空を飛ぶことができても、それで自由になれたわけじゃない。世界を飛んで飛びまわって、それでお前は何を得ると言うんだ? それで、お前は幸せになれるのか? もう涙を流すことはないって言えるのか?」
 先ほどまで空を飛んでいた鳥たちはもうすでに見えなくなってしまっていた。俺も高橋も、その鳥たちをずっと目で追いかけていた。
 日が沈みきり、辺りに静寂が訪れる。沈黙を破ったのは高橋だった。
「でも……私にはもう時間が残されてないの」
その呟きはあまりにも小さすぎて、俺の耳に届くことはなかった。
「え?」
 聞き返してみるが、高橋はスッと目を細めただけで、それ以上は何も言おうとはしなかった。
 月の光が、二人の間に差し込む。
 青白く照らし出された高橋の姿は、それだけで夢のような幻想をかもし出していた。
「小畑君」
 名を呼ばれ、俺は我に返る。高橋はこちらを向いたまま両手を広げ、静かに目を閉じた。
全身で、月光を受け止めながら……
 高橋の頬に、一筋の涙が流れた。
「最後に会えたのが……あなたで良かった」
 風が、凪いだ。
 その呟きは、まるで呪文のように俺の体の自由を奪い去った。
 俺の中で止まっていた時が、再び鼓動を開始する。呟きの瞬間、高橋は俺の視界から姿を消していた。
 両手を広げ、高橋はゆっくりと後ろに向かって倒れる。重心を失った足元は地面を踏み外し、首がガクンとのけぞり、白い喉を見せる。そして、そのまま何もない地面へと向かってゆっくりと落下していく。それでも俺は微動だにすることができなかった。
「……た……」
 呪縛が解けるのには、数秒の時間がかかった。
「高橋っ!」
 俺は慌てて駆け出し、震える手でフェンスをよじ登った。フェンスを乗り越えて下を見つめる。が、
「…………」
 何も、なかった。
乗り越えた先に見える校舎下には、高橋の姿どころか人の気配すら感じ取られなかった。
 いくら暗くなったからと言って、高橋の姿が発見されないのはおかしい。俺は慌てて屋上から出て、一階へと降りてゆく。
 階段を駆け下りる最中も、高橋の最後の笑顔だけが頭をよぎる。つまずいて転びそうになるが、それでも俺は走りつづけた。
一階に着き、上履きのまま外に出る。急いでさっき立っていた屋上の真下へと移動をするが、やはりそこには誰の姿も見つけることはできなかった。
 肩で大きく息をしながら、俺はその場に立ち尽くす。
「高……橋……?」
 誰に向けて言われた訳でもない俺の呟きは虚空をさ迷った。
 確かに高橋は、先ほどまであの屋上にいた。
そして、あそこから飛び降りた。それは俺自身の目でハッキリと目撃している。しかし高橋の姿はどこにも見当たらない。人が隠れるような場所はここにない。それ以前に高橋が俺を驚かして隠れるような理由が見つからない。
 それに、あの時高橋が見せた涙は本物であった。高橋は、何を思ってあの言葉を呟いたのだろう……。辺りを襲う静けさは、一体何を物語っているのだろう……
 高橋を探そうと、俺は視線を駆け巡らせた。すると、視線の隅に何か白い物があるのが見えた。慌ててそちらの方に駆け寄り、その白い物を拾い上げる。
「……羽根……?」
 それは、白い羽根だった。
手のひらに乗るほどの、小さな一枚の羽根……まるで天から降ってきたかのようなその純白の羽根は、自身が光を放っているように白く輝いていた。
 しばらくその羽根の不思議な輝きに魅入っていると、もう一枚、同じ白い羽根が空から降ってきた。
俺はその羽根も拾い上げ、それから思い出したかのように慌てて空を見上げる。
「!」
 そこに、それはいた。
 空に輝くのは、銀色の満月。
 空を舞っているのは、無数の星達。
 その月や星に彩られるかのように、そいつは優雅に翼を広げていた。俺が手に持っている羽根と同じ輝きを放っている翼を持つ、一匹の鳥。
まるでそこだけ世界が違っているかのように、不思議な空間を保っていた。
 その鳥を見て、俺は愕然とする。鳥は俺の上空を静かに飛びまわり、何枚もの羽根を散らしている。
「鳥……?」
 小さく、呟いてみる。
 無論、その声が誰かに届くことはない。
 上空の鳥は速度を速めることも遅くすることもなく、一定のリズムを保ってその場を飛びまわっていた。
 頬に、熱いものが伝うのを感じる。心臓の鼓動が、だんだん早くなってゆく。
「高橋……?」
 俺のその呟きと共に、純白の鳥はキィ、と鳴き声をあげた。その鈴の音色を思い出させる澄んだ鳴き声に、俺は身を震わせた。
 そして、その鳴き声を最後に、純白の鳥は長い尾で白い軌跡を描きながら、月へ向かって飛び去っていってしまった。
 俺は、ずっと見送っていた。
 その鳥の姿が見えなくなっても、白い羽根を握り締めながら、ずっと月を見上げていた。


 次の日学校に行くと、教室の中は騒然としていた。
 女子のすすり泣く声、男子の青ざめた顔、どれを取っても、朝の爽やかな学校の姿は欠片も見られなかった。俺は驚いた顔をしながら入り口で立ち止まってしまう。
「あ、小畑君……」
 すると、俺の姿に気づいた女生徒の一人が、ハンカチで口元を押さえたまま俺に話しかけてきた。その目は、赤く腫れてしまっている。
「一体どうしたんだ? 何かあったのか?」
 そうは言っておきながら、俺の脳裏に一つの出来事が思い出される。土曜に、高橋の家に行ったときのこと……。あの時、高橋の母親は何て言っていた?
 軽く視線を教室に駆け巡らせる。
 高橋の姿は、ない。
 精一杯笑ったつもりだった。が、それは自分でもわかるくらい苦しい作り笑いだった。
 しかし女生徒はそんな俺の表情にまで気を回せないのだろう。肩を震わせて俯いてしまう。
 俺は優しくその女生徒の肩に手を置いてやる。女生徒は目を俯いたまま頭を軽く振った。そして、すすり泣きながら呟く。
 嫌な予感が、した。

「……高橋さん……亡くなったんだって……」

 目の前が、真っ白になる。
「……え?」
「昨日のお昼頃……容態が急変したらしくて……その夜に、病院で……」
 昨日の夜?
 目の前に浮かぶのは、高橋のあの笑顔。
「……なに、言ってんだよ……」
(鳥に、なろうとしたの)
 闇夜の月を背に、彼女は風になびく髪を惜しげもなく切り落とした。
「俺、昨日の夕方会ったぞ? 屋上で……」
「え!?」
 一瞬にして、教室にざわめきが起こる。クラス中の視線が、俺に釘付けになる。
「屋上で……泣かせちゃったけど、でもいつも最後には笑ってくれてて……それで……」
 それで?
(幸せです)
 高橋は、いつも寂しそうな笑顔を浮かべていた。
(鳥になって、世界を飛びまわるんです)
 涙を流しながら、それでも鳥になりたいと訴えた。

(最後に会えたのが……あなたで良かった)

 月夜を飛んでいた、純白の鳥。
 あの鳥は、もしかして……
「どう……して……」
 頭がクラクラしている。目頭が、熱い。
「どうしてなんだよ……」
 震える膝をどうにもすることができず、俺はその場に座り込んでしまう。
「小畑!」
 もう、田村の声も俺の耳には届かない。
それ以上は、言葉にならなかった。
「…………!」
 学校中に響き渡った、悲痛な叫び声。
 それは、朝の爽やかさを微塵も感じさせない、獣の咆哮だったとも言えた。
 学校中の生徒が集まってきて、その視線が俺に集中する。
 だが、もうどうでもいいことだった。
 もう、高橋はいないのだから。

 いないのだから。


 高橋の母親からも聞いたが、彼女は病気持ちだったそうだ。
 本当なら、学校に来るのも駄目だと医者から言われているほどの重症なのだが、もう残り少ない命だと診断され、高橋たっての希望で今まで通り学校に行くことになったのだそうだ。
 しかし、一週間ほど前に病状が悪化。医者や両親は病院で安静にしてくれと頼んだらしいが、高橋はこれを断った。残り少ない命を、高橋は普通の女の子として過ごしたいと、そう願ったそうなのだ。
両親も医者も、最初は反対していたが、最後には高橋の意見を受け入れてくれ、学校に通わせてくれていたのだという。あと、何年生きられるのかわからない。そんな中で、高橋はこの数年を過ごしてきたそうだ。
 高橋を家まで送ったあの日……。あの日倒れたのは、この病気のせいだったのだ。なぜ、あの時に気づいてやれなかったのだろう。俺は悔やみきれない気持ちで胸がいっぱいだった。だが、高橋は幸せそうな顔をしていた。と、葬式の日に彼女の両親は言ったのを聞いて、俺は少しだけ胸の苦しみが取れたように感じた。
今までの絶望しきっていた顔ではなく、とても生き生きとした、今にも目を開けて微笑みかけてくれそうな、そんな死に顔だったと言う。
 昨日、俺と出会った高橋は一体誰だったのか……。あの鳥は、一体何だったのだろうか……
今となっては調べるすべもないし、もう、調べようとも思わない。
 だって、高橋の願いは叶ったのだから……
「あいつさ、幸せだったのかな……」
 葬式の帰りのバスで、俺はそんな事を田村に聞いてみた。
 高橋の遺影は笑っていた。家族や友人に……愛する人たちに向けられるような、そんな笑み。
 だが、俺は高橋のもう一つの笑顔を知っている。この世の全てを悟ったような、とても寂しそうな、あの笑顔……。あの笑顔を知っている人物が、一体どれだけいるのだろうか……
「さぁな……俺にはわかんねぇよ」
 田村は手を頭の後ろで組み、素っ気ない口調でそう言った。が、その声は田村の心情を表すかのように重く沈んでいた。俺は微かに苦笑する。だが、すぐにその表情は暗いものへと変わっていってしまう。
「……俺、高橋が好きだったな……」
 ポツリと、そう漏らしてみる。
 別に田村は驚いた様子もなく、俺の背を軽く叩いてくれた。
「そっか……」
 暖かみを含んだその声が、俺の中の何かを破裂させた。バスの中から見える空は、どんよりと曇っている。そして、俺がすすり泣くのとほぼ同時に、大粒の雨が降り出した。


 あれから、二ヶ月が経った。
 学校も落ち着きを取り戻し、すでにいつも通りの授業風景が見られるようになった。俺も以前と何一つ変わらない生活を送っている。
 田村から聞いたのかどうかわからないが、俺の前で高橋の話をする人は誰もいなかった。
 そう、俺はもう、今までと何も変わらない生活を送っている……
 ただ、一つのことを除いては……


 高橋が死んで、二週間が過ぎた頃からだろうか、学校で一つ不可解な事件が起こっているという噂を聞いたのは、クラスの女子からだった。 その事件の発端は、学校の屋上。
 ほとんど誰も立ち入ることのないその屋上に、一輪の花が添えられていると言うのだ。
 いつ、誰が、何のためにそんなことをしているのかは、一切わからないと言う。
 屋上のフェンスに添えられているその花は、誰のために捧げられているのかと一時期は学校の新聞部を賑わせたものだったが、もう二ヶ月も過ぎた今となっては、誰も疑問に思う者などいなく、ほとんどの人間からは忘れさられてしまった出来事だった。
 ただ、週に一度だけ屋上に掃除をしに来る生徒達の証言によれば、その花は枯れることなく、毎日取り替えられているらしい。

俺は今日も屋上に来ている。
その手に握られているのは、一輪の花。
 肌を刺す北風に身を震わせながら、俺はゆっくりとフェンスに花を置いた。
 それは、一日も欠かしていない日課。

 その日の放課後、進路希望の紙が配られた。
「面倒だよなぁ。もう進路のことを考えなきゃいけないなんてよ」
 田村のぼやきを聞きながら、俺はすらすらとペンを走らせる。
「お前はもう進路決めてるのか?」
「まぁな」
 田村が覗き込んでくるので、俺は紙から手を離す。田村は俺の書いた字を目で追って、
「T大の……医学部?」
 第一希望に記入してある大学を読み上げる。
「お前、医者になりたいのか?」
「あぁ」
 俺は紙を机に置き、窓から空を見上げる。
「……そっか」
 田村も、頬杖をついて俺の視線を追う。
「お前なら、いい医者になれるよ」
 俺は微笑んだ。隣で田村も笑ってくれている。
 それが、とても心強くて……

 どこまでも続く青い空。
 あの白い鳥も、この空の下を飛んでいるのだろうか……
 そんなことを考え、俺は太陽の暖かさを全身で感じながらゆっくりと目を閉じた。

 いつもと変わらない、澄み切った空を見上げたその日、俺は医者になることを決意した。

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